第8話 親友ふたり
あいにくの曇り空の中、久我紫苑は1冊の書物を片手に悠々と歩いていた。
朱色の朝服を身にまとい、髪を靡かせ颯爽と行く彼の姿はどこにいても堂々としていて目立っている。
朝廷内ではどこにいても見つけられる存在感を放っていた。
秋の風が心地よく、紫苑は一時期暮らしていた紅蓮寺の境内に咲く曼殊沙華を思い出した。
久我家は公家の中でも武術に長けた一族として朝廷内では有名で、代々軍事を司る兵部省に所属している。
紫苑には紅蓮寺で月華とともに修業した日々が懐かしく思い出された。
(あれからもう4年か……今頃あいつはどうしているのか)
ふと紫苑は、秋晴れの空を見上げた。
京の中には、六波羅という土地があり、そこには鎌倉幕府が朝廷を監視するために設置した役所が存在していた。
そこは六波羅御所と言われ、その任を担う六波羅探題の住居も兼ねた役所として存在感を放っている。
紫苑は、時間ができるとよくそこを訪ねていた。
叔父の雪柊の友人であることをきっかけに北条鬼灯とは親しくなり、時には戦での戦術の話に花を咲かせるほどだった。
紫苑は、20日ほど前に鬼灯から借りた書物を片手に、六波羅門の前にたどり着いた。
そこには門番が立っており、こちらに恭しく首を垂れる。
「おう、ご苦労さん。鬼灯様に取次ぎを頼む」
門番は顔を上げると少し困った顔で紫苑に言った。
「久我様。実は北条様はまだ戻られておりません」
「ああ、そう言えば鎌倉に行かれるとおっしゃってたよな。そうか、まだお戻りじゃないのか」
紫苑は書物を肩に担ぐとばつが悪そうに首を傾げた。
「まいったなぁ。お借りしたものを返しに来たんだが……。いつお戻りになるんだ」
「少し寄り道するからと2日ほど前に文が届きました」
門番は懐から文を取り出すと、紫苑に手渡した。
文の表には北条家の家紋である三つ鱗が記されておりその下に『鬼』の文字が書かれていた。開くと、中には「10日の後に戻る」とだけ書いていあった。
「相変わらず雑な文だな」
「文が届いたのが2日前ですので、数日後にはお戻りなるかと」
門番が申し訳なさそうに言うと、
「——鬼灯様はご不在なの?」
と、門番と紫苑が呆然としているところへ、後ろから声をかけてくる人物があった。
紫苑が振り向くとそこにはよく見知った幼馴染の官吏仲間がいた。
浅黄色の朝服に身を包んだ小柄な青年だった。
「李桜じゃねぇか! 六波羅に来るなんて珍しいな」
久しぶりに見る友人の顔に紫苑は嬉しくなり、すかさずその首に絡みついた。
朝廷でも要職に就く官吏ふたりを前に、門番はただ恐縮していた。
「お前、いつも御所に仕事詰めで、六波羅どころかほとんど外に出ることがないんじゃないのか」
「ちょっと……やめてよ、紫苑」
李桜は首に回った紫苑の腕から逃れると、わざとらしく朝服の乱れを正した。
久しぶりに見る友は兵部少輔としてさらに逞しさを増しているようだった。
代々兵部省に務める久我家の家訓として幼少期より常に鍛錬を続けているという。
李桜には、朱色の朝服に身を包み凛々しく立つ紫苑が眩しく映った。
「紫苑こそ、何しに六波羅に来たの?」
「ああ俺か? 俺は鬼灯様にお借りした書物を返しに来たんだ。でもまだ鎌倉からお戻りじゃないらしくてな。ここで立ち話をしてたってわけだ」
「鬼灯様、鎌倉に行ってるの?」
「らしいな」
それを聞いて、李桜は少し不審に感じた。
月華が鎌倉を出ることになったのは、何らかの任務を受けたからに違いない。
月華に命じることができるのは北条鬼灯だけだろう。
鬼灯は普段は京にいるが、わざわざ鎌倉まで自ら出向いて行き、月華に何かの命を下した。
それだけ重要な任務だったに違いない。
月華は命を受けて近江へ行ったか、京へ来る途中だったか、いずれにしても任務遂行半ばにして今は山寺にいる。
それほどの重要な任務とは、一体何だったのか……。
李桜が六波羅に来たのは鬼灯から情報を得るためだった。
月華と陰陽師の間に何があるのか、月華の事情を最もよく知っている人物であり、親代わりの腕の立つ御仁であることを分かった上で、鬼灯と話がしたかった。
鬼灯は気さくな人物で、朝廷とは対立する幕府の立場でありながら、紫苑同様、李桜にも目をかけてくれている。
立場は違えど、李桜が一番に信頼を置く人物である。
「紫苑」
「ん、どうした」
「僕に少し力を貸してほしいんだけど」
「……明日は季節外れの雪かぁ? 雹が降ってくる可能性もあるな」
紫苑は初めて見る親友の懇願する表情を見て、一瞬固まってしまったがすぐに冗談めかして返した。
これまで小ばかにされることはあっても真剣に相談をされたり、助けを求められたことがなかった紫苑にとってこの上なく嬉しいことだったが、その反面、気恥ずかしくもあり、素直に李桜の願いを受け止めることができなかったのである。
「どういう意味」
「悪かった。お前が俺に頼みごとをしてくるなんて、雹が降ってもおかしくないと思ってな」
李桜は不機嫌に腕を組みながら軽く紫苑を睨みつけた。
普段ならその屈辱を3倍にして返すところだが、今の李桜には紫苑の協力が必要だった。
信頼できる人手はいくらあっても足りない。
懐から文を取り出すと、李桜は無造作に紫苑へ手渡す。
「これは?」
「月華からの文だよ」
「月華から?」
李桜は静かに頷いた。
「月華の身に何かが起こってる。鬼灯様に話を聞きたかったけど、紫苑、あんたの力も貸してほしいんだ」
紫苑はまったく状況が読めず、手元の文と李桜の顔を交互に見た。
李桜が朝廷でどれだけの仕事をこなしているか、紫苑はよく知っている。
その李桜が自分に手助けを求めてくるということはよほどのことなのだろう。
紫苑は、自分にできることなら、とふたつ返事で李桜の頼みを引き受けたのだった。
「で、俺は何をすればいいんだ?」
ふたりは鬼灯が不在の六波羅を離れ、それぞれの邸に向かって歩き出した。
「月華は今、山寺に滞在してるって書いてるでしょ。山寺って、あんたたちが昔、修業したっていう寺のことだよね?」
「ああ、紅蓮寺って書いてあるからそうだな」
「京から遠いの?」
「歩いては行けないが、馬か牛車か、何か移動手段があれば問題ないだろう。紅蓮寺に行くつもりなのか」
「この文の中に書かれてる調べ物は可能な限りするつもりだけど、伝えるのは文じゃなく、直接の方がいいと思うんだ。月華の様子も気になるし、互いに情報を交換できた方が手っ取り早いでしょ」
「まあ、そうだよな。で、どうして俺が必要なんだ?」
「はぁ? 僕はその山寺に行ったことがないんだから道も知らないし、どうやって辿り着けると思うの!? だいたい、その寺の住職はあんたの叔父上なんでしょ? 僕がひとりで行くより、あんたも一緒に行った方が中に入りやすいじゃないか」
李桜は話の通じない紫苑を前に目の端を釣り上げた。
「ああ、なるほど。それもそうだな。で、いつ行くつもりなんだ?」
「だから、調べ物が終わったら、だよ!」
李桜は助けを求める人選を間違えたような気がしてならなかった。
ふと空を見上げると、厚い雲が広がり始めており、いつ雨が降ってもおかしくないような空だった。
「ところで紫苑、あんたの叔父上ってどうして寺の住職なんてしてるの?」
「俺も詳しくは知らないな。気がついたら仏門に入ってたって聞いたけど、その前は朝廷の官吏だったって話だぜ?」
「官吏? それはつまり兵部省にいたってこと?」
「そうらしいな。久我家は代々兵部省に務めてるし、今は山寺に引っ込んでるが昔は朝廷で要人を警護してたとかなんとか……まあ、腕は立つから重宝されただろうな」
「要人って誰? まさか帝じゃないんでしょ」
「それはねぇだろう。俺も叔父上から昔の話を聞いたことはねぇからわからねぇよ」
そんな会話を続けながら歩くこと四半時。
大路の途中で李桜と紫苑はそれぞれの方向へ分かれていった。