狂気の遊猟と、崩壊の予兆
建武九年の春。後趙の首都、鄴は、本来なら暖かさに満ちる季節のはずだった。しかし、林暁の心は、季節外れの寒さに凍え切っていた。彼は石虎の命令により、鄴の宮殿の陵霄観に石虎と共にいた。そこから見えるのは、広大な平原を埋め尽くすほどの軍勢。皇太子である石宣が、山川での遊猟と福を祈願する儀式を行うため、十八万もの大軍を率いて金明門を出発したのだった。
(皇太子殿は、大輅に乗り、天子の旌旗を掲げている。陛下は息子に帝王の真似事をさせて、一体何がしたいんだ? 親バカにもほどがある。いや、これは親バカというより、もっと厄介なことだ……)
林暁は、石虎の真意を測りかねていた。しかし、石虎は、その様子を後宮の陵霄観から眺めながら、満足そうに笑った。
「我が家の父子はこのようである。自ずと天崩地陷でもしなければ、何を憂おうというのか!ただ子を抱いて孫と戯れ、日々楽しむのみだ」
石虎の言葉は、まるで国の未来などどうでもいいと言っているかのようだった。林暁は、その言葉に、深い絶望を覚えた。
(この男は、国や民のことを、これっぽっちも考えていない。ただ、自分の身と、家族の享楽だけを考えている。まるで、世界の終わりを前に、最後の晩餐を楽しんでいるみたいだ。この国の未来は、どうなるんだ……)
林暁は、石虎の言葉に、ただ静かに頭を垂れるしかなかった。彼の脳裏には、遠い前燕の地で、慕容雪と息子が平和に暮らしている姿が浮かんでいた。それが、彼の心を支える唯一の希望だった。
石宣の遊猟は、林暁の想像を遥かに超える破滅的なものだった。十八万もの大軍を動員して行われる遊猟は、もはや大規模な軍事演習に近かった。石宣は、行く先々の行宮で、大規模な狩猟を行った。
「文武の官吏達を跪かせ、動かないよう命じよ! 囲みを守らせ、獣を一か所に集めろ!」
この遊猟が、ただの狩猟ではないことを、林暁はすぐに悟った。これは、石宣の権威を誇示するための、見せしめだった。夜になると、かがり火により昼のように照らし出され、精鋭百騎余りが獣を射撃する。石宣は姫妾と共に輦でこれを見物し、帰るのを忘れる程楽しんだという。
しかし、その裏では、飢えや凍えにより一万を超える士卒が亡くなっていた。
「将軍、皇太子殿の遊猟は、あまりにも……」
慕容城が、林暁に静かに耳打ちした。彼の顔は、惨状を目の当たりにした者の恐怖でこわばっていた。
「ああ、慕容城よ。皇太子殿は、弓馬や衣食を全て天子の所有物であると称し、反発する者は禁罪を冒したとして罪に処した。通過した場所には、資産は何も残らなかったという……。これじゃ、まるで蝗害だ」
林暁は、その惨状に、ただ言葉を失った。
(この国の民は、いつになったら安らげるんだ? 陛下の暴政に苦しみ、皇太子殿の遊猟に苦しむ。この血塗られた螺旋は、いつまで続くんだ……。俺の知っている歴史は、まだこんなもんじゃなかったはずだ。この時代の闇は、俺の想像を遥かに超えている……)
林暁は、自らがこの惨状を食い止めることができない無力さに、胸を抉られる思いだった。
石虎は、太子石宣に続き、秦公石韜にも同様の遊猟を命じた。
(石虎は、皇太子殿と秦公を競わせ、互いの力を削ぎ落とそうとしている。この男の狂気は、もはや止まらない……。息子たちを競争させ、自分への忠誠を試しているのか。まるで、飼い犬に芸をさせているようだ)
林暁は、石宣が石韜と同列に扱われたことに激怒し、ますます石韜を妬むようになったことを知っていた。石宣の心の中には、石韜への憎悪と、自分を認めない父への反発が渦巻いている。
そして、石宣から寵愛を受けていた宦官の趙生が、石宣に石韜を除くよう勧めたという報を聞き、林暁は、背筋が凍る思いがした。
「皇太子殿は、本当に秦公を殺すつもりなのか……」
林暁は、胸騒ぎを覚えた。石邃の悲劇が、再び繰り返されようとしている。そして、それは、この国の崩壊を早めることになると、林暁は確信していた。
林暁は、愛する家族を守り、この血塗られた時代を終わらせるために、静かに、そして着実に、その準備を進めるしかなかった。彼の心には、決して揺らぐことのない、固い決意が宿っていた。