名将の病、林全の進言
慕容恪が国政を司り、その類稀な才能をいかんなく発揮している一方で、林全は彼の身を案じていた。未来の記憶が、慕容恪がこの後まもなく病に倒れるという悲劇を告げていたからだ。彼は、その歴史の歯車を少しでも遅らせるため、病が深刻化する前に動く必要があった。
ある日の夕暮れ、林全は太原王の邸宅を訪れた。夕日が邸宅の庭園を赤く染め、その美しさとは裏腹に、林全の胸には重い決意が宿っていた。
「慕容恪殿。誠に不躾ながら、一つ進言がございます。政務は、陛下と共に司り、皇帝を導いていただきたい」
林全の言葉に、慕容恪は静かに筆を置いた。その表情には、わずかな動揺と、長年の重圧が刻まれている。
「林全殿。そなた、予を不敬として始末しようとでも? 予は、陛下を傀儡になどしておらぬ。ただ、未熟な陛下に代わり、この国を支えているだけのこと。そなたの進言は、無用な警戒心を煽るだけだ」
その言葉に、林全は静かに首を振った。
「慕容恪殿。あなたは、すでに病に侵されています。その身で、国政の全てを担うのは、あまりに無謀。どうか、ご自身の身を大切になさってください」
林全の言葉は、まるで鋭い矢のように慕容恪の心を貫いた。彼は驚き、林全を凝視した。慕容恪が秘匿していた病の症状を、林全はまるで見てきたかのように正確に指摘したのだ。
「なぜ……なぜ、そなたがそれを……? 予は、誰にもこの事を話したことはない……」
「あなたの病は、誰にも言えぬ心の重圧が生んだものです。政務から身を引き、療養に努めてください。そうすれば、病も癒えるでしょう」
慕容恪は、林全の言葉に嘘偽りがないことを悟った。彼は、林全の才覚と人柄を改めて認め、心から信頼するようになった。
(この男は、予の心を見通している。そして、予を、この燕を案じてくれている。この男こそ、真にこの国の未来を背負うに足る人物かもしれぬ……)
慕容恪は、林全の進言に従い、政務の表舞台から身を引いた。彼は、自身の権限を徐々に縮小させ、代わりに慕容暐の権力を大きくしていった。療養中は、林全も慕容恪に代わって国政に携わることになった。
慕容暐は、林全を深く信頼するようになった。そんな折、林全は慕容暐に一つの提案をした。
「陛下。この国を一つにするため、まずは自らの過ちを認め、李績殿を呼び戻すことを提案いたします。彼の才能を、この燕のために活かすべきです」
慕容暐は、林全の進言を承諾し、李績を中枢に召喚し、非公式に謝罪した。
「李績よ。朕は、過去の過ちを深く恥じている。どうか、この燕のために、再びその才を振るってほしい」
この一件は、慕容暐が真の皇帝として自立する、大きな一歩となった。
慕容恪も、療養して気力を養えたのか、ある程度の政務を熟せるようになった。彼は、若き皇帝の成長と、林全の活躍を喜ばしく見守っていた。
皇太后可足渾氏は、皇帝が自立できたことを喜び、この機に乗じて林全と慕容覇を排除しようと企んだ。しかし、慕容暐は、これに毅然と反対した。
「母上。朕が皇帝たらんとするは、ひとえに林全の功績にございます。呉王(慕容覇)は、宗室で父の弟、朕の叔父でもあります。大きな過ちもなく、先の晋を撃退した功労もある。故に、そのことには同意できません!」
慕容暐の力強い言葉に、皇太后は漠然とその場から崩れた。慕容恪は、若き皇帝の成長を目の当たりにし、心から安堵した。
しかし、慕容暐は政務を司りながらも、演武に熱を入れ込むようになった。林全は、これを全力で止めた。
「陛下。春の狩り、秋の狩りと同様、演武も頻繁にやるものではありません。民の生活が第一、国政にこそ、お心をお向けください」
林全の諌めにより、慕容暐は演武の回数を月に一度と定めた。
慕容雪は、息子の慕容虎を慕容暐の近侍として仕えさせた。慕容虎は、林全が父親だと一切知らずに育ったため、林全を「兄」と呼び、その兵法の一切を学んだ。
ある日、慕容暐は慕容虎に問いかけた。
「虎よ。そなたの父(林全)は、そなたに何を教えた?」
慕容虎は、力強く答えた。
「父は、ただ武勇を磨くことのみを教えました。しかし、兄上(林全)は、武勇の奥にある、民を思いやる心こそが、真の強さだと教えてくれました」
慕容暐は、政務を司り、暇があれば太原王慕容恪を呼び、兵法などを教わった。
「叔父上、兵とは、いかにして動かすべきか」
「陛下。兵を動かす前に、民の心を知らねばならぬ。民の心がなければ、いかに強大な兵も、ただの砂の城に過ぎぬ」
もちろん、これは林全の進言によるものだ。林全は、この時代が後の世で「五胡十六国時代」と呼ばれる、百数十年を通して、慕容恪ただ一人だけが時代を代表する名将であることを知っていたからである。林全は、未来の名将に、若き皇帝の教導を託したのであった。