長安の街角、乱世の賢者
建武十五年。後趙が冉閔の乱によって崩壊し、中原が血と飢餓に染まる中、林全は全ての官職を辞し、鄴を離れた。彼は、かつて石虎の元から救い出した十万人もの精鋭の衛士たちと共に、遠く長安へと向かった。彼の目的は、ただ一つ。血の渦に飲み込まれず、静かに生きることだった。
長安に到着した林全は、衛士たちを率いて、街角に質屋を開業した。これまでの蓄えを元手に、質屋経営と、護衛任務を主な生業とした。彼の質屋は、貧しい民から高価な品まで、あらゆる物を預かった。衛士たちはその護衛を務め、また、長安の富豪や商人の護衛任務も請け負った。
林全は、幼い養子である林業に、商いの基本を教えながら、静かに時を過ごした。日中は質屋の帳簿をつけ、夜は林業に読み書きを教える。彼の周りには、もはや血生臭い権力争いの匂いはなかった。
しかし、長安はいつまでも安寧の地ではなかった。この地を治めるのは、後に名君と謳われる苻堅と、その腹心である王猛だった。苻堅は、林全の存在を知ると、彼に興味を持った。十万人もの精鋭を率いる男が、なぜ街角で質屋を営んでいるのか。苻堅は、再三にわたって林全を招こうとしたが、林全は応じなかった。
王猛は苻堅の命を受け、自ら林全の元を訪れた。彼は決して威圧的な態度をとらず、静かに林全と対話した。
「なぜ、貴殿のような才覚を持つ男が、こんな場所で時を過ごしているのだ?」
林全は、王猛にだけ、自らの真意を語った。
「私は、ただ静かに、この子を育てたいのです。そして、この乱世が終わりを告げるまで、無用な争いには関わりたくない」
王猛は林全の言葉に深く共感し、彼の周りの人間を誰一人として動かさず、彼に安寧の地を与えた。また、羌族の軍を率いる姚襄も、林全の父である姚弋仲がかつての林暁の友人だった因縁から、林全に手を出さなかった。
しかし、林全は長安の安寧が永遠に続くものではないことを知っていた。
(苻堅は名君だ。王猛も稀代の宰相。だが、いずれ彼らも、天下を統一する野望に駆られるだろう。その時、私の安寧は失われる)
彼の心には、ある一つの予感があった。苻堅が天下を統一する大事業に乗り出すとき、必ず大きな戦乱が再び訪れるだろう。
ある日、林全は長安を去ることを決意した。彼は、十万人もの衛士たちを率いて、静かに長安の城門を出た。その姿は、まるで逃げるかのようだった。
「林業、そして皆よ。お前たちは、慕容雪と慕容虎を探し、彼らと共に新たな土地で暮らすのだ」
林全は衛士たちに指示を出し、彼らに慕容姉弟を探すように伝えた。そして、林業に、自らが書いた一通の遺書を手渡した。
「これを、決して失くしてはならぬ。私がもしこの世を去ったならば、開けて読むのだ」
林業は、父の深刻な表情に、ただ頷くことしかできなかった。その遺書には、林全が林暁であったこと、そして前妻との間に生まれた子である林全(旧:林暁の息子)の面倒も見てほしい、という内容が記されていた。それは、林全が二つの人生を背負い、そしてその命をかけて守ろうとした、最後の願いだった。
林全は、自身が囮となり、単身で苻堅らの追撃を食い止める覚悟を決めた。追撃を始めたのは、姚襄だった。
「林全殿! なぜ、名君である苻堅殿の元を去るのだ!?」
姚襄の問いに、林全は静かに答えた。
「姚襄殿。苻堅は、確かに名君だ。だが、彼の治世は、いずれ大きな乱れを生むだろう。私は、その血の渦に、大切な者たちを巻き込みたくないのだ」
林全の言葉に、姚襄は深い真実を感じた。父姚弋仲の友であった林暁、そしてその息子林全の言葉を信じ、彼は林全を見逃した。
一方、林業は衛士たちに守られながら鄴へと向かった。鄴に到着した彼は、まず祖父である石虎の墓に参った。しかし、祖父のことに話が及ぶと、林業は口を閉ざした。彼の心には、未だ石虎の狂気と、それによって失われた家族の記憶が深く刻まれていた。
林全は、遅れて鄴へ入る途中、かつての後趙の皇帝たち、石虎や冉閔らの墓を密かに弔っていた。
(あなた方の怨嗟が、この国を滅ぼした。だが、あなた方にも、守りたいものがあったはずだ……)
その時、林全は山賊らしき集団に囲まれた。その数、およそ千。絶体絶命かと思われたが、林全は泰然自若としていた。彼は、その集団の首領に向かって、声を張り上げた。
「私は、かつて石勒と共に戦い、石虎と共に国を治めた者の息子である! 無用な争いはしたくない。道を開けてもらいたい」
林全の言葉に、首領らしき男が馬から躍り出て、彼の顔をじっと見つめた。その男の顔を見た瞬間、林全は驚愕に目を見開いた。
「そなたは……林全か……」
その男こそ、かつて石虎の息子として、林全が密かに助けようとした男、燕公石斌であった。彼は、石遵と石閔の政変から辛くも逃れ、死んだと思われていたが、奇跡的に生き延び、この山中で身を隠していたのだった。
山中での予期せぬ再会。林全と石斌は、互いの姿を認めると、悲喜こもごもの表情を浮かべた。林全は、かつて助けようとして果たせなかった石斌が生きていることに安堵し、石斌は、この乱世で唯一信じられる男と再会できたことに涙を流した。
「そなた……本当に、林全なのか……」
石斌の声は震えていた。林全は、静かに頷いた。
「ええ、燕公。私は、林全です。いえ、かつての林暁です」
林全は、自らの正体を明かした。石斌は、その言葉に驚き、そして納得した。
「やはり、あの時の密使は、そなただったのか……。私は、てっきり奸臣の言葉に騙されたのかと……」
二人は夜を徹して語り合った。林全は、石虎の死後、石遵と石閔の政変によって後趙が崩壊したことを話した。石斌もまた、その混乱から命からがら逃れ、身を隠していた経緯を語った。
「もはや、後趙という国に未練などない。父上は、自らの手で国を滅ぼしたのだ……」
石斌は、静かに呟いた。彼の目には、かつての傲慢さはなく、ただ深い悲しみが宿っていた。
夜が明け、林全は石斌を衛士の一団に紹介した。衛士たちは、かつての燕王の姿に驚き、そして歓喜した。
「趙の衛士には、趙の王侯こそがふさわしい。燕公、あなた様が我らを率いてくださるならば、これ以上の喜びはありません!」
林全は、衛士たちの前で石斌にひざまずき、忠誠を誓った。そして、石斌を連れて、自らの思惑を語り始めた。
「燕公、私が苻堅から逃げたのは、理由があります。苻堅は、いつか必ず中原を統一しようと動くでしょう。その時、この地も戦乱に巻き込まれるのは必至です。そして、その強大な勢力に、我らだけでは立ち向かえない。だからこそ、燕と力を合わせる必要があるのです」
林全の言葉に、石斌は眉をひそめた。
「燕と? しかし、燕は父上と何度も争った敵だ。なぜ、燕と手を組む必要がある?」
「燕公、もはや国境を隔てた敵味方など、意味がありません。この乱世で生き残るには、より強大な敵に立ち向かうために、力を合わせるしかないのです。そして、趙の衛士たちを率いるのは、燕公しかいません」
林全は、石斌の胸に、新たな希望の光を灯そうとした。それは、ただ生き延びるためではない。かつて後趙を支えた者たちが、新たな時代を築くための、最後の賭けだった。石斌は、林全の言葉に深く考え込んだ。彼の心には、再び、戦うべき理由が生まれていた。