遠征の失敗と林暁の決意
建武三年、林暁は家族と共に趙の都・鄴に到着した。長安の京兆将軍という安定した職を解かれ、石虎の側近として新たな生活を始めることになったのだ。慕容雪は、生まれたばかりの息子、慕容軍を抱きながら、不安な面持ちで林暁を見つめていた。
「将軍……」
林暁は、妻の不安を和らげるように、その手を優しく握った。彼の指先からは、戦場での荒々しい感覚ではなく、家族の温もりが伝わってきた。
「大丈夫だ、雪。俺は、この家族を守るために、ここにいる。何があっても、お前とこの子を守り抜く」
林暁は、そう言い聞かせるように、自分自身に語りかけた。鄴の宮殿は、長安のそれとは比べ物にならないほど豪華絢爛で、石虎の権力と欲望の象徴だった。宮殿のあちこちに施された金銀の装飾が、陽の光を浴びて嫌に眩しく輝いている。その輝きは、林暁の目には、血の光のように見えた。長安での穏やかな日々が、まるで遠い夢のように思えた。
その頃、段部の首領段遼は頻繁に趙の国境を荒らしていた。利害の一致した燕の慕容皝は、石虎に称藩し、段遼討伐を要請した。石虎はこれに大喜びし、翌年の共同挙兵を約束した。
(石虎殿は、燕の慕容皝を利用して、段部の地を奪うつもりか。だが、慕容皝もまた、石虎殿を利用しようとしているに過ぎない。これは、互いの腹を探り合う、危険な賭けだ。歴史を知る俺が、この愚かな戦に巻き込まれるとは……。石勒殿が築き上げた天下は、石虎殿の私欲によって、再び血で汚されていく)
林暁は、石虎の側近として、この動きを冷静に分析していた。彼は、石虎の無益な戦いを止めようと試みた。
「石虎殿、段部は強敵です。前燕を安易に信じるのは危険かと存じます。もし前燕が我々を裏切れば、我々は両面から挟撃されることになりかねません」
しかし、石虎は林暁の言葉を遮った。彼の顔には、林暁の忠告を「臆病な将の戯言」と見下す傲慢さが浮かんでいた。
「黙れ! 慕容皝はわしにひれ伏し、人質まで差し出したのだぞ。何を心配することがある! 貴様の臆病風は、もはや聞き飽きたわ!」
林暁は、その傲慢さに、もはや何を言っても無駄だと悟った。石虎の心の中には、勝利への欲望と、わずかな不安をかき消そうとする苛立ちしかない。
建武四年正月、石虎は驍勇な者三万人を龍騰中郎に任じ、段遼征伐軍を編成した。林暁も、この遠征に従軍することになった。彼は、長安で培った経験と、石勒から学んだ戦術を駆使し、戦場で兵士たちの命を守ることに心を砕いた。
「皆の者、聞け! 敵は勇猛だ。だが、我々は冷静に戦えば必ず勝てる。無駄な死を出すな! 命あっての物種、生きて帰るのだ! お前たちには、待っている家族がいるはずだ!」
林暁の言葉は、兵士たちの心に深く響いた。彼の指揮は、常に兵士たちの命を最優先に考えたものだった。彼は、遠い未来から来た男として、無駄な命が失われることの痛みを誰よりも知っていた。
三月、石虎は自ら金台まで軍を進め、支雄を先行させて段部領を次々と攻略させた。林暁の率いる軍は、長安で培った連携と、練り上げられた戦術で、段部の騎馬隊を圧倒した。
林暁は、兵を三つに分け、一隊で正面から敵を引きつけ、二隊を左右に展開させて挟撃する戦法を徹底した。石勒の教えを忠実に守り、奇策に走ることなく、堅実な戦術で勝利を重ねていった。
「怯むな! 敵の弱点は、連携のなさだ! 各個撃破を狙え!」
林暁の号令一下、兵たちは一糸乱れぬ動きで段部の兵を打ち破っていった。戦いは、林暁の計算通りに進み、石虎の軍は着実に段部の領地を侵食していった。段遼は恐れを抱き、妻子親族を率いて密雲山へ逃走した。
石虎は、令支の宮殿に入城すると、論功封賞を行った。そして、段部の民二万戸余りを雍、司、兗、豫の四州に移らせた。
(故郷を追われ、見知らぬ土地へ送られる民……。この悲しみが、石虎殿には見えないのか。故郷を奪われ、離散していく民の姿は、俺が遠い故郷で見た光景と重なる……。これが、石虎殿の天下統一の代償なのか)
林暁は、民の悲しみを目の当たりにし、胸が締め付けられる思いだった。彼は、遠い鄴で慕容雪と息子、慕容軍を待たせていることを思い出した。彼らが、いつかこのような目に遭うのではないかという恐怖が、林暁の心を支配した。
石虎は、段部の領土を平定した後、前燕の慕容皝が趙軍と合流せずに単独で利益を独占したことに不満を抱いた。彼は、今度は燕討伐を目論んだ。
林暁は、この無謀な計画に反対した。
「石虎殿、燕は、強敵です。それに、仏図澄殿も、討伐は控えるべきだと仰せです。天の気象にも不吉な兆候が見られます。これは、天が我々に警告しているのです!」
しかし、石虎は林暁の言葉に耳を傾けず、声を荒げた。
「この城を攻めずして、どこの城なら勝てるというのか。この兵と戦わずして、誰がこれを防げようか。区々な小豎如きからどうして逃げようか!」
林暁は、石虎の狂気に、もはや何を言っても無駄だと悟った。石虎の目には、敵はただの獲物であり、兵士はただの道具に過ぎない。
(仏図澄殿の諫言も、太史令の忠告も、この男には届かない。石虎殿は、己の欲望のためならば、天意さえも無視するつもりなのだ……)
石虎が数十万の兵を率いて出征すると、燕の人はみな震え上がった。林暁もまた、この無謀な遠征に従軍することになった。
(この戦いは、勝てない。石虎殿の傲慢さが、この軍を滅ぼすだろう。俺にできることは、無駄な血を流させないことだけだ。この戦場で、少しでも多くの命を守らなければ……)
林暁の予感は的中した。趙軍は、燕軍の決死の防戦の前に、最後まで棘城を攻略することができなかった。前燕の玄菟郡太守劉佩は数百騎で趙軍に突撃し、将軍慕輿根らは十日余りに渡って決死の防戦を続けた。趙軍は多くの兵を失い、疲弊していった。
林暁は、石虎の無謀な総攻撃を諫め、持久戦に持ち込むよう進言したが、石虎は耳を貸さなかった。
「臆病者め! 貴様は、わしの勝利を妨げるつもりか!」
林暁は、ただ歯を食いしばるしかなかった。兵士たちは、次々と前燕軍の矢に倒れ、林暁の心は深く痛んだ。
石虎は遂に退却を決断したが、その隙をついて、前燕軍は奇襲をかけた。林暁は、退却の殿軍を志願し、自ら兵を率いて前燕軍の猛攻を食い止めた。彼の指揮の下、趙軍は壊滅的な打撃を避け、多くの命が救われた。
林暁は、この敗北の報に、静かにため息をついた。彼の目に映るのは、多くの兵士たちの血と、石虎の愚かさだった。
(やはり、こうなったか……。石虎殿は、己の傲慢さゆえに、この大敗を招いたのだ。この男に、この天下を治める資格はない……)
敗戦の後、石虎は令支から軍を撤退させ、鄴へと帰還した。林暁もまた、無事鄴へと戻ることができた。戦場での疲労と、心の痛みが、彼の体を蝕んでいた。
蒲洪への疑念、そして林暁の決意
鄴へと戻った林暁は、石虎の養孫である石閔から、氐族の蒲洪を排除すべきだという進言を聞いた。蒲洪は、強大な兵力を持ち、都城近郊に駐屯していた。
「林暁殿、蒲洪は才知傑出しており、彼の将兵はみな死力を尽くしております。強兵五万を擁して都城近郊に駐屯させております。秘密裏にこれを除き、国家を安定させるべきです」
林暁は、石閔の言葉に、内心で同意した。しかし、石虎は石閔の進言を聞き入れなかった。
「我はまさに彼ら父子を頼みとして東呉と巴蜀を攻め取らんとしているのだ。どうして殺さなければならんのだ!」
石虎は、蒲洪をますます厚遇するようになった。
(石虎殿は、蒲洪の力を恐れ、利用しようとしている。だが、いつかその火は、石虎殿自身を焼き尽くすだろう。この男は、人の本質を理解していない。石虎殿の支配は、もう長くは続かない……)
林暁は、石虎の狂気と、その支配の脆さを感じ取っていた。彼は、妻の慕容雪と息子、慕容軍を抱きしめ、静かに決意を固めた。
「雪よ、俺は、この乱世を、そしてお前とこの子を守るために、生き抜く。石虎殿の血塗られた天下の中で、俺たちは、この地の灯火を消してはならない」
林暁は、この乱世を、そして愛する家族を守るために、静かに力を蓄えるのだった。彼の心には、決して揺らぐことのない、固い決意が宿っていた。彼は、ただ傍観するだけの男ではいられなかった。彼の心は、愛する家族と民を守るために、戦うことを選んだのだ。