鄴への帰還、新たな布陣
桓温との対談を終え、長江の北岸を後にした林全は、勝利の余韻に浸ることなく、すぐさま鄴へと帰還した。冬枯れの街道は、彼の心の中にある静かな決意を映し出すかのようだった。彼は、自らが率いてきた兵たちを石斌に預け、洛陽へ向かわせた。
「燕公、あなた様の力で、洛陽の守りを固めていただきたい。桓温は、すぐには動くまい。しかし、奴の野心が消えたわけではない。我らが留守の間も、決して敵に付け入る隙を与えてはならぬ」
林全の言葉に、石斌は力強く頷いた。彼の瞳には、かつての驕りはなく、ただ林全への深い信頼と、与えられた使命への責任感が宿っていた。
「承知いたしました、林暁殿。あなた様のお命、そしてこの燕の未来、この石斌、命に代えても守り抜いてみせましょう」
鄴に到着した林全は、慕容恪ら宗室の将軍たちに、今後の国策について報告した。
「桓温は、当分この地を攻めることはありません。しかし、いつか必ず再度の北伐を企てるでしょう。今は、その時までの猶予期間。軍備を増強し、南に備える一方、内政の立て直しに専念すべきかと存じます」
林全は、冉閔の悪行によって荒廃しきった華北を立て直すため、民を慰撫し、税を軽減し、兵役を減らすことで、民衆の負担を減らすべきだと進言した。慕容評は、林全の先見の明に感銘を受け、彼に大きな期待を寄せた。
「林全殿。あなたは、未来を予見するかのようだ。我ら宗室が気づかぬうちに、敵の動きを見抜き、最善の策を講じる。あなたこそ、この燕の支柱となるべき人物だ」
林全は、慕容評の言葉に静かに頭を下げた。しかし、彼の心の中には、一つの懸念があった。
(慕容評は、才覚はあるが、その心には、すべてを滅ぼそうとするような、破壊的な衝動が潜んでいる。このままでは、いつか自らを、そして国を滅ぼしかねぬ。彼の力を、いかにして善政へと向かわせるべきか……)
林全は、慕容評を制御し、彼の力を良い方向に導くことを決意した。
林全は、宗室の中で、特に慕容垂(後の慕容覇)と親交を深めた。二人は、兵法や政治について語り合い、互いの才能を認め合った。
「林全殿。あなた様のような方が、我ら燕にいてくださることを、心から嬉しく思います。あなた様から学ぶべきことは、山のようにある」
慕容垂は、その若々しい瞳に、林全への敬意と、知への飽くなき探求心を宿らせていた。林全は、慕容垂の言葉に微笑んだ。
「慕容垂殿。あなたもまた、稀代の将軍となるべき器をお持ちだ。私とて、あなたから学ぶことは多い」
しかし、この二人の親交は、慕容評にとっては面白くないものだった。彼は、遠くから二人を見つめ、嫉妬心を募らせていた。
(なぜだ……なぜ、林全は予ではなく、慕容垂と親しくしているのだ? 予こそが、林全の才覚を最初に認めた男だというのに……。だが、いい。予にさえ忠誠を尽くしてくれれば、それで良い。林全がいれば、自らの栄達が望めるのだ。奴の力を、予の栄光のために使ってやろう)
慕容評は、林全への嫉妬心を、自らの野心に利用することを決めた。
そして、林全の予感通り、桓温は再び北伐の軍を挙げた。この報に、慕容儁は全軍を召集し、軍を編成した。
慕容評を主将に据え、副将には慕容覇、そして林全を置いた。
(やはり、こうなったか……)
林全は、慕容評の指揮下で戦うことを覚悟していた。その時、石斌が林全に耳打ちした。
「林暁殿。なぜ、よりによってあの男が主将なのですか。あのような男に、我らが命を預けられるとでも?」
石斌は、慕容評の傲慢で破壊的な性格をよく知っていた。林全は、石斌の肩に手を置き、静かに窘めた。
「燕公、今は慕容評殿を信じるしかない。彼には、彼にしかできない戦がある。我々が力を合わせれば、桓温の軍も打ち破ることができる」
その言葉に、林業が自らの意思で軍に身を置くことを決意した。
「父上……いえ、林暁殿。私も、あなた様と共に戦わせていただきたい。私は、あなた様から学んだ兵法を、この身をもって実践したいのです」
さらに、慕容虎も軍に入った。「林暁殿。私も、あなた様と共に戦いたい。あなた様が守ろうとしているこの国を、私も守りたいのです」
彼らの参戦は、林全の決意を一層強くさせた。
(桓温との戦いは、ただの戦ではない。未来の歴史を変えるための、重要な戦いだ。この戦いに、必ず勝たねばならぬ)
林全は、愛する者たち、そして、この乱世に生きるすべての民の未来を賭け、新たな戦場へと向かうのであった。