第57話 華の集う宴
月華と百合が着替えを終えて雪柊の書院へ向かうと、そこはもぬけの殻だった。
襖を開けたまま互いの顔を見合って呆然としたふたりに、寺の修行僧——鉄線が後ろから声をかける。
「雪柊様たちなら本堂にお集まりですよ、月華様」
「本堂? 何をしているんだ」
「宴です」
よく見ると鉄線は両手に溢れんばかりの料理を抱えていた。
「宴? ここでは駄目なのか?」
「大勢お集まりなので雪柊様のお部屋には収まりきらなくて……ご案内します。どうぞこちらへ」
月華は前を行く鉄線の持っている料理皿を半分請け負い、百合を伴ってしばらく足を踏み入れることがなかった本堂へ向かった。
本堂の扉を開くと、そこには今回の一件に関わった面々が仏像を前にすでに宴を始めていた。
向かって右手には久我紫苑、西園寺李桜、近衛椿が楽しそうに談笑している。
左手には住職の雪柊と病み上がりである弟の悠蘭、仏像に一番近い奥手には父の時華、上司の北条鬼灯、家臣の松島、同僚の早川蓮馬が酒を煽っていた。
どう見ても、仏の前という神聖な場所で繰り広げられる光景ではなかった。
鉄線は月華から料理を受け取ると、それぞれもとへ運んでいった。
月華たちの到着に気がついた紫苑が駆け寄ってくる。
「月華、遅いじゃねぇか。もう先に始めてたぞ」
「紫苑、これはどういうことなのか説明してくれないか」
「無事にすべてが片付いたから一献傾けようということになってな……。さあ、月華も百合殿もまずは鉄線の料理を食べようぜ」
紫苑に導かれ、李桜たちの前に座らされると強制的に盃を手渡された。
月華は状況が呑み込めないうちにとにかく1杯呑まされる。
久しぶりに口にした酒は、すべてが終わった安堵感からか妙に美酒に感じられた。
月華の後ろについてそばに座った百合に椿はいきなり抱きついた。
勢いで後ろに倒れそうになる百合の背中を月華はそっと支えた。
「おっとっ」
「ありがとうございます、月華様」
「相変わらず元気な方だな、椿殿は」
百合に抱きついたまま泣きじゃくる椿の頭を優しく撫でながら百合は月華に苦笑した。
そのまましばらくそっとしてあげようと、月華は少し離れて紫苑たちと座り直す。
「紫苑、李桜、今回は世話になった。ふたりの力を借りなければ今日のこの日を迎えることができなかったと思う」
「水臭いな、月華! 俺たちは幼馴染なんだ、お前に何かあればいつだって駆けつけるさ、なあ李桜」
「まあね。月華に振り回されるのも慣れたよ」
李桜は涼しげにそう言って盃に口をつけた。
そんなそっけない態度も李桜らしいと、月華は微笑ましく思った。
「それにしても月華、百合殿を無事に取り戻せてよかったな……くそっ、羨ましいぞ! 俺も早く嫁さんがほしい」
紫苑は月華の首を抱え込んで心底、悔しがった。
月華は、こうやって友人3人で絡み合うのは何年ぶりだろうと考えていた。
紫苑とは紅蓮寺を出てから4年ぶり、李桜とは京を出てから6年ぶりになるだろうか。
いくら月日が経ってもあの頃と変わらない関係でいられることがこの上なく嬉しかった。
「ところで李桜は椿殿と——」
月華がそこまで言いかけたところで、紫苑は慌ててその口を塞いだ。
李桜は絡むふたりをじろりと見たが何も言わず再び盃を傾けていた。
「月華、その話はここではするな」
小声で耳打ちしてくる紫苑に、月華は訝しげに訊いた。
「なぜだ」
「李桜は椿殿に婚姻を申し込んだんだ」
「なら別にいいじゃないか。目の前に椿殿もいることだし、俺も祝いの言葉のひとつでも伝えたい——」
「あー、やめろって」
「だからなぜだ、紫苑」
「婚姻は申し込んだが、返事をもらっていないらしいんだ。つまり保留中ってことだな」
「…………」
月華は目を丸くして李桜と、百合と話し込む椿の様子を交互に見た。
「……何か問題でもあるのか?」
「さあ。それは当人同士にしかわからないんじゃねぇの?」
「ちょっとふたりとも、小声で話してるつもりかもしれないけど、全部聞こえてるよ」
李桜は目を細めて大きく息をついた。
「李桜、何か力になれることはあるか?」
「ないよ……椿殿は自分の父親が罪を犯したことを気にしてるんだ。そんな自分と一緒になっても僕の将来に傷をつけることになるってさ」
「それでお前はそのまま引き下がるつもりなのか」
「まさか! 妻にするなら椿殿以外には考えられない。だから僕は待つことにしたんだ、あの人の気が向くまでね」
「李桜らしいな」
月華は盃を李桜へ向けた。
彼を応援する意味でふたりだけの乾杯をする。
互いに一気に中身を呑み干すと、紫苑がふたりの盃へ酒を注いだ。
「それはそうと、近衛家はどうなった? 椿殿がここにいるということは彼女へのお咎めはなかったということか?」
月華はこの何日間か、悠蘭のことで頭がいっぱいになっていて京がその後どうなったのか情報を得ることを失念していた。
紫苑と李桜は顔を見合い、視線を落とした。
決していい結末の話ではなかったからである。
「近衛家は鬼灯様の手で征伐された。俺が左大臣様を兵部省へ連行したんだ。今頃、刑部省へ送られている頃だろう。椿殿は、鬼灯様の言った通り百合殿を助けるために尽力してきたことが認められて流刑は免れた。近衛家には戻れなくなったけどな」
「そうか……それは気の毒だな」
「だが、ましな話もある。近衛家は帝と右大臣様のご配慮でお取り潰しにはならなかった。椿殿は戻れないが、遠縁の者たちが近衛家を建て直すそうだ。まあ、椿殿の姉上たちは帝の親戚に嫁いでいるわけだし、帝も椿殿を側室にしたいほど寵愛していたんだろうから、不幸中の幸いとはまさにこのことだよな」
「しばらくは朝廷も荒れるな……」
「それを言わないでくれる? 考えただけでも吐き気がするんだから」
李桜は顔を逸らしながら不満げに言った。
中務省に務める李桜にとって、これから朝廷で起こる人事に関しては頭を悩ませるところだった。
少なくとも左大臣と陰陽頭の席は空いたままになっている。
調整は右大臣である時華と中務大輔が行っているだろうが、その雑務が李桜へ回ってくることは必須だった。
「それにしても月華、お前の主君はとんでもないお人だな」
「……? 鬼灯様がどうかしたのか」
「いや、本当に摂家に攻め入るとは思わなかった。蓮馬が兵を集めに鎌倉に戻った時に、状況を知らせる文が届いたんだが、それは鎌倉の将軍自らがしたためたものだった。ずいぶん将軍の信頼が厚いみたいだが……」
「ああ、あの人は将軍の懐刀だからな」
紫苑と李桜は急に顔を上げ、月華を見た。
「そんなすごい人なの、鬼灯様って」
李桜は思わず口にしていた。
「あんなだらしない風体でいい加減な素振りをしていても仕事はきちんとこなすし、武将としての能力は右に出る者がいない。文武両道とはまさにあの人のためにある言葉だと俺は思う」
「…………」
紫苑と李桜は絶句していた。
今回の事件があってより親しくなったとは言え、以前から気軽に付き合ってきた北条鬼灯という人が将軍へ物申すほどの力を持った人物だとは理解していなかった。
「ふたりは六波羅の邸に行ったことがあるんだろう?」
「あ、ああ。よくお邪魔してるが……」
「あの邸は武家の様式を組み込んだ書院造だ。俺も先日初めて足を踏み入れたが驚いたよ。あの邸は鎌倉の造りをそのまま持ってきたようなものだ。おそらく、あの邸がなければ六波羅には行かないと、鬼灯様自ら将軍に進言したんだと思う。でなければ京にあのような鎌倉の空間を持ってこられるわけがない」
月華は苦笑しながらそう言った。
仏像の前で父と酒を呑み交わす鬼灯へ目をやりながら、彼が自分の主君で本当によかったと誇らしく思う。
強く、気高く、公平で有言実行する——この縁を与えてくれた父にも感謝しかない。
これまでの数々の出来事を思い出しながら、月華は口元に笑みを浮かべ盃を一気に空けた。
「そう言えば、近衛家を追われた椿殿は今どこで暮らしてるんだ?」
月華は鬼灯の正体に愕然としているふたりに、何事もなかったかのように声をかけた。
「僕の家にいるよ」
「西園寺家に? それじゃあ、婚姻したも同然じゃないか」
「そんな簡単な話じゃないんだよ、月華」
「そうなのか?」
「どんなに近くにいたとしてもまだ夫婦になったわけじゃないんだし椿殿には一定の距離以上には近づけない。同じ屋根の下に暮らしながら半分拷問に近いね。夜なんて隣の部屋に寝てるんだよ? この気持ち、紫苑にはわからなくても月華にはわかるよね」
「……それはまさに生殺し状態だな」
「おまけにできもしないくせに、世話になってるからって女中の真似ごとまでして甲斐甲斐しく僕の世話を焼くんだ」
「……最悪だな」
肩を落とす李桜に月華は同情した。
同じようなことを百合にされたらどう思うか、想像しただけで息苦しい。
もし百合が目の前にいて、抱きしめたくても抱きしめられず、口づけたくても口づけられなかったら自分はどうなってしまうのか。
あまりにも辛く、月華はすぐにその想像を打ち消した。
「そんなに辛いものか? 同じ家の中にいるだけで嬉しいものじゃないのかよ」
まったく状況を理解できずに肩を落とす紫苑に、月華は優しく告げた。
「お前も妻を娶ればこの気持ちがわかるようになる」
3人が互いに見合いながら噴き出したところへ、時華のもとから遣わされた蓮馬が月華を呼びに来た。
「月華様、お父上がお呼びですよ」
蓮馬は月華の隣に腰を下ろすとそっと耳元で囁いた。
「俺はもうあの方たちにはお付き合いできませんので、あとはお願いします」
月華が蓮馬を見ると、その顔はほんのり赤らんでいた。
酒豪の大人たちに呑まされたのだとすぐにわかり、月華は大きくため息をつく。
「蓮馬、大丈夫なのか」
「ご心配なく。自分の限界は心得ております」
「そうか……。蓮馬、今回はお前にも世話になったな。鎌倉に戻ったらお前の望み通り、稽古をつける暇を取ろう」
月華は立ち上がると蓮馬の肩に手を置き、優しく微笑んだ。
蓮馬にとってはそれが最高の喜びであり、何よりの労いだった。
去っていく月華とは入れ替わりに輪に混ざってきた蓮馬は紫苑や李桜へ順に酒を注いだ。
百合と椿もそこへ加わり蓮馬を囲った。
「蓮馬、ずいぶん嬉しそうだが月華と何の話をしていたんだ?」
「鎌倉に戻ったら稽古をつけてくださるそうです」
「それがそんなに嬉しいことなのか? お前だって武士なんだろう? 今さら稽古をつけてもらいたいのか」
紫苑は不思議そうに蓮馬を見た。
「ああ、みなさんはご存じないんですね」
「ご存じない、とはどういう意味ですか蓮馬様?」
百合は不思議そうに蓮馬に言った。
「以前、紫苑殿は俺に『鬼灯様の剣術と雪柊様の武術を身につけた最強の武士』と月華様のことを言っておられたのを覚えていらっしゃいますか?」
「覚えてるさ。何か違うのか」
「いえ、その通りですが月華様は強いだけではないんです。鬼灯様の右腕として鎌倉では将軍にすら一目置かれていらっしゃいます。俺が鬼灯様の文を持って鎌倉から兵を集めてきたでしょう? 月華様なら文がなくとも300程度の兵はすぐに集められます」
「…………」
何でもないことのように言う蓮馬の話に、全員が絶句した。
百合と椿は顔を見合わせ、紫苑は驚きのあまり盃を落としそうになった。
「あの方は鬼灯様が全幅の信頼を置き、代行を任せられる唯一の武将なのです。鬼灯様があのような自由な方なので、その仕事を肩代わりする雑用係をされていますが、ひとたび戦に赴けば鬼灯様に肩を並べられるのは今や月華様以外におりません」
蓮馬は赤らめた顔に最上の喜びを浮かべた。
「……月華って鎌倉ではそんなにすごい人だったの?」
「もちろんです! 武士なら誰もが憧れる武将のひとりですよ。そんな方に稽古をつけていただけるなんて、楽しみで今夜は眠れそうにありません」
「あいつ、何でそういう大事なことを言わないんだ」
「月華様はご自分のことを認めておられません。鎌倉でいくら力をつけてもご自分の出自が公家であることを忘れていないんです。だからこそ、それを打ち消すように努力され、今の地位を築かれたと思いますよ」
蓮馬は紫苑の疑問に満面の笑みで答えたのだった。




