第9話 心の境界線を越えて
今にも雨が降りそうなどんよりとした曇り空。
気がつくと長月も終わろうとしており、月華が紅蓮寺に来てから約半月が過ぎようとしていた。
月華は鬼灯と初めて出会った時のように、縁側に腰をかけぼんやりと境内を見つめていた。
あの時と同じように美しい曼殊沙華が一面に咲き誇っている。
体に負った傷はまだ完全には癒えていなかったが、少しずつ動かすことができるようになってきていた。
「美しいですよね、まるで紅蓮の炎みたいで」
そう言いながらどこからともなく現れた百合は静かに月華の隣に腰を下ろした。
月華が目覚めてからも、献身的に介抱していた百合。
月華にとっていつの間にか常にそばにいることが当たり前のような存在になっていた。
鬼灯が冗談めかして言った通り、百合は見目麗しい姫だった。
艶のある長い黒髪は百合が動くたびに軽やかに揺れ、陶器のように透き通る白い肌は姫と呼ぶにふさわしかった。
藤色の着物に包まれた体は華奢で、転ぶと折れてしまうのではないかと月華はいつも心配になる。
「百合姫——」
月華が話をしようとすると百合はそれを遮るように身を乗り出して言った。
「月華様、何度言ったらわかってくださるのですか? 私はこの紅蓮寺にお世話になっているだけで、姫などと呼ばれる立場にはありません。どうか私のことは百合とお呼びください」
百合はここ半月の間、繰り返される会話をもう何度目かと咎めながら困り顔だった。
「それに、私に対して丁寧な言葉を使っていただく必要もありません。どうか私のことは町娘だと思ってお世話係としてお使いくださいね」
屈託なく笑う百合を見て、月華は深いため息をついた。
保護するつもりで来た自分が、逆に助けられ世話をかけているこの現状だけでも受け入れがたいのに、その上、本当の姫君を町娘のように扱うことなど、到底できるわけがなかった。
すでに鎌倉幕府の手によって征伐された一族の出身とは言え、その出自が姫であることに変わりはない。
「貴女はいいかもしれないが、俺にとってはよくない」
「別に呼び方なんてそんなに重要なことではないと思いますが」
百合は不機嫌に視線を逸らした。
もう、このやり取りをするのも何回目だろうか。
呼び方は重要でないと思うのなら、姫と呼ばれることも受け入れればよいものを―月華は内心そう思っていた。
「貴女は見た目に似合わず頑固だな」
「……っ! 月華様、それはどういう意味ですか」
百合は見る見るうちに顔を赤らめ、床板を力強く叩いた。
それは隣に腰掛ける月華にも振動が伝わるほどだった。
何度もこのやり取りを続けているが、百合は一向に譲る気配がない。
結局、百合が最後まで折れなかったため、月華が折れるしかなかった。
「わかった……百合殿」
「はいっ!」
百合は嬉しそうに微笑んだ。
先刻までの怒りはどこ吹く風とばかりに彼女はすっかり機嫌をよくしていた。
「でも、貴女はどうしてそこまで姫と呼ばれることを嫌がるんだ」
「……私はもともと人の間に序列があることを好みません。同じ人として生まれたのに、生まれた家が違うだけで、使役したり使役されたりすることは間違っていると思っているから」
何でもないことにように言う百合を見ながら月華は、一瞬絶句した。
まさか自分と同じ考え方をする人間が身近にいようとは夢にも思わなかったからである。
そんな様子には気づかず百合は静かに続けた。
「奥州にいた時の家臣たちはいつもかしずき、恭しく首を垂れていました。藤原家の姫として大事に扱われていましたが、その分、絶対に超えられない壁が互いの間にあったのです。それは姫である私と家に使える家臣という立場がそうさせているのではなかったかと……」
月華はじっと百合を見つめていた。
月華もかつて、九条家の中で同じことを感じていた。
自分と同じように悩み、苦しみ、ひとりで戦ってきた百合——月華はそんな彼女に共感した。
月華は無意識のうちに、百合に手を伸ばしながら、はっと気がついてその手を引っ込める。
行き場のない手を握りしめた。
「……月華様?」
「……俺たちは同じなんだな」
「えっ?」
百合は月華が小さく囁いた言葉が聞こえない様子だったが、月華の顔が優しくがほころんでいるのを見て、一瞬、心を奪われた。
半月ほど一緒にいてもそれまではいつも悩んでいたり、難しい顔をしていたりと、百合にとって月華は明るく優しい表情を見せることがない人だった。
不意打ちのように感じ、百合は赤くなっているだろうその顔をそっと逸らした。
気がつくと百合の足元にはいつも遊びに来る野兎が1羽、じゃれていた。
餌を与えているわけでもないのに、まるで百合の様子を伺いに来ているかのようだった。
おまけに最近は季節外れの蝶まで1羽、いつも百合の周りをひらひらしているのを見て、月華は平和であることに安堵していた。
半月前、紅蓮寺の麓で鉢合わせた陰陽師たちはその後、寺にやって来てはいないようだった。
万が一、攻めてこられるようなことがあったとしても、鉄線や師匠である雪柊がいれば大事には至らないだろうとは思っていたが、何もないことがかえって不気味さを感じる。
彼らはなぜあそこにいたのか。
親友の李桜に事情を探る文を出したが返事はまだなく、理由はわかっていない。
何をしていたのかも、月華には見当がつかなかった。
最初は百合を狙っているのかとも思ったが、そもそも百合が陰陽師に狙われる理由がわからない。
「百合殿、ひとつ訊いてもいいか?」
百合は足元でじゃれる野兎を膝に抱き起しながら、月華に向き合った。
「貴女はなぜ紅蓮寺に来たんだ?」
「ふふっ。そうでしたね、月華様にとってはどうして私がここにいるのか不思議ですよね」
野兎の頭を撫でながら百合は言った。
「私は雪柊様に拾われたのです」
「拾われた?」
「はい。奥州征伐の戦があった折、戦場から逃げ出し、命からがら逃れて途中で倒れていたところを、通りかかった雪柊様が助けてくださいました」
百合はその時のことを懐かしむように目を細めた。
「私の事情を察してくださった雪柊様がこの紅蓮寺に連れてきてくださったのです。あの戦で奥州藤原氏は滅亡してしまったと聞きます。今は身寄りのない身なので、それ以来ここでお世話になっています」
家族も帰るところもなく、ひとりになってしまった百合の境遇を思い、月華は心が痛かった。
同時に、家を捨て、家族を捨てた自分と重なり、気がつくと今度は躊躇うことなく百合の肩を抱きよせていた。
生き物たちに愛される百合、身分の差があることを嫌う百合、天涯孤独になってしまった百合。
彼女のことを思うと、なぜか鼓動が高鳴り、胸が締め付けられるような感覚が消えない。
「貴女は強いな……」
こんなに苦労を続けてきた百合を、朝廷はなぜ今更、保護しようと考えたのか。
雪柊に保護される前に保護することもできたのではないか。
もし、保護という名の別の目的があったとしたら―本当にこのまま百合を朝廷に渡していいのか。
月華はそっと百合の頭を撫でていた。
どのくらいの間、そうしていたか。
百合も抵抗することはなかったし、月華も百合を手放しがたかった。
そんな時、ふたりの間に流れる静寂の中に、かすかな気配を月華は感じた。
急に鋭い顔つきになった月華は、手元に置いてあった刀を手に取ると、素早く抜き放った。
百合には何が起こったのかわからなかったが、月華は縁側に片膝をついた状態で刀を構え、じっと境内の方を見据える。
すると次の瞬間、彼は裸足で境内に駆け出していった。
何かいる。
月華の傷の治りは万全ではなかったが、百合を危険に晒すわけにはいかないという思いだけが、月華の体を突き動かしていた。