石虎の冷酷な簒奪と海陽王の悲劇
建平四年七月、趙の礎を築いた覇王、石勒が崩御した。その報せが林暁の元に届いた時、彼の心は深い悲しみに包まれた。しかし、その悲しみに浸る間もなく、趙は石虎による権力簒奪の嵐に巻き込まれていった。林暁は、慕容雪と共に涼と成の国境を監視する任に就きながら、静かに時を待っていた。だが、その静寂は、都から届く血生臭い報せによって、日々打ち破られていく。
(石勒殿……あなたが命を賭して築き上げた天下は、この男によって、血と恐怖に染まっていくのか……)
林暁の予感は、すぐに現実となった。
石勒の葬儀は、趙の首都襄国で盛大に執り行われた。林暁は、妻となった慕容雪を伴い、涼と成の国境から急ぎ駆けつけ、弔問に訪れた。巨大な棺が安置された広間には、線香の香りが立ち込め、静けさの中に深い悲しみが満ちていた。林暁は、棺の前で静かに拝礼を捧げた。その表情は、遠い故郷と、失った者たちへの想いを宿しているようだった。
「林暁よ、来たか」
背後から、凍てつくような低い声が聞こえた。林暁が振り返ると、そこに立っていたのは、喪服に身を包んでいながらも、その目には抑えきれない野心を燃やす石虎だった。彼の横顔には、勝利を確信したかのような不敵な笑みが浮かんでいる。
「貴様も、叔父上の死を悼んでいるようだな。だが、悲しみに浸っている暇などないぞ。これからは、我らの時代だ」
石虎の言葉は、この神聖な場所には似つかわしくない、傲慢な響きを持っていた。林暁は、静かに、しかし毅然とした声で答える。
「中山王……あなたの言葉は、あまりにも軽率です。陛下は、あなたの叔父上であり、この趙の礎を築いた方だ。その方を前にして、そのような言葉を吐くべきではない」
石虎は、林暁の言葉を気にも留めず、豪快に笑い声を上げた。
「ハハハ! 軽率だと? 馬鹿を言え。わしは、石勒殿の夢を引き継ぐだけだ。天下統一という、壮大な夢をな。そのために、多少の血が流れることなど、些細なことではないか。石勒殿も、きっとそう望んでおられるだろう」
石虎は、そう言い放つと、林暁の肩を強く叩いた。その手は、まるで林暁を己の駒として支配しようとするかのように、重く、粘着質だった。
「貴様の才は、わしも認めている。これからは、わしと共に、この天下を動かしていくのだ。林暁よ、お前もまた、英雄の一人となるのだ」
林暁は、石虎の言葉に、何も返すことができなかった。彼の目に映るのは、野心に燃え、血に飢えた石虎の瞳だけだった。それは、石勒の瞳とは全く違う、冷酷な光を放っていた。
(この男は、石勒殿の夢を語っているが、その心にあるのは、己の野心だけだ。俺は、この男のために、戦うことはできない……。いや、戦うべきではない。この後の歴史を俺は知っている。ここで俺が何をしようと、趙は滅びる運命なのだ。無駄な抵抗は、さらなる血を流すだけ……)
林暁は、石虎から少し距離を置くと、静かに棺に頭を垂れた。その背後で、石虎の傲慢な笑い声が、虚しく響いていた。
葬儀の後、石虎は石勒の遺命を無視し、程遐や徐光といった忠臣たちを次々と粛清していった。林暁は、その報せを聞くたびに、趙の未来が暗雲に覆われていくのを感じていた。
石虎の暴挙に、人々は沈黙した。しかし、彼の冷酷な支配に憤りを感じる者もいた。劉皇太后、彭城王石堪、そして関中の石生と洛陽の石朗が石虎討伐の兵を挙げた。
石虎は自ら七万の兵を率いて出撃し、洛陽で石朗の軍を壊滅させた。石朗の足が切断されてから処刑されたという報せは、林暁の心を深くえぐった。続いて長安へと進軍した石虎は、子の石挺が郭権に敗れて戦死するという痛手を負った。
林暁は、石虎が反乱を鎮圧するために各地を転戦する間、長安を守っていた。石挺の敗死を知った石虎は、血相を変えて林暁を呼び寄せた。
「林暁よ、なぜ貴様は、郭権の反乱を鎮圧しなかったのだ? お前の軍ならば、容易いことだったはずだ!」
石虎の声には、息子を失った悲しみと、林暁への疑念が渦巻いていた。林暁は、その殺気立った視線をまっすぐに見据え、冷静に答える。
「石虎殿、私が命じられたのは、長安を守ることです。それ以外のことは、命じられておりません。まして、私の軍を動かせば、長安の守りが手薄になる。それは、石虎殿の命に背くことになります」
林暁の言葉に、石虎は言葉に詰まった。林暁は、それ以上何も言わず、一礼すると、長安へと帰っていった。
(石虎殿は、俺を疑っている。だが、俺は、ただ命じられたことをこなしただけだ。無益な血は流せない……。石勒殿が守ろうとした民の命を、俺は守る。趙の命運は、歴史が示す通り、石虎殿が握っている。俺が何をしても、この流れを変えることはできないのだ……)
林暁は、石虎の思惑を理解していた。石虎は、自分を試していたのだ。しかし、林暁は、その試みに乗るつもりはなかった。彼は、石虎の権力欲のために、無辜の血を流すことを拒絶した。
石虎は、林暁の言葉に、彼の忠誠心と、その底知れぬ才覚を改めて知った。彼は、林暁を完全に支配することはできないと悟った。しかし、林暁の才は、石虎の天下統一には不可欠なものだった。
石虎は、林暁に気を遣い、開府儀同三司、京兆将軍に任じ、引き続き長安を守らせた。それは、林暁を都から遠ざけ、その才を権力闘争に巻き込ませないための、石虎なりの配慮でもあった。林暁は、この任官を静かに受け入れた。彼は、長安という要衝を守ることが、ひいては多くの民の命を守ることにつながると信じていた。
石虎が反乱を鎮圧し、権力を確固たるものにしている頃、趙の首都襄国では、さらに悲劇的な出来事が起きていた。
十月、皇帝石弘は、自ら璽綬を携えて魏宮を訪れ、石虎に帝位を譲る意を伝えた。林暁は、その報せを聞き、石虎の狡猾さに戦慄した。
(禅譲という形を繕い、自身の正当性を主張するつもりか……。石弘様は、もう利用価値がないのだ。石虎殿は、邪魔な存在を、全て排除するつもりだ)
石弘の意向を受けた尚書は、「魏台が唐・虞の禅譲の故事に依る事を求めます」と奏上したが、石虎は「弘は暗愚である。これは廃するべきであり、どうして禅譲など受けようか!」と述べ、石弘を廃位する口実とした。
十一月、石虎は丞相郭殷に命じて石弘を廃し、海陽王に封じた。そして、石弘を程皇太后・秦王石宏・南陽王石恢と共に崇訓宮に幽閉した。
林暁は、この悲劇的な結末に、深い悲しみを覚えた。
(石弘様……あなたの運命は、石勒殿が崩御された時から決まっていたのかもしれない……。俺は、何もできなかった……。いや、何もすべきではなかったのだ)
しかし、悲劇はそれで終わらなかった。石虎は、幽閉した石弘たちを、やがて殺害したのだ。林暁は、この報を聞き、絶句した。
「中山王……一体、いつまで血を流せば気が済むのだ……」
石弘が殺害されたという知らせは、趙の各地に衝撃を与えた。群臣は涙を堪えられず、宮人は慟哭したという。しかし、石虎に逆らう者は、もう誰もいなかった。彼の権力は、完全に確立されたのだ。
林暁は、妻となった慕容雪を抱きしめ、静かに夜空を見上げた。彼の心は、石虎が築き上げた、血塗られた天下の未来を憂慮していた。
「将軍……」
慕容雪は、林暁の不安を察し、優しく囁いた。
「大丈夫です。私は、将軍と一緒なら、どこへでも行きます」
林暁は、慕容雪の温かい言葉に、心の安らぎを感じた。
「ああ、雪……。俺は、この乱世を、そしてお前を守るために、何を為すべきなのか……」
石虎は、ついに趙の新たな支配者となった。しかし、その支配は、血と恐怖の上に築かれたものだった。林暁は、この乱世を、そして愛する妻を守るために、新たな決意を固めるのだった。