皇太后との対峙、暗雲の兆し
桓温の北伐を退けた後、慕容垂(慕容覇)は、その功績によって長江北岸の新たな版図を統治することになった。彼はその地で、公正かつ優れた統治手腕を発揮し、民からの信頼を勝ち取っていった。
一方、慕容恪は、国の安定を図るべく、内政改革を中心とした新たな政策を打ち出した。そして、林全もまた、その功績を認められ、洛陽一帯に自身の政策を打ち出す許可を得た。しかし、その前に彼に任されたのは、幼くして即位した新帝、慕容暐の補佐であった。
「林全殿。朕はまだ幼く、国を治めるにはあまりに未熟。どうか、朕の師となり、この燕を導いてほしい」
慕容暐は、林全に深く頭を下げた。その真摯な態度に、林全は心を動かされた。
「陛下。お言葉、まことに光栄でございます。この林全、微力ながら、陛下の御力となれるよう、尽力させていただきます」
林全は、慕容暐に歴史や兵法、そして民を思いやる心を説き、来るべき乱世を生き抜くための帝王学を教え込んだ。
(慕容暐は、純粋で聡明な若者だ。この子が、もしも真っ当な帝王として育つことができれば、燕の未来も変わるかもしれぬ。私が為すべきは、この子の心を、憎悪や権力欲に染まらぬよう、守り抜くことだ)
林全は、そう心に誓った。しかし、この平穏な日々は長くは続かなかった。
慕容暐との交流が深まる中、林全は皇太后可足渾氏から召し出された。林全は、この召喚の意図をすでに察していた。
(可足渾氏は、慕容垂を憎んでいる。その理由も、未来の歴史を知る私にはわかっている。慕容垂の王妃が彼女を敬わなかったこと、そして慕容垂自身も彼女を嫌っていたこと。その憎悪が、いつかこの燕を内側から蝕むことになるだろう)
林全は、可足渾氏の御殿へと向かった。そこには、ただならぬ緊張感が漂っていた。林全が皇太后の御殿に入ると、可足渾氏は冷たい視線を林全に向けた。
「林全よ。そなたの武勇と才覚、まことに天晴れ。だが、慕容垂の台頭は、我ら宗室にとって看過できぬこと。そなたの力で、慕容垂をこの燕から追放してほしい」
林全の予感は的中した。皇太后は、林全を懐柔し、慕容垂を潰すための手駒にしようと企んでいたのだ。林全は、彼女の言葉に動じることなく、静かに答えた。
「皇太后様。慕容垂殿の武勇と才覚は、この燕を支える柱の一つ。今、彼を失うことは、秦や晋といった外敵に付け入る隙を与えることになります。今は、皆が手を取り合い、国難に立ち向かうべき時かと存じます」
林全の言葉は、可足渾氏の耳には届かなかった。彼女は、林全が慕容垂を擁護したことに怒りを抱いた。
皇太后の強みと林全の葛藤
「そなたまで、慕容垂の肩を持つというのか!? 何を言うか! 彼は、いずれこの燕を簒奪するつもりであろう! 石虎の二の舞になる前に、芽を摘んでおかねばならぬ!」
可足渾氏は、林全への憎悪をあらわにした。しかし、彼女は容易に林全に手出しはできなかった。
(この女は、私を、そして慕容垂を憎んでいる。だが、彼女は、私に手出しはできぬ。洛陽の要塞を築き上げた功績と、自らが統率する十数万の精鋭が控えている。そして、何より慕容廆の娘であり、宗室の中でも発言力を持つ慕容雪との関係が深い。私を敵に回すことが、自らの立場を危うくすることを知っているのだ)
可足渾氏は、表向きは林全を容認したが、その心には、慕容垂への憎悪と共に、林全への深い恨みが刻まれた。林全は、この燕の内側で、すでに暗雲が立ち込めていることを悟っていた。
彼は、迫りくる内乱の予感を胸に、慕容暐の補佐として、そして洛陽の統治者として、新たな戦いに臨むのであった。
皇太后可足渾氏との対峙を終えた林全は、その夜、密かに二つの書簡を認めた。一つは洛陽の石斌へ、もう一つは慕容垂へと送るためのものだった。
石斌への書簡には、苻堅率いる秦への対処法が記されていた。
(苻堅は、洛陽を諦めたとはいえ、いつまた矛先を変えるかわからぬ。今は、彼らが涼州を攻めている間に、洛陽の守りを一層固め、万が一の事態に備えよ。そして、決して無駄な戦いは仕掛けるな。時が来るのを待つのだ)
林全は、石斌の武勇と、秦の脅威を知る者として、冷静かつ綿密な戦略を指示した。
そして、もう一つの書簡は、慕容垂への忠告だった。
(慕容垂殿は、いずれ可足渾氏の憎悪によって、その身を追われることになるだろう。それを避けるためには、自らの行動を律し、彼女に付け入る隙を与えるべきではない)
林全は、慕容垂に、可足渾氏が彼を排除しようと画策していることを遠回しに伝え、警戒を促した。慕容垂もまた、可足渾氏の憎悪を感じていたが、林全からのこの書簡は、彼に具体的な危険を再認識させるものとなった。
二つの書簡を送り出した後、林全は慕容恪の邸宅を訪れた。林全は、慕容恪に、可足渾氏との対話のすべてを、包み隠さず報告した。
「慕容恪殿。皇太后様は、慕容垂殿の排除を、私に命じられました。私は、それを拒否いたしました」
林全の言葉に、慕容恪は深く息を吐いた。
「やはり、母上はそこまで考えておられたか……。林全殿、そなたには、誠に迷惑をかけた。しかし、そなたの行動は、この燕の未来にとって、最善の判断であったと、私も信じている」
慕容恪は、林全の正直さに驚き、そして感銘を受けた。彼は、これまでの人生で、林全ほどに自分の心を開け放つことができた人間はいないと感じた。
(この男は、私に媚びることもなく、ただひたすらに、この燕の未来を憂えている。彼の言葉には、嘘偽りが一切ない。そして、彼が持つその力……。彼は、ただの武将ではない。この乱世を、変えることのできる、唯一の存在かもしれぬ)
慕容恪は、林全に深く頭を下げた。
「林全殿。この燕の未来は、そなたにかかっているかもしれぬ。どうか、今後も、私と共にこの国を守ってほしい」
林全は、静かに頷いた。可足渾氏がもたらすであろう内乱の嵐を予感しながらも、慕容恪という理解者を得たことで、彼の心には、確かな希望が灯っていた。