狩猟場の憂鬱、若き帝の叫び
林全は、新帝慕容暐が国政から離れ、狩猟にばかり興じていることに深い憂慮を抱いていた。日々、幼い皇帝が森の奥へと消えていく姿を見るたび、彼の心には暗い影が落ちていた。
(陛下は、ただの子供ではない。この燕の未来を背負う、唯一無二の存在。彼が皇帝としての自覚を持つこと。それが、この乱世を生き抜くための、最初の、そして最も重要な一歩だ)
林全は意を決して狩猟場へ慕容暐を訪ねた。
「陛下、何故、狩猟にばかり……。この燕の未来は、陛下の御手にございます。どうか、国政にお心を向けていただきたく存じます」
林全の言葉に、慕容暐は狩りの獲物から目をそらし、遠くの空を見つめた。その瞳には、諦めと、そして深い孤独が宿っていた。
「林全殿……あなたにはわからぬか。朕は皇帝であるにもかかわらず、国政に参与できぬ。群臣は、太原王慕容恪の顔色を窺うばかりで、朕のことを知ろうともしない。朕は、ただの飾り物ではないのか……」
その言葉は、慕容暐が抱える無力感の叫びだった。林全は、彼の言葉を静かに受け止めた。
「(このままでは、彼は心までも枯れてしまう。皇帝としての自覚を持たせ、彼を孤独から救わねばならぬ)」
林全は、この問題を解決するため、ある大胆な計画を立てた。
林全は、禁軍二万を狩猟場に集めた。その一万を慕容暐に統率させ、もう一万は林全自身が率いた。兵士たちの武器は全て木製で、無駄な死人が出ないように厳命してあった。
林全は、事前にこの件を慕容恪に報告し、承諾を得ていた。
(林全殿の考えは、常人には思いつかぬ。しかし、それが陛下の為ならば……。予は、この国の未来を、あの男に託してみよう)
慕容恪の心には、林全への深い信頼があった。一方、この計画は皇太后可足渾氏の耳にも届いた。
(何? 林全という男が、皇帝に戦争の真似事をさせると? ああ、あの男は、慕容覇に味方したばかりか、今度は皇帝まで唆しおって……! ふん、どうせ慕容恪と結託して、皇帝を傀儡にしようと企んでいるのであろう。だが、予の許しなく、好き勝手にはさせぬぞ!)
しかし、彼女の命令を聞く者は、この場にはいなかった。林全は、伝令を送るよう隊長たちに伝え、皇帝側の陣営にも全知全霊をかけて叩き伏せる故、覚悟せよと伝えた。皇帝は、この伝令を聞き、初めて自分が戦いに臨んでいることを自覚した。
(林全は、朕を試しているのだ。ここで負ければ、朕は永遠に飾り物として終わってしまう……!いや、負けはせぬ。朕は、この燕の皇帝だ!)
慕容暐は、今まで林全から学んだ兵法を思い出し、自らの知恵を絞って林全とぶつかった。戦いは、林全の予想以上に激化した。禁軍の兵士たちは、「すべては皇帝のために」と、全力で守り、全力で攻め戦った。
数刻に及ぶ激闘の末、日は暮れ、慕容暐は敗北した。しかし、彼の顔に悔しさの色はなかった。そこにあったのは、戦い抜いた充実感と、自らが確かに「戦うことのできる皇帝」であるという自覚だった。
遠くで見守っていた慕容恪は、その様子に微笑み、静かに去っていった。
(陛下……あなたは、もはや一人ではない。林全という、稀代の将軍が、あなたを支えている。予もまた、全力であなたを支えよう)
慕容恪は、若き皇帝の成長を確信していた。
翌日、模擬戦の兵たちが撤収すると、林全は自費で全ての費用を賄った。しかし、この一件は皇太后可足渾氏の耳にも届き、林全は御前会議で激しく叱責された。
「林全! 皇帝を危険な目に遭わせ、私兵を動かし、勝手な真似を! そなたは、一体何を考えているのか!」
林全は、皇太后の言葉に動じることなく、静かに答えた。
「皇太后様。この林全は、陛下に自信を付けさせ、国を治めるに足る皇帝として、自覚を持っていただくため、この模擬戦を執り行いました。この件に関する全ての責任は、この林全が負います」
可足渾氏は、林全の言葉に怒りを抑えきれなかった。
(この男……! 予の命令に背き、それでいて、この態度。許せぬ、許せぬぞ! しかし、奴には十数万の兵、そして慕容雪という後ろ盾がある。安易に手出しはできぬ。だが、いつか必ず、この借りは返してやる……!)
可足渾氏の心には、林全への深い憎悪が刻まれた。林全は、彼女の殺意すら感じる視線を受け止め、静かに頭を下げた。この一件は、慕容暐が自らの意思で国政に参与するようになる、大きな転機となった。同時に、林全と可足渾氏の対立は、この燕の未来に、より暗い影を落とすことになったのであった。