第7話 対立の兆し
鎌倉幕府ができた今も朝廷は公家たちの権力争いの場として健在である。
京では公家が絶大な権力を持っており、政を動かしているのは朝廷に仕える官吏たちであった。
優秀な者は疎まれ、ありもしない醜聞をでっち上げられた上、その身を追われることも珍しくない。
朝廷には中務省、治部省、民部省、式部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省の8つの省があり、中でも朝廷に関する総務の全般を担う中務省は多忙を極めた。
優秀な官吏にしか職務が務まらないと言われる部署であるが、能力のある者たちが集まっている部署でもある。
西園寺李桜もそんな有能な官吏のひとりだった。
極めて忙しい中務省に務めていながら、顔色ひとつ変えずに仕事をこなす彼を、同じ職務に就く官吏たちは最も頼りにしていた。
小柄で細身の青年は一見すると女子かと見紛う端整な顔立ちだが、眼光は鋭く、20歳そこそこの若者でありながら常に冷静さを失わない人物であった。
長月の下旬、さわやかな秋晴れの昼日中、李桜は浅黄色の朝服に身を包み、京都御所内の中庭をぼんやりと見つめていた。
その手には1通の文が握られている。それは幼馴染である九条月華からのものだった。
顔を見せることはなくとも、自分の信念に従い活躍しているものと思っていたが、その文には京からほど近い近江の山寺にいると書かれていた。
月華は摂家のひとつ、九条家の長子であったが家を出奔し鎌倉で武士になったことを李桜は知っていた。
同じ官吏仲間の久我紫苑が山寺で月華と一緒に武術の修業をしていた折、鎌倉から来た武士に連れられて寺を離れたと聞いていたからだ。
九条家のみならず、朝廷内でも月華は行方不明になったとされていたため、李桜は自分が知りうる情報を誰にも言うことはなかった。
ほどなくして鎌倉幕府から朝廷を監視するために六波羅へ派遣された北条鬼灯から、月華は鎌倉で元気にしていると知らされた。
李桜は自らも公家の生まれとして何不自由なく暮らし、そのまま朝廷の官吏になることを疑問にも思わなかった。
同じ境遇で育った幼馴染として、何が月華を動かしたのか知りたいと思ってはいたものの、武士となった月華が京に寄りつくことはなく、その機会を得ることはなかった。
そんな昔のことを思い出しながら、李桜はもう1度手元の文に目を落とす。
「月華……」
文には近江の山奥で陰陽師に遭遇したことが書かれており、彼らが何をしようとしているのか知っていたら教えてほしいと書いてあった。
しばらく連絡を取っていなかった自分に文を寄越すということは月華が何かに巻き込まれようとしているのだろうと李桜は思う。
公家を嫌い鎌倉に逃れたはずの月華が、今、京で起こっている何かに呑み込まれようとしているのかもしれない。
想像するだけで、友人として心苦しかった。
陰陽師が所属する陰陽寮という部署は、李桜が務める中務省に所属している。
とは言え、陰陽寮は独立した機関であるため、李桜はその実態をよく知らなかった。
日頃は星見を行ったり、疫病を祓うための祭祀を行ったりと様々な行事を取り仕切っているが、これまで自分がそれらに関わったことはなく、月華が遭遇したという陰陽師が何をしていたのかは検討もつかなかった。
李桜は下唇を強く噛み、その手中の文を握りしめた。
月華の周りで何かが起こっていることは間違いない。
この文はまさに助けを求めている様に李桜には思えた。
「いつも忙しそうな李桜さんが呆然としているなんて、珍しいですね」
その時、李桜の背中に気配なく近づき声をかけてきた人物があった。
黒い狩衣に身を包んだ少年だった。
「……悠蘭」
月華のことを思い出していただけに、李桜は一瞬、月華が声をかけてきたかと思った。
性格はまるで似ていない兄弟だが、どことなく雰囲気が似ており、何より特徴的な赤茶色の髪は月華にそっくりだったからである。
悠蘭は月華が行方不明ということになってから、九条家を継ぐ跡取りとなるはずだったが、もともと月華に比べ一族に認めていられなかった彼は居場所をなくし、いつの間にか陰陽寮に拾われ、今となっては星見を担う陰陽師となっていた。
御所の中でも滅多に会うことはないが、久しぶりに見た悠蘭はやはり年を重ねるごとに月華に似てきている、と李桜は思う。
「久しぶりだね。同じ朝廷で働いているっていうのに、あんたの顔を見ることはほとんどないのが不思議だよ」
「それは李桜さんがいつも中務省に詰めているからじゃないですか」
「あんたがあちこち飛び回っているからでしょ」
互いに1歩も引かず、凝視し合ったまましばらくの刻が流れた。
生意気に口の端を吊り上げる悠蘭の様子に、李桜は違和感を覚えた。
(悠蘭ってこんな不敵な表情をする子だったかな)
見た目は月華に似ているのに、その表情は似て非なるものに思えてならなかった。
するとその悠蘭は失笑しながら李桜に言った。
「李桜さん、仕事を放ったままでいいんですか? あなたがいないと事務処理が進まないと他の官吏のみなさんがぼやいているのをよく聞きますよ」
「君の兄さんのように優秀な官吏が手伝ってくれたら、あっという間に仕事も片付くんだけどね」
半分皮肉を込めて吐いた言葉に、悠蘭は必要以上に怒りを浮かべていた。
不自然に表情を歪め、そして声を荒げて叫ぶ。
「兄の話はやめてくださいっ! あいつは家を捨てて……死んだんだから」
「死んだ? 月華は行方不明なんでしょ」
「…………っ」
「悠蘭、あんた、何か知ってるの?」
李桜の脳裏に月華の文面がよぎった。
月華の身には何かが起こっている。
その原因の一端に陰陽師が関わっているかもしれない。
目の前にいる月華の実弟は今や一人前の陰陽師。
李桜がさらに悠蘭を問い詰めようとしたところ、彼を呼び止める人物がどこからともなく現れた。
「何をしている、悠蘭」
「皐英様!」
悠蘭のそばに静かに近づいてきたのは、陰陽寮の長官、陰陽頭―土御門皐英だった。
紫の狩衣は衣擦れの音もなく揺れ、恭しく李桜に頭を下げる。
「これはこれは、中務少輔の西園寺殿」
「土御門殿―あんた、何か企んでるの?」
「企んでいるとは穏やかではないですな。何か根拠があって言っておられるのかな」
「いや。でも火のないところに煙は立たないって言うしね」
「これは異なこと。まあ、人の世には煙を立たせるために火をつける輩もいると聞きます。くっくっ……互いに巻き込まれぬよう、気をつけましょうぞ」
悠蘭を促し立ち去ろうとした皐英の前に立ちはだかると、李桜は百官の背筋が凍るという睨みを効かせて静かに言った。
「覚えておくといいよ、土御門皐英殿。僕は月華ほど優しくない。敵と見なした者を排除するのに手段を選ばない人間なんだ。もしあんたが月華に関わっているとしたら、それは僕の敵になるということを覚悟することだね」
陰陽師が何かをしようとしているのなら、それを取りまとめる陰陽頭が関わっていないはずはない。
李桜は皐英に疑いの目を向ける。
李桜の底の知れない闇のような黒い瞳を、悠蘭は皐英の後ろから初めて見た。
兄の幼馴染として九条家にもよく出入りしていた李桜とは、知らない仲ではない。
日頃は仕事熱心な官吏として朝廷では絶大な信頼を得る李桜は、感情を表に出すことがないと言われている。
しかし、悠蘭はその冷静さの裏に隠された本性を知っている―冷静さの仮面に隠された中務少輔の中には、あらゆる手段を講じて目的を成し遂げる冷酷な一面があるということを——。
皐英に促され、深く首を垂れると、悠蘭は李桜の前を後にした。