大趙天王の誕生と血塗られた悲劇
建武三年正月、趙の首都鄴では、権力簒奪の嵐が吹き荒れていた。林暁は、長安でこの報せを聞き、ただ静かに時を待っていた。彼の妻、慕容雪は、生まれたばかりの息子、慕容軍を抱き、夫の不安を察していた。長安の穏やかな日差しが、彼らのささやかな生活を照らしている。だが、林暁の心は、遠い鄴の空に広がる不穏な気配を感じ取っていた。
(石虎殿は、ついに「大趙天王」を名乗るのか。権力への欲望は、もはやとどまるところを知らない……)
林暁が鄴から遠く離れた長安にいる間も、石虎の権力はさらに強固なものとなっていった。
左校令成公段が造らせた奇妙な庭燎の完成に、石虎はご満悦だった。その高さは十丈余りあり、上盤にはかがり火、下盤には人が乗り、太い綱で上下を止めるという異様な代物だ。だが、この庭燎は、皮肉にも石虎の狂気を象徴する出来事の引き金となった。太保夔安らが石虎に尊号を称するよう勧めるため入殿した際、庭燎から油が流れ出し、下盤にいた二十人余りの死者が出たのだ。
この報せは、長安の林暁の耳にも届いた。
「なんと……」
林暁は、この知らせに絶句した。
(庭燎の事故で、命を落とすとは……。石虎殿は、これをどう捉えるだろうか。瑞祥と喜ぶか、それとも怒りに狂うか……)
林暁の予想通り、石虎は激怒した。成公段は闔門において腰斬に処されたという。
(当然の報いだと、石虎殿は考えているのだろう。だが、彼の怒りは、民の命を軽んじたことへの反省ではない。自身の権威を傷つけられたことへの怒りだ。この男に、もはや民の心など見えていない……)
その後、石虎は群臣の勧めを容れ、大趙天王を称した。南郊で即位し、祖父を武皇帝、父を太宗孝皇帝と追尊し、鄭桜桃を天王皇后に、子の石邃を天王皇太子に立てた。
(ついに、大趙天王か。石勒殿が築き上げた趙は、もはや石虎殿の私物となった。そして、太子となった石邃殿は、果たして父のようになるのか……)
林暁の胸に、一抹の不安がよぎった。
石邃は幼い頃から聡明で勇猛だった。石虎は彼を寵愛し、周囲にこう語っていたという。
「司馬氏は父子兄弟で互いを滅ぼしあった。故に朕はここに至る事が出来た。もしそうでなかったならば、我にどうして今日があったであろうか。だが、朕には阿鉄を殺す理否などありはせぬ」
林暁は、その言葉に石虎の傲慢さを感じた。
(石虎殿は、司馬氏を愚弄しているが、彼自身も同じ道を歩もうとしている。権力という魔物は、親子の情さえも踏みにじる。この血塗られた連鎖は、いつまで続くのだろうか)
しかし、林暁の不安は、的中した。石邃は百官を統率する立場になって以降、酒色に溺れ、人の道に背く行為を繰り返すようになった。
(石邃殿もまた、石虎殿と同じ道を歩もうとしているのか……いや、それ以上の狂気を孕んでいる)
着飾った美しい宮人がいれば、その首を斬り落とし、血を洗い落として盤の上に載せ、賓客と共に鑑賞した。さらに、美しい比丘尼を強姦し、殺害して牛羊の肉と共に煮込み、それを食したという。
林暁は、この報せに背筋が凍りついた。
「雪、この乱世は、どこまで堕ちていくのだ……」
林暁は、生まれたばかりの息子、慕容軍を抱きながら、静かにそう呟いた。その小さな命の温もりが、冷え切った彼の心に、わずかな光を灯すようだった。
「将軍……この子が、いつかこの乱世を終わらせてくれるでしょう」
慕容雪は、夫の苦悩を察し、静かに答えた。
石邃は、石虎からの叱責に不満を募らせ、ついには父の殺害を仄めかすようになった。ある夜には、側近の李顔らと酒を飲み交わし、酔った勢いで異母弟の石宣を殺害しようと企てた。
この時、仏図澄が石虎に「陛下は幾度も東宮へ赴かれるべきではありません」と語っていたことを思い出した石虎は、石邃の悪評も相まって、見舞いを中止した。
(仏図澄殿は、石邃殿の狂気を見抜いていたのだ。だが、石虎殿の疑心暗鬼は、もはや誰にも止められない)
石虎は女尚書に石邃の動向を探らせるも、石邃は怒って彼女を斬りつけた。石虎は激怒し、側近の李顔ら三十人余りを処刑した。そして、石邃を東宮に幽閉した。
「父子で互いに信じあえぬとは……! 」
石虎の叫びは、鄴の空に響き渡った。
石虎は一度は石邃を赦免したが、太武東堂で引見した際、石邃は一切謝罪せずにすぐに退出してしまった。
「……太子が中宮において朝に応じたのだぞ、どうして邃は去ってよいだろうか!」
石虎は使者を送ってそう告げさせたが、石邃は振り返りもせずに出て行った。
林暁は、この知らせに、石邃の傲慢さと、石虎の怒りの増幅を感じ取った。
(石邃殿は、もはや父の支配から逃れたい一心なのだろう。だが、石虎殿は、己の権威を傷つけられることを最も嫌う。石邃殿の運命は、もう決まってしまった……)
石虎は激怒し、遂に石邃を廃して庶人に落とし、その夜に殺害した。妃の張氏や男女二十六人もまた併せて誅殺し、同一の棺に入れて埋めた。連座により宮臣・支党二百人余りを誅殺し、皇后の鄭桜桃を東海太妃に落とした。
林暁は、この一連の出来事に、ただただ無力感を覚えるばかりだった。
(石虎殿は、己の子さえも、平然と殺害する。もはや、この男に、人としての心など残っていない……)
そして、石虎は、石邃に代わって石宣を天王皇太子に立て、石宣の母である昭儀杜珠を天王皇后に立てた。
(新たな皇太子、新たな皇后……。しかし、この血塗られた玉座は、いつまで安泰でいられるだろうか。石宣殿も、石邃殿と同じ道を歩むのではないか……)
林暁の不安は、的中した。
石虎は、林暁の京兆将軍の職を解き、鄴へ呼び戻した。
「将軍……」
慕容雪は、不安そうな顔で林暁を見つめた。林暁は、慕容軍を抱きしめ、静かに答えた。
「心配するな、雪。俺たちは、どこへ行っても、家族だ。それに、石虎殿に、俺の才は必要なのだ。簡単に手放すことはない」
(だが、鄴は、石虎殿の狂気が渦巻く場所。俺は、この家族を守るために、石虎殿の側近として、新たな戦いを始めなければならない……)
林暁は、家族と配下を引き連れ、長安を出て鄴へと向かった。彼の心は、新たな使命と、そして石虎の狂気に立ち向かう覚悟で満たされていた。