石勒の眼差しと石虎の殺意
薄暗い牢の中で、林暁はただ膝を抱えていた。冷たい土間から染み出す湿気が、凍てつくように全身を冷やし、わずかな光が差し込む小窓からは、手の届かない遠い空が見えるだけだった。どれほどの時が経ったのか、もはや定かではない。日々の境は曖昧になり、意識は朦朧とし、過去の栄光と現在の屈辱が、混濁した夢のように脳裏を駆け巡る。
(もう、何もかもどうでもいい。飢えも、渇きも、痛みも……この不老不死の呪いも。ただ、全てが終わってほしい。意識すらも、この闇に溶けてしまえばいいのに……)
その沈黙を破ったのは、錆びた鉄が軋むような、牢番が扉を開ける鈍い音だった。強い光が差し込み、林暁は思わず目を細める。目に映ったのは、質素な身なりではあるが、その巨躯と隻眼が尋常ならざる威圧感を放つ男だった。彼の背後には、まるで影のように、数名の屈強な兵士が控えている。男の放つ、歴戦の猛者のような気配が、凍り付いた林暁の心を微かに揺さぶる。
男はゆっくりと林暁に近づき、その無表情な顔を覗き込んだ。林暁は警戒することもせず、ただ虚ろな目で男を見つめ返す。その視線は、生きている者というより、むしろ何百年もの時を静かに見つめ続けてきた、古びた石像のようだった。まるで、この世のあらゆる悲劇を見届け、何もかもが空虚になったかのような、深い虚無を湛えている。
「お前が、晋の将として永嘉の乱を生き残った者か」
男の声は低く、しかし野太い響きを持っていた。地の底から響くような、しかし不思議な響きを持つその声に、林暁は答えなかった。答える気力も、意味も見出せなかった。
男は林暁の沈黙を意に介さず、さらに言葉を続けた。
「……愚問であったな。お前の目は、ただの兵卒のそれではない。歴戦の勇士、いや、それ以上の、深き才と経験を宿している。わしは、人の器というものを、その目で見抜くことができる」
男はそう言うと、静かに林暁の前に胡坐をかいた。その堂々たる佇まいに、林暁は思わず息を呑む。
「わしは石勒。匈奴が築いた漢に仕える身だ。貴様がただの晋の残党ならば、とっくに肉と骨を分け与えていたところだがな」
石勒は鋭い視線を林暁に注いだ。その隻眼は、林暁の魂の奥底まで見透かすかのように、彼に宿る異質な「何か」を訝しんでいた。
「貴様の中には、何百年もの歴史が澱んでいるかのようだ。並の人間ではない。もはや人の域を超えているのかもしれんな。わしには見える。貴様が、この乱世を終わらせる一助となる、計り知れない力を持っていることが」
林暁は内心で驚愕した。目の前の男は、ただの武将ではない。凡人にはない、並外れた洞察力と、人智を超えた「器」を持っている。まるで、自分の呪われた運命、不老不死の秘密すらも、この男には見えているのではないかと錯覚するほどだった。
(この男は一体……? なぜ、俺の全てを見透かすような目をしている? まるで、俺の呪われた生さえも理解しているかのように……こんな感覚は、姜維や司馬昭でさえ感じさせたことがない……)
「林暁と申します……」
長い沈黙の後、林暁は掠れた声で、まるで絞り出すように答えた。その声は、何日も発していなかったかのように乾いていた。石勒は林暁のその言葉に、満足げに深く頷いた。
「林暁か。良い名だ。わしの配下となれ。貴様の才覚は、このような牢の中で朽ちさせるには惜しい。わしと共に、この乱世を統一せぬか? 貴様の望むもの、全てを与えよう。財宝、名誉、土地、あるいは晋の再興も夢ではない。貴様のその才能を、わしのために使え!」
石勒の言葉は、林暁の耳には届かなかった。統一という言葉が、あまりにも空虚に響いたからだ。過去にどれほど多くの人間が、その言葉を唱え、そして血を流し、裏切ってきたことか。
(また、誰かの野望のために利用されるのか……俺はもう、何も信じられない。誰のために戦えというのだ? この体で、これ以上、誰かの血を流すことなど……)
林暁は顔を伏せ、再び沈黙した。彼の内に宿る絶望は、いかなる誘惑をも跳ね返すほどの深さだった。石勒はその後も、幾度となく林暁を訪ね、言葉巧みに説得を試みた。日を追うごとに、石勒の林暁への執着は増していくようだった。だが、林暁の心は頑なな氷のように、微動だにしなかった。
石勒が林暁に執心する一方で、その傍らには、いら立ちを隠さない男がいた。石勒の甥であり、後の残虐王として名を馳せる**石虎**である。石虎は、石勒が未知の晋の武将に固執することに我慢がならなかった。林暁の存在が、彼の叔父である石勒の心を捉えていることに、強烈な焦燥と嫉妬を覚えていた。
「叔父上、そのような得体の知れぬ男に、いつまで時間と労力を費やすおつもりですか! 我が軍には、いくらでも使える漢人がおります。それに、あの男からは禍々しい気配が漂っております! もしや、何か呪術めいたものでも使われているのではありませんか!?」
石虎は、林暁を胡散臭い化け物としか見ていなかった。彼は石勒の絶対的な信任を得ており、自身の武勇と石勒への忠誠に絶対の自信を持つ男だった。だからこそ、叔父がこれほどまでに固執する林暁の存在が、やがて自らの地位を脅かし、石勒の目を曇らせるのではないかという、漠然とした不安と強い敵意を抱き始めていた。その不安は日増しに強まり、やがて確信めいた殺意へと変わっていった。
「あの男は、叔父上の御心を惑わしている。このままでは、我が漢趙にも害が及ぶかもしれぬ。私が、この手で奴を始末せねば……!」
石虎は、林暁を排除することだけを考え始めていた。
ある夜、林暁がいつものように牢の中で、過去の悪夢に苛まれながらうつらうつらとしていると、不意に牢の扉が勢いよく開く音がした。闇の中に現れたのは、松明の明かりに照らされた、石虎の配下の兵士たちだった。彼らの目に宿るのは、明確な殺意。隠そうともしない、むき出しの敵意が林暁に向けられる。
「将軍の命だ……お前のような不気味な男は、生かしておけぬ」
兵士の一人がそう告げると、他の者たちも得物を構え、林暁を取り囲んだ。林暁は即座に状況を悟った。石虎が、石勒に無断で自分を始末しに来たのだ。
(またか……また、こんな形で……!)
死への渇望はあれど、こんな形で無為に、そして不本意に殺されることへの強い拒絶感が、彼の内を駆け巡った。それは、絶望の中に埋もれていた、かすかな生への執着、あるいは尊厳を守ろうとする本能だったのかもしれない。かつて姜維に師事し、武の道を極めた記憶が、霞の向こうから鮮やかに蘇る。この体は、まだ動く。この状況から逃れることだけを、林暁の体は本能的に求めていた。
兵士たちは、虚ろな林暁の瞳に油断していた。その一瞬の隙を、林暁は見逃さなかった。長年培われた武術の勘が、身体を動かす。渾身の力を込めて、彼は一人の兵士から槍を奪い取り、それを梃子にして牢の扉を破った。乾いた木片が飛び散る。
「な、何だ!?」
「化け物め!」
兵士たちの動揺と怒号が飛び交う中、林暁は闇の中を駆け抜けた。身体は飢えと疲労で限界に近いが、生への僅かな執着が、彼を突き動かす。背後からは罵声と剣戟の音が聞こえるが、林暁は振り返らなかった。彼の動きは、かつての俊敏さには及ばないが、それでも兵士たちの追跡をかわすには十分だった。夜陰に紛れ、林暁は漢趙の野営地から姿を消した。
林暁は、再び荒野を彷徨った。しかし、今回は漠然とした死への希求だけではない。石虎の殺意は、彼の内に燻っていた闘争本能を僅かに蘇らせていた。それは、長く眠っていた獣が、危険を感じてうっすらと目を開いたような感覚だった。
(このまま、死ぬわけにはいかない……。誰かの手駒になる前に、自らの足で立つ。この呪われた命を、俺自身の意思でどうにかしてみせる……!)
その想いが、彼の足を動かす原動力となっていた。それは、完全な希望ではない。むしろ、諦めと反骨心が混じり合った、複雑な感情だった。それでも、彼の足は止まらなかった。北の夜風が彼の頬を冷たく撫でる。飢えと渇きが再び彼を苛むが、それすらもはや、どうでもいいことのように感じられた。
三日三晩、食料も水もほとんど取らずに彷徨った林暁は、やがて小さな集落にたどり着いた。そこは、漢趙の支配から逃れてきた漢人の流民たちが、細々と暮らす場所だった。粗末な掘っ立て小屋が並び、土壁には子供たちの無邪気な落書きが見える。痩せ細った体で懸命に生きる人々の姿が、彼の目に飛び込んできた。
彼の目に、かつて司馬昭の元で見た、人々が平和に暮らす光景が重なる。あの頃の輝きは失われ、絶望が蔓延るこの時代に、それでも生きようとする人々の姿が、彼の心の奥底に眠っていた何かを揺り動かした。彼らの瞳には、林暁自身の過去の苦痛と、それでも未来を信じようとする微かな光が宿っているように見えた。それは、自分だけが絶望の淵にいるわけではないという、不思議な連帯感だった。
林暁は、彼らが持つわずかな食料と引き換えに、自らの持つ知識と、かつての戦での経験を語った。彼の言葉は、絶望の淵にあった流民たちに、かすかな希望の光を灯した。林暁の語る過去の栄光、そして彼が持つ武術や戦略の知識は、彼らにとって、この混沌とした世界で生き抜くための、唯一の光明のように感じられた。
そして、その光に引き寄せられるように、林暁の元には、やがて三百人の兵が集まってきた。それは、かつての栄光を知る者たちではなく、ただ生き残るために、そしてこの乱世を生き抜くために、藁にもすがる思いで集まった、名もなき人々だった。彼らの目には、林暁という存在が、絶望の中の一筋の光として映っていた。林暁もまた、彼らの瞳の中に、かつての自分にはなかった、かすかな「生」の温もりを感じていた。
林暁が兵を集めているという報告は、驚くべき速さで石勒の元へ届いた。報告を聞いた石勒は、大声で笑い飛ばした。その笑いは、彼の狙い通りに進んでいることへの、満足と愉悦に満ちていた。
「ハハハハ! 林暁め、やはりただの男ではなかったか! 我が配下に加わろうとはしなかったが、自ら兵を集めるとはな。さすが、わしが見込んだ男よ!」
石勒の隻眼が、報告を持ってきた兵士の顔を射抜く。
「あの男は、決して凡庸な器ではない。わしは確信していた。ただ眠っているだけで、いずれ目覚める時が来るとな」
その隣で、石虎は憤慨していた。怒りに顔を紅潮させ、唇を震わせている。
「叔父上! あの裏切り者め! 殺し損なったばかりか、兵まで集めて反抗するとは! 私に兵を与え給え! 今度こそ、奴の首を必ずや! あの忌まわしい男は、この石虎が必ずや討ち果たして見せます!」
石虎の内心では、林暁への嫉妬と憎悪が渦巻いていた。石勒が自分ではなく、あの得体の知れない男に執着することへの苛立ちが、彼を狂気へと駆り立てていたのだ。
石勒は石虎の剣幕を見て、面白そうにニヤリと笑った。その笑みは、石虎の単純な感情を見透かしているかのようだった。
「よかろう、石虎よ。貴様に三百の兵を与える。そして、林暁と戦え」
石虎は一瞬、耳を疑った。わずか三百の兵で、林暁を討てというのか? 己の武勇を信じる石虎にとって、この命令は侮辱にも等しい。しかし、石勒の目は真剣だった。その隻眼の奥には、深い計算が読み取れる。
「林暁は、ただの兵卒ではない。貴様の度量を試すには、格好の相手となろう。良いか、決して手を抜くな。あの男は、貴様の想像をはるかに超える存在だぞ。貴様が真の天下を望むならば、あの男を乗り越えてみせよ」
石勒は、林暁の底知れぬ才覚を試そうとしているのだ。そして、それが石虎の成長にも繋がると踏んでいた。あるいは、もし林暁が石虎を打ち破れば、その才能を改めて世に示すことにもなる。どちらに転んでも、石勒にとっては都合の良い結果となるだろう。石虎は不満げな表情を浮かべながらも、命令に従うしかなかった。叔父の深謀遠慮を完全に理解することはできなかったが、その命令が絶対であることは理解していた。
林暁と石虎。それぞれ三百の兵を率いて、再び荒野で対峙する運命が、今、動き出した。林暁の絶望は、新たな戦いの火蓋を切ることで、果たして何に変わっていくのだろうか。