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五胡転戦記  作者: 八月河
劉石冉漢趙魏
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絶望の彷徨、そして囚われの身へ

燃え落ちた洛陽を背にして、林暁はただ、あてもなく荒野を彷徨い続けていた。季節は夏を過ぎ、吹き抜ける風にはすでに肌寒さが混じる。草木は枯れ、地表は乾ききってひび割れていた。かつては豊かな田畑が広がり、人々の営みがあったはずの土地は、いまや死の沈黙に包まれている。地平線の向こうまで続くのは、黒焦げになった村の残骸と、風雨に晒され白骨化した無数の骸。その光景が、林暁の心に刻まれた永嘉の乱の記憶を、鮮明に呼び起こし続けた。


「妻子の安否は、最早、望むべくもないだろう……」


脳裏に浮かぶのは、愛しい妻と幼い子供たちの顔。あの地獄のような混乱の中で、彼らが無事であると考えるのは、あまりにも残酷な幻想だった。もし生き残っていたとしても、この乱世でどうやって生きていけるというのか。自分だけが、この呪われた不老不死の体ゆえに、生きながらえている。死にたくても死ねないという事実が、この地獄のような光景の中で、彼をさらに追い詰めた。


「なぜだ? なぜ俺だけが、こんな目に遭わなければならない? 姜維に師事し、司馬昭に認められ、魏晋の未来に貢献できると信じていたあの頃は、夢だったのか……」


かつての栄光が、現在の惨めな境遇とあまりにもかけ離れていることに、林暁は吐き気を覚えた。飢えと渇きが彼を苛んだが、それすらもはや大した苦痛ではない。本当の痛みは、身体ではなく、精神にあった。生き延びたことへの罪悪感は、胸を蝕む重石となり、守れなかった者たちへの悔恨は、熱い鉄が心を焼くようだった。そして、終わりのない孤独は、彼を際限なく深淵へと引きずり込んでいく。


このまま、自分は永遠にこの苦痛を味わい続けるのか。どこかに、この存在を消し去る術はないのか。林暁の瞳は虚ろで、まるで生きる屍のようだった。ただひたすらに、北の荒野を南へと下っていく。そこに希望があるわけではない。ただ、足が動く限り、進むしかなかった。


その時、遠くで砂煙が上がった。地平線に小さく見えた点が、あっという間に数を増し、馬の蹄の轟音と、荒々しい叫び声が林暁の耳に届く。紛れもない、漢の兵士たちだ。その数、およそ二十騎。彼らの顔には、略奪と勝利の笑みが張り付いており、腰には血に濡れた晋兵の得物がぶら下がっている。


「来たか……」


林暁は、微動だにせず、立ち尽くした。永嘉の乱での記憶が、再び彼の脳裏を駆け巡る。血に染まる洛陽の街、次々と倒れていく仲間たち、そして、その血の海の中で、どれだけ傷ついても死ぬことができなかった自分。逃げる気力も、抵抗する意思も湧かなかった。むしろ、この体で死ぬことができるなら、それも悪くないとさえ思った。彼はただ、虚ろな目でその集団を見つめた。


先頭の騎馬兵が林暁のすぐ目の前で手綱を引き、土煙を上げて止まる。


「おい、こんなところに生き残りの晋兵がいるぞ!」


一人が叫ぶと、他の者たちも槍を構え、林暁を取り囲んだ。彼らは林暁に得物を向けたが、すぐには手を出さなかった。ただ、警戒と好奇の視線を向けている。


「……何だ、こいつ。目が生きてねぇぞ。まるで人形じゃねぇか」


「晋の兵にしては、やけに落ち着いてやがる……妙な野郎だ」


「おい、よく見ろ! 服は破れてるが、大した怪我もない。この荒野を何日彷徨えばこうなる?」


「何か、只ならぬ気配だ……普通じゃねぇ。おい、うかつに手出すなよ」


兵たちは互いの顔を見合わせ、得体の知れない雰囲気を放つ林暁に困惑していた。彼らの本能的な危機察知能力が、林暁の持つ異質な何かを警告していたのだ。


兵たちは林暁に指一本触れることなく、粗縄で縛り上げた。そして、まるで貴重な獲物でも扱うかのように、丁重に馬に乗せ、そのまま彼らの指揮官へと報告に向かった。報告を受けた指揮官は、林暁の尋常ならざる様子を聞き、わずかな躊躇もなく、彼を直ちに将軍へと引き渡すことを決断した。この男が持つ底知れぬ何かが、通常の捕虜とは違うと即座に判断したのだ。


林暁は、疲弊しきった体で漢趙軍の野営地へと連行された。粗末な木柵で囲まれた簡素な野営地には、略奪品や捕らえられた漢人があふれ、混沌とした空気が漂っている。周囲の兵士たちは、彼を化け物を見るかのような目で遠巻きにしている。やがて、彼は将軍の幕舎へと連れて行かれる。幕舎の中には、猛々しい髭を蓄えた、いかにも乱世の将といった風体の男が、毛皮の敷物の上に胡坐をかいていた。


将軍の鋭い眼光が林暁を射抜く。


「ほう……晋の兵で、永嘉の乱を生き残ったか。その目、只者ではないな。名を名乗れ」


林暁は答えなかった。答える気力も、意味も見出せなかった。


「どうせ、また同じことの繰り返しだ。尋問され、利用され、そして……また全てを失う。ならば、いっそ、このまま消え去りたい。こんな生は、もううんざりだ」


将軍は林暁を一瞥すると、顎をしゃくって部下に命じた。


「こやつを牢に入れろ。尋問は後だ。手出しは無用、だが警戒は怠るな。何か奇妙な動きを見せたら、すぐに報告せよ」


林暁はそのまま、薄暗い牢の中へと放り込まれた。冷たい土間には、彼の無力な体が横たわる。外界の騒音が遠ざかり、闇が彼を包み込んだ。死ねない苦痛と、囚われの身となった屈辱。彼の魂は、深い海の底へと、ゆっくりと沈んでいくようだった。

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