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五胡転戦記  作者: 八月河
劉石冉漢趙魏
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三百の雑兵と、石虎の怒り

林暁と石虎、それぞれが率いる三百の兵が、荒野で対峙した。冷たい風が吹き荒れる中、両軍の間に漂うのは、張り詰めた緊張感だった。


林暁が率いるのは、顔に土埃をつけた流民の寄せ集めだ。その武器は錆びた剣や、畑を耕すための鍬、棒切れなど、とても軍と呼べるものではない。寄せ集めの兵たちの瞳には、林暁へのわずかな信頼と、いつ死んでもおかしくないという、現実的な恐怖が入り混じっていた。彼らは林暁を、この混沌とした世界で生き延びるための一筋の光として見ていたが、同時に、目の前の圧倒的な軍勢に恐れをなしていた。


林暁は、そんな彼らの前で、静かに、しかしはっきりと告げた。


「よく聞け。生き残ることが、我々の第一の目標だ。戦うことは、そのための二の次だ。我々は、無駄に命を散らすためにここにいるのではない。生きるために、戦うのだ」


その言葉は、兵たちの心の奥底に染み渡り、彼らの震えをわずかに和らげた。絶望の淵にあった彼らにとって、「生き残ること」を最優先に掲げる林暁の言葉は、何よりも確かな希望だった。


一方、石虎の軍は、人数こそ林暁軍と同じ三百だが、その気迫は全く違っていた。彼らの装備は統一され、鋭く研ぎ澄まされた剣や槍を手にしている。一人ひとりが石虎の放つ、煮えたぎるような殺気によって、まるで飢えた獣の群れのように見えた。


石虎は、己より優れた存在を許さない凶暴な男だ。これまでに多くの部下を些細なことで殺してきたが、石勒が諫めても改まることはなかった。その彼が、目の前の林暁という得体の知れない男を、徹底的に叩き潰そうと、全身から殺気を漲らせている。


「あの男は……ただの流民の頭ではない。あの叔父上が固執する理由が、戦場に出てみればわかるというのか……ならば、この石虎が、その才能とやらを木端微塵に砕いてみせようぞ!」


石虎は、林暁の軍勢を一瞥し、侮蔑の笑みを浮かべた。しかし、林暁は冷静だった。姜維に師事し、司馬昭に認められた過去を持つ林暁にとって、石虎の武勇は正面から太刀打ちできるものではないと、直感的に悟っていた。ましてや、同じ容姿で数十年生き続けてきた林暁の心は、もはや戦場に身を置くことを本能的に拒絶していた。


(俺に、かつてのような闘争心はない。だが、この三百人の命を、無駄に散らすわけにはいかない……。石虎、お前の猛攻は、決して受け止めはしない。ただ、いなすのみだ)


林暁は静かに自らの内なる声と向き合っていた。


戦いの火蓋が切られると、石虎は自ら先頭に立ち、まるで嵐のように林暁の軍に突っ込んでいった。石虎の剣は、林暁の兵たちを次々と薙ぎ倒していく。その鋭さは、寄せ集めの兵には到底受け止められるものではなかった。しかし、林暁の軍は決して壊滅しなかった。林暁が事前に取り決めた隊長たちが、的確に兵を動かし、石虎の攻撃をかわしていく。一人が倒れても、すぐに別の兵がその隙を埋め、まるで水が流れるように石虎の突進を分散させた。


林暁は、自らは決して前線に出ず、丘の上から石虎の動きを冷静に観察していた。そして、石虎が苛立ちから隙を見せた瞬間に、丘の斜面に潜ませていた弓兵を放ち、石虎の軍を遠方から攻撃させた。流民兵が放つ矢は、鍛えられた兵士たちにとっては脅威ではない。しかし、その執拗な攻撃は、石虎の軍に小さな混乱を生み出した。


石虎は、林暁の軍が正面からぶつかってこないことに苛立ちを募らせた。


「卑怯者め! 男ならば正面から勝負しろ!」


石虎の怒号が荒野に響き渡る。その声は、林暁の耳にもはっきりと届いた。しかし、林暁はそれに動じることなく、ひたすら兵の命を守ることに徹した。


(正面からぶつかれば、一瞬で全滅だ。俺が守るべきは、この三百人の命。お前の挑発に乗る気はない)


林暁は、石虎の感情を読み解くかのように、彼の猛攻をのらりくらりといなした。隙をついては弓兵や投石兵を使い、攻撃を仕掛ける。その戦い方に、石虎の苛立ちは頂点に達した。彼は次第に冷静さを失い、無謀な突撃を繰り返すようになった。精鋭部隊を率いる将にあるまじき、感情的な動きだった。


林暁は、この瞬間を待っていた。石虎が我を忘れて突進してきたところで、林暁の兵たちは一斉に散開し、石虎を囲い込んだ。気づけば、石虎の周りには、わずか十数人の精鋭の護衛しか残っていなかった。


(今なら、石虎を討ち取ることも可能だ。この男の首を獲れば、この場は収まるだろう。だが……)


林暁は冷静に状況を見極めていた。たとえ石虎を討ち取っても、彼の軍はまだ残っている。そして何より、石虎を失った漢趙の軍が、林暁の軍を徹底的に追撃するだろう。それでは、生き残ることを第一に掲げた林暁の目的に反する。彼が守るべきは、目の前の三百人の命なのだ。


石虎は、孤立した状況でもなお、林暁の軍に牙をむこうとしていた。その凶暴な目に、わずかな怯えも見られない。彼は、このまま孤立無援のまま、自らの誇りをかけて戦い続けるつもりだった。しかし、その時、荒野の向こうから、轟音と共に新たな軍勢が現れた。漢趙軍の旗印を掲げたその大軍勢は、紛れもなく石勒が率いる本隊だった。


石勒の軍が来たことで、石虎はついに戦意を喪失した。いや、戦意を喪失したわけではない。石勒の前で、林暁という流民の寄せ集めに手玉に取られ、無様に孤立している姿を見せることだけは、彼にとって耐え難い屈辱だったのだ。


「ぐ、ぐぅう……林暁! この借りは必ず返す! 必ずだ!」


石虎は、怒りに顔を歪ませ、林暁を睨みつけた。そして護衛の兵に撤退を命じると、荒々しく馬を走らせて去っていった。その背中には、敗北の屈辱と、林暁への強烈な憎悪が滲み出ているかのようだった。


石勒の軍が戦場に到着すると、林暁は百人ほどの兵を率い、石虎を追うことなく、石勒の前に立った。三百の流民兵は、林暁の後ろに固まり、石勒の圧倒的な軍勢を前に、再び震え始めていた。


「石勒殿、この度の無礼、お許しください」


林暁は、ただ静かに頭を下げた。彼の顔には、安堵も、勝利の喜びもなかった。ただ、三百人の命を守り切ったという、静かな達成感が漂っているだけだった。


石勒は、その様子を見て、静かに微笑んだ。その隻眼の奥に、深い満足感が宿っている。


「良い、良い。貴様がただの将でないことは、わしには分かっていた。だが、まさかこれほどとはな。武力ではなく、知略で石虎を退かせるとは……」


石勒の言葉は、まるで林暁の心を読み取っているかのようだった。


「さあ、林暁よ。わしの幕舎に来い。ゆっくりと、お前の話を聞かせてもらおう。お前が持つ、この乱世を照らす光についてな」


石勒はそう言うと、林暁を伴って、陣営の奥へと消えていった。林暁は、再び石勒の掌の上で踊ることになった。しかし、彼の心は、もはや絶望に囚われたままではなかった。三百の兵を救ったことで、彼の内に、わずかな使命感が芽生え始めていたのだ。彼らは、林暁という光にすがるように集まってきた。今度は、その光を守るために、彼は戦う道を選んだのだった。

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