日常に入り込む魔の手
前日の夜も異常はなかった。いつもと違う点と言えば、隣のビルの屋上でトウコの部屋を見守っていたレーナが、やや寝不足であるくらいだ。
「ふわぁ……」
あくびをすると、トウコに一瞥されて思わず口を閉じる。別に悪いことをしているわけではないが、なぜか咎められているような気分だ。
そうなると、どこか虫の居所が悪くなってしまうレーナだが、最悪のタイミングで最悪の来客があるのだった。
「やっほー、レーナちゃん。余がきたぞ」
喪服のような黒いスーツに黒髪の男。十年前までは人類を脅かしていた恐怖の象徴、魔王である。
「何の用だ。殺すぞ」
「さっそくそれか。どうやら機嫌が悪いと見える。どうだ、余とランチに行かんか?」
「お前が来たから不機嫌なんだよ。三秒以内に消えないとマジで殺すからな?」
「ふむ……」
これは篭絡が難しい、と判断したのか魔王はトウコの方を見る。
「おい、ウィスティリアの小娘。今日も土産を持ってきたぞ。こっちに寄れ」
「えー、なんかいつもすみません」
警戒心なくトウコが魔王へ近づくため、レーナが素早く二人の間に入る。
「待て待て。ウィスティリアの小娘に危害を与えるつもりはない。ほれ、これが土産だ」
魔王が取り出したのは黄金色の魔石である。レーナを経由して渡されたそれをトウコはまじまじと見つめ、その価値に気付いたようだった。
「こ、こ、これ……もしかして、ノノア先生の??」
「ほう、なかなか気付くではないか。そうだ、あのノノアが加工した魔石だ。しかも、やつが三十五のときに手がけた代物よ。この意味、分かるか?」
「先生が……人気絶頂のときの作品!!」
「ぬはははっ、感謝すると良い! それで小娘よ、レーナちゃんを借りても問題ないな?」
「お、お前……卑怯だぞ!!」
レーナが察知した通り、トウコは目を輝かせながら了承する。
「もちろんです! さぁ、レーナちゃん。魔王さんとご飯食べてきて。私は大丈夫だから!」
「話が早くて助かるぞ、小娘。さぁ、レーナちゃん。今日は何が食べたい? どんなものでも余と一緒であれば最高級品であるぞ」
「行かねーよ!!」
「だそうだ、小娘。すまないが魔石は返してもらうぞ」
「レーナちゃん……」
魔王が催促するように手を伸ばしてきたため、トウコが涙ぐむ。これには堪えるレーナだが、今日は譲らなかった。
「魔石は返さなくていい。でもランチも行かない」
「さすがはレーナちゃん。清々しいほどの踏み倒しっぷりよ。が、その強引な態度。貴様の主は許すかな?」
レーナは相手が魔王であろうが、態度を変えない。だが、同じくトウコも相手が魔王であろうが態度を変えないのだ。
「ダメだよ、レーナちゃん。こんな高価なものをいただいたんだから、少しでもお返ししないと」
「じゃあ、返すかトウコがランチに行ってやれよ……」
「魔王さんはレーナちゃんと行きたいの。ほら、私のことは気にしなくて大丈夫だから!」
何としてでもレーナをランチへ行かせようとするトウコだが、いつもより強情な態度に魔王も何かを察したらしい。
「おい、雑用係」
「ぼ、僕ですか?」
気配を消していたのに、突然声をかけられて、動揺するゼノア。しかも、勝手に雑用係という役割に当てはめられているようだ。ただ、否定できないのが悲しいところだ。
「あの二人、何かあったのか? いつもなら、この手を使えばレーナちゃんを連れ出せるはずだが」
「それがですね……」
ゼノアの説明に魔王は納得したのか、何度か頷くと笑みを浮かべながらレーナを呼んだ。
「そこまで小娘の安否が心配ならば、レーナちゃん。余はこの工房の向かいにあるギョーザの銅賞でも構わんぞ?」
「なんでてめえと飯に行くのに銅賞なんだよ! チェーン店じゃなくて高級店にしやがれ!」
「じゃあ、王城周辺の店に行くか? なんなら魔王城まで招待してもいい」
「ふざけるな。私はここから離れない」
「ねぇ、レーナちゃん」
苛立ちを募らせるレーナに、トウコは冷静に指摘する。
「このまま私の心配を続けていたら、いつになっても日常に戻れないよ。少しずつこの状況に慣れて行こう?」
「でもよ……」
「分かった分かった」
渋るレーナだが、魔王もなかなか諦めが悪く、別の案を出してきた。
「余が護衛を用意してやる。屈強な魔族の護衛であれば、不審人物も寄り付くことはあるまい」
それでは依頼人も寄り付かないのでは……とゼノアは心の中で疑問に思ったが、魔王が怖くて口にできなかった。そして、レーナが反論するより早く、魔王は電話をかけ始める。
「バトラー、こっちに腕利きの魔族を数名寄こせ。あの暇人三人組でいいだろう。何なら貴様もこい。その方がレーナちゃんも安心するだろう」
一方的に電話を切ってしまう魔王だが、五分もするとウィスティリア魔石工房に四人の魔族が現れた。
「お久しぶりです、レーナ様。何でも護衛が必要と言うことで、屈強なやつを用意いたしましたよ」
「ふん、お前がいれば遅れは取らないだろうけどな」
小柄な老人のような見た目の魔族はバトラー。レーナは十年前の戦いで、彼の実力は十分に知っている。
「レーナ様の安心のためなら、戦力は惜しみません。で、こっちの三人がキロスにキーラにバムウです」
バトラーの後ろに立っていたのは三人の魔族。キロスは巨漢。魔力使いの女がキーラ。素早さが自慢の痩躯がバムウである。魔族の中でも実力者ではあるが、レーナは溜め息を吐く。なぜなら、レーナは彼らを三人同時に相手して、軽く捻ってやったことがあったからだ。
「なんだ、お前らか。もう少し骨があるやつは呼べなかったのか??」
「レーナ様、この三人を前にして恐れない人間は、貴方様くらいなのですよ」
結果、レーナが折れる形で彼女は魔王に連れ出されることになった。だが、工房には魔族が四人も居座っている……。仕事に集中しようとするゼノアだが、魔族たちが気になって仕方なかった。
「なんか……凄い息苦しいんですけど、気のせいですかね??」
「気のせい気のせい。魔王さんの部下なんだし、安全だよ」
この状況をトウコは受け入れているようだが、ゼノアは気のせいで済ませられなかった。人類の敵、ラスボスと言える魔王の部下を前にして何が安全だと言うのだ。トウコも完全に感覚が狂っている。
ゼノアはちらりとバトラーの方に視線を向けると、怪しい笑みが返ってきたため、目を逸らすのだが、体の芯を冷やされたような感覚に身震いするのだった。
感想・リアクションくれくれー!!




