執念の音
「レーナちゃん?」
その背中に呼びかけるが、彼女は振り返らなかった。いつもなら、こちらを見て笑ってくれる。任せておけ、と言って安心させてくれるはずだ。しかし、今日は少しも見てくれない。背中から感じられる気配も、どこか別人のようだった。
そんな彼女は散歩に出かけるような足取りで、トンプソンの方へ向かう。対するトンプソンは危険を察知したのか、これまで深々と被っていたフードを脱いで顔を見せる。スキンヘッドの冷たい目をした男だった。
二人の視線が交錯する。それだけで、さらに息が詰まるようだった。トウコだけではない。ノノアもロザリアも口を開こうとはしないほど、圧迫した空気感だった。
二人の距離がある程度詰まると、彼女は柔らかい動きで拳を構える。トンプソンも山を思わせるような大きくてゆったりとした構えを見せた。そして、なんの前触れもなく、唐突に始まる。
軽くステップを見せた彼女が、目にも止まらなぬ速さで踏み込むと同時に、前手で突き刺すようなパンチを放つ。あまりのスピードに反応できなかったのか、それは見事にトンプソンの顎に直撃し、彼の体が傾いた。
早期決着。
そのまま、倒れるのかもしれない。そう思われたが、トンプソンはふらふらと後退しながら、すぐに体制を立て直す。
が、彼女はすぐに距離を詰めて、左右のパンチを連続して放った。トンプソンはガードで頭部を守るが、彼女は狙いを変えて、空いたボディに連続で叩き込み、静かな公園に肉を打つ激しい音が響く。そこから想像させられる威力は、普通の人間であれば蹲って動かなくなるところだろう。
だが、トンプソンは彼女の腰にしがみついたかと思うと、強引に持ち上げてから地面に叩きつけた。さらに、立ち上がろうとする彼女の顔面に向かって爪先を振り回す。立ち上がろうと四つん這いの姿勢の彼女には、その攻撃は見えていないはず。サッカーボールのように頭を蹴り飛ばされ、彼女の意識は刈り取られると思われた。しかし、彼女は本能的な動きで姿勢を低くし、それをやり過ごすと、這うようにして距離を取りながら立ち上がった。
再び二人が向き合った瞬間、拳が交錯する。どちらも相手の顔面を捉え、どちらも衝撃に後退を強いられる。だが、その表情は対照的だ。一方は静かな刃のように。もう一方は肉を食らう獣のように。
相手の実力を確かめ合ったように頷き合うと、二人とも間合いを図りながら、相手のリズムに同調し始める。先に一歩距離を詰めたのはトンプソン。しかし、その膝頭を踏み付けるような蹴りが、彼の進行を止め、さらに肝臓を潰すような前蹴りが伸びた。
突き刺すような痛みに、口から一気に酸素が漏れるが、それでもトンプソンは前に出る。踏み出しながら放たれる右の拳は、想像以上に伸びた。彼女は身を捩って、その軌道から逃れつつ、距離を取って躱したつもりが、頭部に衝撃が。遠退く意識。その間に追撃の魔の手が、彼女の頭を抑え込む。そして、突き上げるような膝が何度も彼女の顔面を突き上げた。
「し、死んじゃうよ……!!」
思わずトウコは呟くが、それは誰にも届かない。トンプソンの激しい攻撃に彼女は膝を折ると思われたが、がっしりと腰にしがみつき、足払いを仕掛けた。その素早い足捌きにトンプソンは為す術なくバランスを失い、二人はもつれるように倒れ込む。
先に上を取ったのは彼女の方だ。トンプソンに覆いかぶさるようにして、彼の動きを抑え込んだ後、何度も何度も拳を叩き込む。頭部のダメージを嫌ったトンプソンが顔を守ると、ボディを叩き、腹部に蓄積するダメージを嫌がってボディを守ると、頭部を叩いた。
このままでは削られる。そう判断したであろうトンプソンは、殴られながらもダメージを無視して何とか立ち上がり、一瞬の隙を突いて彼女に肘を叩きつけた。顔面を弾かれ、さすがの彼女も覚束ない足取りで後退する。そこに追撃があれば、意識を刈り取られていただろう。
だが、先に動いたのは彼女の方だ。前手の拳で牽制した直後、トンプソンの脹脛を横から蹴り付ける。足元を襲った激しい痛みに、トンプソンが姿勢を落とした瞬間、今度は凄まじい飛び膝蹴りが彼を襲う。
トンプソンの顔は弾かれ、天を仰ぎ見るようにしながら何歩も後退した。それは決定的な一撃だった。彼からしてみると、相手の方が強いと認めざるを得ない一撃。彼女からしても勝ちを確信する瞬間だった。
数秒間、二人は睨み合ったが、彼女が一歩前に出ると、人差し指を足元に向けて、トントンと叩くように、眼前を指し示しすではないか。
――ここで足を止めて殴り合い、決着を付けよう。
つまりは、そういうことだ。勝敗は決している。距離を読み合い、技術を駆使されてしまえば、トンプソンに勝ち目ない。唯一の勝ち筋は至近距離によるパンチの応酬。それを……彼女の方から誘ってきている。トンプソンは彼女が指し示したゾーンに足を踏み入れた。手を伸ばせば確実に相手の顔面に拳が入る距離だ。
静寂。勝負が決する瞬間の、完璧な静寂。
だか、聞こえてくる。自らの敵を撃ち抜こうとする執念の音が。
そして、始まった。トンプソンの右フックが彼女の顔面を襲う。だが、それはブロッキングによって防がれ、逆に彼女のパンチが右左と連続で返ってきた。トンプソンも的確なブロッキングで凌ぐが、今度は両方の脇腹に拳を叩き込まれる。
防御よりも攻撃。トンプソンは右ストレートを返すが、彼女は姿勢を低くして躱している。それどころか低い位置から付きあげるアッパーで、トンプソンの顎を叩いた。トンプソンの動きが止まる。立ってはいるものの、半ば意識がないことは確かだ。
それでも、彼は左右のフックを放って反撃に転じる。一つは彼女の顎を確かに捉えた。もう一発当たれば、勝敗はひっくり返る。トンプソンはさらなる一撃を放とうとした。しかし、ダメージが足から力を奪い、拳を放つタイミングが遅れてしまう。
それが致命的だった。トンプソンがもう一度攻撃の体制に入った瞬間、彼女の拳によって顎を撃ち抜ぬかれるのだった。
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