石斌との共闘、そして新たな命の誕生
建武二年、趙の都、鄴では石虎の贅沢な暮らしが頂点に達し、その裏で民の苦しみは増すばかりだった。飢饉と重税、無益な大事業。長安でその報せを聞くたびに、林暁は心を痛めていた。隣に寄り添う妻の慕容雪は、夫の苦悩を静かに見守っていた。
(石虎殿の欲望は、もう誰にも止められないのか……。太武殿、東宮、西宮……。一つの建物を建てるために、どれだけの民が飢え、どれだけの家族が離散したことか。石勒殿の天下は、今や石虎殿の私物と化してしまった)
そんな林暁の元に、石虎からの新たな命令が届いた。それは、章武王石斌が率いる軍の副将として、北方の反乱を鎮圧せよ、というものだった。
林暁は、石虎の命令に従い、長安を出て石斌と合流した。石斌は、石虎の子でありながら、その性格は石虎ほど冷酷ではなかった。しかし、その未熟さは否めない。
石斌は林暁に深く頭を下げた。その瞳は、不安と期待に揺れていた。
「林将軍、父上は私に、この反乱を鎮圧せよと命じられました。ですが、私はまだ若輩。どうか、あなたのお力をお貸しください。あなたほどの将がいれば、この戦もきっと……」
林暁は、静かに頷き、石斌の言葉を受け入れた。
(石斌殿は、父の血を引きながらも、どこか石勒殿に似た純粋さを持っている。この男を、石虎殿の血に塗れた道に進ませてはならない……)
林暁は、石斌の軍の副将として、戦場へと赴いた。彼の指揮は、冷静かつ的確で、石斌の無鉄砲な突進を幾度となく救った。林暁の戦術は、常に兵の命を最優先に考え、無駄な犠牲を最小限に抑えることを目的としていた。
戦場で、石斌が興奮した声で叫んだ。
「林将軍! 今こそ敵を包囲し、一気に殲滅する好機です! このまま突っ込めば、奴らは恐れをなして逃げ出すでしょう!」
林暁は、冷静に答える。
「お待ちください、殿。敵は、我々の動きを読んでいます。迂闊に突っ込めば、罠にはまるでしょう。斥候の報告では、敵は地形を利用して待ち伏せしているはず。まずは、敵の布陣を確かめるべきです」
石斌は、林暁の言葉に従った。斥候の報告は、林暁の読みが正しかったことを示した。林暁は、敵の罠を避けるように軍を進め、見事に反乱軍を打ち破った。
(俺は、この戦いを、石虎殿のために戦っているのではない。俺は、この戦場で命を落とすかもしれなかった、この兵たちのために戦っているのだ。そして、石斌殿に、真の将の道を示さなければならない。人の命を軽んじることの愚かさを、知らしめなければ……)
林暁の隣には、弓兵将軍となった慕容雪が、常に寄り添っていた。彼女の鋭い眼光は、常に林暁の安全を見守っていた。
「将軍、お気をつけて。ご無理をなさらないでください。あなたの命は、あなただけのものではありません」
「ああ、雪よ。お前もだ。お前がいてくれるから、俺は戦える。お前が、俺の支えだ」
二人の間には、言葉以上の絆があった。戦場で、互いを信じ、支え合う二人の姿は、兵たちの士気を大いに高めた。石斌の軍は、林暁の活躍によって、反乱を鎮圧することに成功した。
戦いが終わると、石斌は林暁に深く感謝した。
「林将軍、あなたがいなければ、この戦は勝てなかったでしょう。父上にも、あなたの功績を必ずお伝えします。どうか、私と共に鄴へ……」
しかし、林暁は静かに首を振った。
「若殿、私の役目は終わりました。私は、長安へと戻ります」
石斌は、林暁の言葉に驚き、困惑した。
「林将軍……なぜです? 父上は、きっとあなたを厚く遇してくださるでしょう。共に、鄴へ参りましょう。あなたほどの才があれば、きっと父上の右腕となれるはずです!」
林暁は、遠い鄴の空を見つめながら、静かに語った。その瞳には、深い悲しみが宿っていた。
「若殿、私には、守るべき場所があるのです。この長安という、民が安心して暮らせる場所を、私は守り続けなければなりません。そして、私の戦いは、血にまみれた玉座を奪い合うことではない。この地の平和を守り抜くことなのです」
(鄴には、石虎殿の欲望と、それに苦しむ民がいる。しかし、ここ長安には、俺の愛する妻と、俺を信じてくれる民がいる。俺の居場所は、ここなのだ。俺は、この歴史の流れの中で、ただ傍観者として生きるだけではない。俺にできる限りのことを、この長安で為すのだ)
林暁は、石斌に深く一礼すると、慕容雪と共に長安へと向かった。石斌は、林暁の後ろ姿を、ただ静かに見送ることしかできなかった。彼の心には、林暁の言葉が深く突き刺さっていた。
長安へと戻った林暁は、再び京兆将軍として、この地の統治に尽力した。彼の治める長安は、石虎の苛烈な統治から守られ、小さな平和を保っていた。
そんな中、林暁と慕容雪の間に、新たな命が宿った。慕容雪の妊娠を知った林暁は、これまで感じたことのない喜びに包まれた。
(俺は、この乱世で、新たな家族を得た。この子を、何としても守り抜かねばならない……。この子が、血塗られた歴史に巻き込まれることがないように……)
そして、建武三年の冬、林暁と慕容雪の間に、一人の男の子が生まれた。生まれたばかりの子は、林暁にそっくりな、しっかりとした目を持っていた。
林暁は、子を抱き上げ、その温かい感触に胸が熱くなった。彼は、この子に、自分の過去を背負わせたくなかった。
「この子の名は、軍としよう」
慕容雪は、不思議そうな顔で尋ねた。
「将軍、なぜ軍なのですか? 武骨な名ではありませんか」
林暁は、子を抱きしめながら、静かに答えた。
「この子が、いつかこの乱世を終わらせ、真の平和を築く、軍の将となることを願ってだ。そして、姓は……慕容としよう」
慕容雪は、林暁の言葉に、涙を流しながら、深く頷いた。
「将軍の姓を付けないのですか?」
「ああ。俺の姓は、この乱世の血に塗れている。だが、この子には、お前の姓を名乗らせてやりたいのだ。お前のように、強く、美しく、そして心優しい人間に育ってほしい。そして、この子がいつか、この乱世の血を洗い流す、清らかな流れとなることを願って……」
慕容軍の誕生は、石虎の冷酷な統治が続く乱世の中で、林暁と慕容雪、そして長安の民にとって、小さな希望の光となった。林暁は、この子を守るために、この乱世を生き抜くことを改めて決意した。彼の心には、新たな使命が芽生えたのだ。