桓温との激突、運命の交差
林全の予感通り、桓温は再び北伐の軍を挙げた。燕の朝廷は、全軍を召集し、十五万の大軍を編成。主将には慕容評、副将には慕容覇(後の慕容垂)と林全を据えることになった。
慕容評は、自らの才能を認められたことに歓喜していた。
「ようやく予の真価を示す時が来たのだ。林全の才覚も、予の武威の前では霞むであろう。この戦功で、予は燕の第一人者となるのだ!」
(彼の心は、名誉と栄達への欲望で満ちている。これでは、まともな指揮など望むべくもない。だが、その傲慢さが、我々の勝利を呼ぶ鍵となるだろう)
林全は冷徹な目でこの布陣を分析していた。歴史の歯車は少しずつ狂い始めている。本来ならば、この戦で名声を挙げるのは慕容垂のはず。しかし、慕容評が主将に据えられたことで、その運命は大きく変わるだろう。
林全の横にいた石斌が、不安げに耳打ちした。
「林暁殿。なぜ、よりによってあの男が主将なのですか。あのような男に、我らが命を預けられるとでも?」
石斌は、慕容評の傲慢で破壊的な性格をよく知っていた。林全は、石斌の肩に手を置き、静かに窘めた。
「燕公、今は慕容評殿を信じるしかない。彼には、彼にしかできない戦がある。我々が力を合わせれば、桓温の軍も打ち破ることができる」
この言葉は、石斌を安心させるためでもあったが、林全自身への言い聞かせでもあった。慕容評の性格を利用し、彼を動かすことで、歴史の歪みを正す一手を打とうと決意していたのだ。
両軍は、長江北岸で激突した。桓温は、燕の主将が慕容評であることを知ると、内心でほくそ笑んだ。
「あの傲慢な男が主将か。奴の才覚は知れている。しかし、副将に林全がいる。あの男の知略は侮れぬ。慎重に戦を進めねばなるまい」
桓温は、林全の動きを警戒し、容易に手を出そうとしなかった。その様子を見て取った慕容評は、焦燥に駆られ、林全と慕容垂を後方に下げ、自ら先鋒を務めることを決意する。
「予の武威を恐れて、桓温は動かぬのか! 臆病者め。予が先陣を切って、奴の度肝を抜いてやる!」
慕容評のこの行動は、林全にとってはまさに好都合だった。林全は慕容評に先鋒の任を頼んだ。
「慕容評殿。桓温は、殿の武威を恐れているのでしょう。今こそ、その武勇を天下に轟かせる時かと存じます。私が後方で万全の援護を致しますので、心置きなくお攻めください」
林全の言葉に、慕容評は意気揚々と先陣を切った。
(これでいい。慕容評を先陣に立て、桓温の注意を惹きつける。そして、その隙に……)
林全の意図を察した桓温は、警戒を解き、一気に慕容評に攻めかかった。
「林全の意図は、慕容評を盾にして予を誘うことか! 小賢しい。だが、その愚かな主将を討ち取ってくれるわ!」
桓温は、容赦なく慕容評の軍を攻め立てた。慕容評は、軍才はそれなりに備えているため、善戦はしたものの、桓温の猛攻に徐々に押され始める。彼は、慕容垂と林全に援軍を頼んだ。
しかし、その時、石斌が桓温の別動隊を巧みに誘導し、慕容垂の進軍路を塞いだ。
「桓温の別動隊だ! なぜ、この様な場所に……」
慕容垂は、苦渋の表情で叫んだ。石斌は、その背後で静かに林全の采配を思い返していた。
(林暁殿は、この展開を予見しておられたのか……)
そして、慕容評の軍は、孤立無援となり、桓温の軍に包囲された。慕容評は、最後まで奮戦したが、あえなく討ち取られた。
慕容評の討ち死にを確認した林全は、すぐに石斌と合流し、慕容垂と共に敗残兵を収容した。その間、林全は別動隊を率いて長江北岸へ進軍し、晋の拠点を次々と制圧した。
桓温は、慕容評を討ち取ったものの、林全の巧みな戦略により、後方を脅かされる形となった。
「くそっ! 林全め、まさかここまでやるか……! 洛陽での失敗を、この戦で取り戻すどころか、さらに深く追いやられてしまったわ……!」
桓温は進退窮まり、撤退を決断せざるを得なかった。林全の巧みな策略により、燕は桓温の北伐を退けるだけでなく、長江の北岸にまで版図を広げることに成功した。
燕の朝廷は、長江の北岸にまで版図を広げたことに歓喜し、慕容評の死には大いに悲しんだ。林全は、慕容評の亡骸を鄴に送り返し、慕容垂をその地に残して守備を任せた。
「慕容垂殿、この地は我ら燕にとって、新たな生命線となります。どうか、この地を守り抜いてくだされ」
「林全殿。承知いたしました。この慕容垂、命に代えてもこの地を守り抜いてみせましょう。しかし、一つだけよろしいか……」
慕容垂は、林全に問いかけた。
「なぜ、あなたは慕容評殿を、あえて先鋒に立たせたのですか? あなたがその才覚を振るえば、彼を討ち取らせることはなかったはず……」
林全は、静かに慕容垂を見つめた。
「慕容垂殿。歴史は、時に残酷な選択を迫ります。彼は、この戦で、自らの野心のために戦いました。しかし、彼の死は、この燕に新たな可能性をもたらしました。あなたという、真の将軍を、この地に残すという可能性を……」
林全は、深くは語らなかった。慕容垂は、林全の言葉の真意を測りかねていたが、彼の瞳の奥にある、深い悲しみと決意を感じ取っていた。
(この男は、いったい何を背負っているのだ……?)
慕容垂は、林全の背中が遠ざかっていくのを、ただ静かに見つめていた。林全は、愛する者たち、そして、この乱世に生きるすべての民の未来を賭け、新たな戦場へと向かうのであった。