第54話 夕暮れ時の戯れ
雪柊が境内の落ち葉を掃き集める夕暮れ時——月華の背中は、境内から差し込む夕日で赤く染まっていた。
横になる悠蘭の枕元に腰掛けて、心配そうに寄り添う百合とともに悠蘭の手を握っていた。
反応はまだない。
月華が雪柊の手を借りて紅蓮寺へ悠蘭を運んできてから2日の時が過ぎた。
以前、月華が使っていた離れの一室に横になる悠蘭の傍らで、月華は眠ることもなく日がな1日、弟の手を握りながら2日を過ごした。
月華の中には日に日に不安が膨らんでいた。
(もしこのまま悠蘭が目を覚まさなかったら……)
紅蓮寺の麓で再会したひと月ほど前、悠蘭は皐英に連れられていただけで事情をよくわかっていなかったのだろうと思う。
しかし、次に九条家の華蘭庵で会った時には百合の奪還に手を貸したいのだと自ら関わってきた。
何かの決意を持っているように見えて弟の申し出を受けたが、こんなことになるのならあの時に断るべきだったと月華は自分を責めていた。
「悠蘭……お前を今回のことに巻き込んだのは間違いだった」
そう呟いて月華が悠蘭の手を強く握ると、その瞬間、悠蘭が手を握り返してきたような感覚があった。
百合とともに顔を見合わせながら思わず声をかける。
「悠蘭!」
「……うっ」
これまで全く反応がなかった悠蘭の顔が苦痛に歪んだ。
もう1度月華が声をかけると、彼はうっすらと目を開けた。
「……兄、上……?」
意識を取り戻した悠蘭を目の当たりにして月華は百合とふたりで歓喜の声を上げた。
その声を聞きつけた雪柊は境内から駆けつけた。
その場に箒を投げ出し、草鞋を脱ぎ捨てて、室内になだれ込んでくる。
「目が覚めたのかい」
「雪柊様……義姉上も……みなさんお揃いでどうしたんですか……ここはどこですか」
「ここは紅蓮寺だ。悠蘭、大丈夫か」
「大丈夫、ではないですけど何だか長い夢を見ていたような気がします」
「長い夢か……そうだな」
悠蘭は顔を歪めながら月華の傍らにいる百合に手を伸ばした。
百合の左手を掴み、その手の甲を親指で大事そうに撫でながら苦笑した。
「悠蘭様……?」
「皐英様は、もういないのですね……」
「ああ。あの時、まだ微かに息はあったがすでに血を流し過ぎていた。鬼灯様が京へ連れていかれたその夜にはもう蝶のあざは消えていたよ」
「そうですか……まだ教わりたいことがたくさんあったのにな」
強制的に結ばれた縁は術者自らが解くか、術者が死ななければ解けない。
悠蘭は百合の左手につけられた印がないことを確認したことで皐英の死を受け入れるしかなかった。
流れる涙を隠すように片手で顔を覆いながら、悠蘭は皐英とのことを思い出す。
拾ってくれたこと、陰陽師として育ててくれたこと——。
あまりに当たり前すぎて気がつかなかったが、皐英はいつも悠蘭のそばにいた。
その存在が失われてしまったことは心に大きな穴を開けた。
本当の家族と折り合いがつかない悠蘭を家族のように迎えてくれ、師としてあらゆることを教えてくれた皐英は、悠蘭にとって改めてかけがえのない存在だったと気づかされる。
言葉を失くした悠蘭に対して、月華は優しく頭を撫でた。
「すべては終わったんだ。今はもう少し眠るといい」
悠蘭は涙を浮かべた目で月華を見据えたが、そのまま静かに目を閉じた。
間もなく規則的な寝息が聞こえてくると、月華は安堵して胸を撫でおろした。
百合は心配そうに月華を覗き込んだが彼は苦笑するだけだった。
「月華、悠蘭はもう大丈夫だよ」
兄弟のやり取りを見守っていた雪柊はそっと月華の肩に手を置いた。
「……そうですね」
「さて、月華。君も少し休んだ方がいいね。ここに戻ってきてから悠蘭につきっきりで寝てないだろう」
「そうです、月華様。お休みにならないと今度は月華様が倒れてしまいますよ」
「……眠くないんだ。仮眠なら取っているから」
「駄目だよ。でもここで休むのは悠蘭の邪魔になるだろうから……そうだ、百合の部屋で休むといいよ」
百合は雪柊を見て目を丸くしていた。
「……え?」
「何だい百合、問題でもあるのかい」
「いえ……ただ、あのお部屋にはひと組しかお布団がないですよね」
「そうだね。でも夫婦なんだから問題ないだろう?」
「…………」
百合はみるみる顔を赤く染めていた。
月華はそんなふたりのやり取りを見て小さく息を吐いた。
ふたりにずいぶんと気を使わせていることを知っていたからだった。
そんな自分が不甲斐なかった。
だが、眠くはなくても疲労困憊で横になりたい気はしている。
月華は立ち上がるとおもむろに百合の手を引いた。
「では雪柊様、お言葉に甘えて日はまだ沈んでいませんがもう休みます」
「月華様……わ、私もですか」
「布団はひと組しかないんだろう?」
「そうですが……」
まだ日も沈んでいない時刻だったが、月華は雪柊に軽く会釈すると百合を連れ立って部屋を出た。
雪柊は嬉しそうにふたりを見送った。
以前百合が使っていた部屋は悠蘭が休んでいる部屋の隣にある。
中に入ると部屋の真ん中には整えられた布団が敷かれていた。
いつでも月華が休めるようにと、百合が用意したものだった。
布団の上に百合を座らせると月華もそのそばに腰を下ろす。
「付き合わせて悪かったな、百合」
「……え?」
「悠蘭のそばを離れないと雪柊様が納得しないと思ったからこちらへ移動してきたんだ」
「でもお休みになるんですよね……?」
「本当に眠くないんだ……そんなことより——」
月華は愛しそうに百合の髪を梳いた。
考えてみれば、皐英を看取った百合も辛かったはずなのに、最愛の人へ向ける思いやりが足りていなかった。
「百合に向き合う暇を取れていなかった。すまないな……こちらへおいで、百合」
月華は百合の手を引き寄せると膝の上に座らせた。
急に引き寄せられ顔を赤らめながら、百合は月華に向き合った。
「私なら大丈夫です。戦場では多くの人を看取ってきましたから。私は月華様の方が心配です」
百合は月華の頬に手を寄せて言った。
この2日間、月華のそばに寄り添いながら、百合はその背中をずっと見てきた。
百合が皐英を看取ることになったこと、悠蘭が傷つくことになってしまったこと——月華の背中からはそのすべてに対して自責の念が滲みでいていた。
「……俺もあの曼殊沙華の庭を見たよ」
「あの世界が見えたのですか」
「ああ……貴女がこれまでああやって死にゆく者の鎖を外してきたのかと思うと辛すぎるな。助けられるわけでもなく、ただ死という事実を本人に突きつける役目は辛いだろう」
「それでも枷を外してあげれば来世では幸せになれるかもしれません」
「……土御門も無事にあの川を渡れたのだろうか」
「どうでしょう。でも皐英様は枷を外すことを拒否されませんでした。だからきっと川を渡ったと思います」
百合は月華に屈託なく微笑んだ。
月華は頬に添えられた百合の手を包み込む。
これまで幾多の困難があったが、やっと本当の意味で百合を取り戻した——その安堵感で満たされていた。
咲き誇る曼殊沙華の庭の中で百合と皐英が交わした会話は、すべて月華の耳に届いていた。
百合が、もうそばを離れないと言ってくれたことが月華にとって何より嬉しいことだった。
以前なら、百合を捕まえていてもどこか不安が拭えなかったが、もうそのような懸念は持たなくて済む。
「月華様」
百合は優しく声をかけた。
「ん?」
「愛しています」
「……どうしたんだ、唐突に」
月華は照れ隠しに言ったが、百合はその顔を両手で包み額を突き合わせた。
「お伝えしたかったのです。百合は生涯、あなたのおそばを離れないと決めました」
「…………」
「だからひとりで悩まずに私にもその悩みを分けてください。だって私たちは夫婦でしょ?」
「…………百合」
月華は片手を百合の背中に回すとそのまま静かに布団の上へ押し倒した。
軽く口づけると百合を見下ろした月華は獰猛な熱を宿した瞳を向けた。
「そんな可愛いことを言って……俺を煽っているのか」
「あ、煽るだなんて」
「違うのか?」
月華はそう言いながら百合の頬や首筋、乱れた襟元から覗く鎖骨へと口づけていき、乱暴に帯を解いた。
着物を脱がしながら襦袢の上から百合の全身を優しく撫でまわす。
月華は無心になって欲望のままに百合を求めていた。
「つ、月華様!」
百合の声にはっと我に返ると月華はその手を止めた。
百合の顔を伺うと眉間に皺を寄せて怒りを露にしている。
「今日は、これ以上駄目です!」
「……なぜ」
百合の機嫌を取ろうと月華は優しく頭を撫でたが彼女はまったく動じなかった。
「今夜こそ、絶対に眠っていただきます! でないと本当に倒れてしまいますよ」
「据え膳食わぬは男の恥という言葉を知らないのか?」
「っ! 私は誘ってなどおりません!」
「十分誘っていたように聞こえたが」
「き、気のせいです」
「……まさか本当にお預けなのか?」
月華は捨てられた子犬のような寂しい表情を浮かべていたが、百合は心を鬼にして決して受け入れなかった。
しばらく流れた沈黙の後、月華は諦めたように大きくため息をつくと、乱暴に自分の着物を脱ぎ捨て襦袢1枚になって、ふてぶてしく布団に横になった。
百合は半身を起こして脱がされかけた襦袢の襟を合わせ直すと、横になる月華を見下ろした。
「月華様?」
「眠ればよいのだろう?」
「はい!」
「ただし——」
月華は半身を起こしていた百合の腕を引いて再び布団の上へ引き戻すと、体を優しく後ろから抱き寄せ、その長い黒髪の中に顔をうずめた。
「貴女も道ずれだ」
耳元に聞こえてきた月華の声は少しすねた様子で、百合はくすくすと笑った。
「ふふっ。すねていらっしゃるのですか」
「百合——今日は黙って言うことを聞くが、明日の夜は寝かせないから覚悟しておくことだ」
その言葉に百合は何を予告しているのか想像し、急に顔を火照らせた。
恐る恐る様子を伺うように顔を向けたが、月華はいつの間にか寝息を立てて眠りに落ちていた。




