第6話 三の姫
九条月華と近江の山奥で遭遇した翌日、土御門皐英は京都御所の近くにある近衛家を訪れていた。
寝殿造りの豪華絢爛な装飾はその権力を象徴しており、皐英は近衛家に来るたびにその様子に吐き気を覚えた。
名のある家に生まれれば、そのしがらみから逃れることはできない。
中でも最も多大な重責を負うのが摂家である。
摂家5家には、月華の出身である九条家以外に近衛家、一条家、二条家、鷹司家がある。
摂家の男子として生を受けたなら、摂関職に就かなければならないし、女子に生まれれば政略結婚が待っている。
くだらない政治ごっこに辟易しながらも、皐英自らもその渦に吞み込まれている。
そんな自分に嫌気がさしていた。
近衛家には3人の姫がおり、一の姫と二の姫はすでに皇室に関わりのある家へ嫁いだ。
残る三の姫は近衛家当主と側室との間に生まれた姫で上のふたりの姫たちとは扱いを同じくされていなかった。
誰も寄りつかない奥へ追いやられ、女中も最少人数しか置かれていない。
そんな不遇な三の姫を皐英は幼少の頃から可愛がっていた。
絶世の美女と呼ばれ、すでに他界した母の美しさと気高さを引き継いだ三の姫は名を椿といった。
「ご機嫌いかがですか、三の姫」
案内された部屋の床に静かに腰を下ろすと、皐英は御簾を挟んで椿に向かって微笑んだ。
しばらく離れていた妹を訪ねた兄の心地がしていたからだ。
「皐英様!」
勢いよく御簾をめくり上げ、椿はそのまま皐英の元へ飛び込んだ。皐英は少し後ろによろけながらも飛び込んできた彼女を受け止める。
「これ、三の姫。もうすぐ輿入れだというのに、こんなことをされてはいけませんな」
皐英は受け止めた椿をすぐに引き離すと目の前に座らせた。
「どうせ契約結婚ですもの。そんなこと、どうでもいいです」
すねた様子で視線を逸らす椿をこの上なく可愛く思い、皐英は子供をあやすように優しくその頭を撫でた。
「そんなことを口にされてはいけませんぞ。あなたは帝の元に嫁がれるのです。次代の帝をお産みになるのは三の姫かもしれませぬ」
「っ……! 産みませんっ」
椿は顔を赤らめて反論したが、皐英は声を上げて笑っていた。
「それにしても三の姫。よくご決断されましたね。お父上も大喜びだったのではありませんか」
「……さあ、どうでしょう。ただこの家にとって私は邪魔者でしょうから、その邪魔者がいなくなることが決まって、みな喜んでいるかもしれません」
確かに一の姫や二の姫からの執拗ないじめを受けていたことは皐英も知っていた。
だがそのふたりも、もうすでに家を出ているのにも関わらずいまだに三の姫を認めないのは、やはりその外見に対する妬みではないかと皐英は感じている。
三の姫の母は確かに絶世の美女であったが、公家の出身ではなく身分の低い人だったと聞く。
色仕掛けで近衛家の当主に取り入ったのではないかと噂する者も少なくない。
「まあ、この邸の者たちの思うところはわからぬが、少なくとも私はこうして三の姫に気軽に会えなくなるのは寂しい。側室とはいえ帝の奥方になられてしまっては私のような者は官吏と言えどなかなかお会いできますまい」
そう言って皐英は椿の手を取った。小さな手を両手で包み込むと、椿はむっと口を尖らせた。
「……嘘つき」
「嘘つきとは手厳しい」
「だって、皐英様は椿のことなんか見ていないもの。あなたが見ているのは父上だけ。今日だって私に会いにきてくださったのが目的ではないんでしょう」
虚を突かれた皐英は絶句し、しばらくふたりの間に沈黙が流れた。
が、おもむろに立ち上がった皐英は、
「さて、私はこれにて失礼してお父上にご挨拶に伺うとしよう。三の姫、ではまた」
と、深々と頭を下げた。立ち去る皐英の後姿をまじまじと見つめながら椿はひと言呟いた。
「またの機会なんてないくせに」
紫の狩衣姿を見送る椿の頬には一粒の涙が光っていた。
椿にはわかっていた。
ではまた、というのは社交辞令であり、帝の元に輿入れすることが決まっている姫の元を何度も訪れれば誤解を招く。
もう二度と来ることはないだろう。
「姫様、よろしいのですか」
椿の様子を不憫に思って声をかけた女中に、乱暴に目元をこすりながら椿は答えた。
「だってどうしようもないじゃない。私は守りたい者のために帝と取引したのよ? 走り出したからにはもう引き返すことはできないの」
長年、三の姫に仕える初老の女中は彼女の様子を見て心を痛めた。
幼い頃から近衛家の中で、はみ出し者のように扱われていた三の姫の心に寄り添ったのは皐英だけだった。
皐英はまだ陰陽寮に務める前から近衛家に出入りを許され、邸を訪れた時は必ずと言っていいほど三の姫を可愛がった。
女中は長きに渡りその様子を見てきて、三の姫が大人になるにつれ、皐英を男として見るようになっていたことに気がついていた。
しかし皐英が三の姫を妹のように可愛がっていることも、女中は理解していただけにその苦しい恋心を思うと、居たたまれなかった。
「そういえば、以前したためた文はちゃんと相手に届けてくれたのよね?」
椿は皐英が立ち去った方をいつまでも見つめながら女中に質した。
「はい、姫様。確かに届けました。まだ何も動きがございませぬが」
「何をもたもたしているのかしら」
涙が乾いた椿は、訝しげに表情を曇らせながら、これから起こるはずのことに思いを馳せた。
——みんな傷つかずに丸く収まればそれでいい、私がどうなろうとも。
近衛家の敷地内には大きな池があり、その池に張り出した釣り殿という建物がある。
床と屋根だけの簡素な建物だが、池を眺めるには適した場所だった。
近衛家当主——近衛柿人は物思いにふけりながら釣り殿で池の水面を眺めていた。
若草色の着物に包まれた恰幅のいい体躯はその後ろ姿ですぐにその人とわかるほど特徴的だった。
皐英はその姿を見つけると、後ろから声をかけた。
昨日の紅蓮寺での事の顛末を報告するためである。
「柿人様」
「皐英か……事は首尾よく進んでおるか」
振り向くこともなく池を見つめたままの柿人に対して、皐英は淡々と昨晩の出来事を説明し始めた。
「紅蓮寺は守りの固い要塞のような場所ゆえ、簡単には連れ出せませぬ」
「……そうか。お前の力をもってしてもか?」
「すぐには無理ですが、しばし時間をいただければ可能かと」
池の水面が少し揺れ、餌を求める鯉が釣り殿のすぐ下に集まっていた。
柿人は餌をやるでもなく、呆然と池を眺めたままだ。
「守りの固い城からどうやって連れ出す?」
「守りが固いだけでなく、守り人が久我雪柊ですから連れ出すのは無理でしょう。向こうから寺の外に出てくる時を待つしか方法はありませぬ」
「久我雪柊と言えば久我家の次男だな。確か久我家現当主の嫡男は兵部省に務めておるな。兵部少輔は寺の住職の甥っ子か……そうか、あの家の男子は代々、武術の心得を叩きこまれるという。これは一筋縄ではいかぬようだ」
「さらにひとつ問題がございまして」
「何だ」
「昨晩、なぜか紅蓮寺の麓に行方不明と言われていた九条家の嫡男が現れまして……」
そこで初めて柿人は勢いよく振り向き、皐英を凝視した。
「何!? ……殺したのか」
皐英は柿人の凄みの効いた問いかけに少し狼狽しつつ平静を保って何とか答えた。
「まさかっ。崖下へ落ちましたゆえ死んだかもしれませぬが、我らが関与した証拠はございませぬ」
「おお、それを聞いて安心したわ。今は九条を相手にしている余裕はないのだ。我らはもっと大きな相手に立ち向かわねばならんからな。せっかく九条家の次男を飼い馴らしたというに嫡男を始末したとあっては、九条時華は黙っていないだろう」
「はい。とにかく寺を出る機会を探るために式を飛ばしましたので様子を見ることにいたします」
柿人は頷くと、再び物思いにふけり池を呆然と眺めていた。
その背中に恭しく首を垂れると皐英は、近衛邸を後にした。
近衛邸を出た皐英はひとり、歩きながら考えていた。
皐英が引っかかっていたのは、昨晩なぜ九条月華が紅蓮寺の麓にいたのかということだった。
悠蘭の話によれば、月華は何年も前から行方不明だとのこと。
それが急に現れた。
しかも腰には確かに刀を差していた。
出で立ちは武士のようには見えなかったが、迷い込んだわけではなく、何か目的を持って現れたに違いない。
皐英は嫌な予感がしていた。
柿人に手を貸すのは、単に自分の受けた恩を返すためで、別に忠誠を誓っているわけではない。
だが、一度引き受けたことが自分の想定したとおりに運ばないのは、皐英にとって許しがたいことである。
もし、あの崖から落ちて無事であったなら、次に現れた時には始末することも視野に入れなければならない、そう皐英は思った。
「皐英様!」
そんなことを考えていると、前方から悠蘭がこちらに向かって手を振っていた。
かつて途方に暮れ、京の路地で座り込んでいた悠蘭を拾い、陰陽師として育てたのは柿人の言う『飼い馴らし』のためではなかった。
昔の自分と重なる部分があり、その葛藤を取り除くきっかけを与えてやりたいと思ったからこそ、皐英は悠蘭を弟子にした。
昨夜、突然行方不明だった兄と図らずも再会した悠蘭は、近江を離れてから一切そのことを口にしなかった。
皐英はそれが気がかりだったものの、今こうして目の前にいる悠蘭は以前とまったく変わりないため、気にしないことにしていた。
「どうした、悠蘭」
「どうした、じゃありません。皐英様に相談したいことがあるという公家の方がお待ちです。お早く陰陽寮にお戻りください」
悠蘭は呆れ顔をしながら皐英を促した。
彼を陰陽師として育てたのは皐英である。
これまで可愛がってきたこの愛弟子の実兄を始末しなければならなくなる日が来なければいい、皐英はそう思った。
「何だ、相談など私でなくとも誰でもよいではないか」
「……それが我々には手に負えない内容のようなので」
「手に負えない?」
「はい。ご相談にいらした方は悪霊を退治してほしいと……」
すまなそうに上目づかいになる悠蘭に、皐英は深いため息を返した。
今の陰陽寮の中で悪霊退治の類をこなせるのは、確かに皐英しかいなかった。
あらゆる呪術に精通し、それを実践できるからこそ皐英は陰陽寮の長官―陰陽頭として朝廷に身を置くことができている。
それは同時に近衛柿人が皐英を頼る理由に外ならなかった。
「……わかった」
陰陽寮を取りまとめるだけでなく、呪術的な依頼もこなし、おまけに柿人からの私的な依頼も引き受ける皐英は、陰陽寮の中で誰よりも忙しい人物だった。
片付けなければならないことがたくさん残っている中、新たな面倒ごとを片付けに、皐英は自分の本来いるべき場所へ向かった。