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第52話 命の選択

 馬に跨って四半刻、鬼灯きとう雪柊せっしゅうは前方に数人の人影と、何やら怪しい動きをする巨大な生き物を見据えていた。

 近づくにつれ、それは月華つきはなたちであるとわかった。

 赤茶色の髪を靡かせる月華と蓮馬れんまと思しき小柄な男のふたりは背中合わせに大の男数人と獅子のような獣を相手に攻防戦を繰り返している。

 一方、紫の狩衣かりぎぬ姿の陰陽頭おんみょうのかみは嫌がる百合ゆりを腕に抱えた。

 そのすぐそばに黒い狩衣姿の悠蘭ゆうらんが大蛇に絡まれている。

「何だか戦況はよくないみたいだね」

 鬼灯の後ろから前方を覗くようにして雪柊は言った。

「そのようだな、急ごう」

 馬を走らせている間に事態はどんどん変化していくのを鬼灯たちは目の当たりにすることになる。

 目を凝らしていると地面に突き刺さった刀を手に取り大蛇に締め上げられながら、悠蘭が陰陽頭の首にその刃を向けていた。

 少し離れたところでは、人の大きさほどもあろうかという獅子が繰り出す前足が月華たちと対峙していた男をひとり、払い飛ばした。

「蛇に獅子……何だい、あの生き物たちは」

 雪柊は眉を潜めた。

「わからぬ。だが、まずいぞ、雪柊」

 鬼灯の馬が現場近くにたどり着いた時、皐英こうえいは大蛇に絡まる悠蘭に斬りかかっていた。

 あっという間に悠蘭の手から刀が弾かれ、肩口を皐英の刃によって大蛇ごと斬りつけられる。

 斬られた大蛇はあっけなく霧となって消え失せ悠蘭の体を解放したが、左肩を押さえつつ呻きながらその場に膝をつく悠蘭に向かって皐英はとどめを刺そうとしていた。

 鬼灯は月華の弟に会ったことはなかったが、赤茶色の髪を見てすぐにわかった。

 以前、雪柊から月華が紅蓮寺の麓で陰陽師の格好をした弟に会ったという話を聞いていたからである。

(あの陰陽師のふたり、師弟ではないのか? なぜ対立している……?)

 不可解な状況ながらも、歴戦の猛将は状況を打開するべく慌てて馬を降りた。

 視界の端には、目の前に斬りかかってくる男と暴れる獅子を相手にするのが精いっぱいの月華が映った。

 すぐに弟のところに駆けつけたくても駆けつけられない現状に苛立つ月華の叫び声が聞こえる。

「っ悠蘭!」

「悠蘭殿!」

 蓮馬も手が離せない現状に苛立っているようだった。

 そして鬼灯が悠蘭のもとに向かって駆け出した時、さらに戦況は悪化していた。

 対峙する皐英と悠蘭の後ろで、後方に倒れていた男が悠蘭の手から弾かれた刀を手に立ち上がりふたりに襲いかかろうとしていたのである。

 それは柿人が皐英の加勢にと寄越した男たちのうち、最初に月華が突き飛ばした男だった。

 気を失っていただけでとどめを刺されていなかった男は、拾った刀を握りしめて最も身近にいた悠蘭に突進した。

 鬼灯が間に合わないかと顔をしかめた時、鬼気迫る叫び声が聞こえた。

「悠蘭っ!」

 危機を察知して、叫んだのは皐英だった。

 悠蘭に斬りかかる男の存在に気付いた皐英は瞬時に百合を手放すと、悠蘭を守るように抱きかかえ、男の刀を頭上で受けた。

 鋼がぎりぎりとこすれ合う音が辺りに響く。

 しかし受け止めきれなかった皐英の刀は男に弾かれた。

 その勢いそのままに首から背中を袈裟懸けに大きく斬られ、皐英は小さなうめき声とともにその場に倒れた。

 彼らのもとに辿り着いた鬼灯は鮮やかな手つきで皐英を襲った男を斬り殺すと、その足で月華たちを襲う男たちを次々と斬り捨てた。

 その速さと力たるや、やはり鬼神と言われるにふさわしいものだった。

 月華たちを悩ませた暴れる獅子は、皐英が斬られたと同時に霧散していた。

 鬼灯は静かに刀を鞘に納めると、近くに倒れる皐英に駆け寄った。

 月華たちもそれに続く。

「陰陽頭、しっかりしろ」

「……皐英様、どうして……」

 悠蘭は肩の傷口を押さえながら這うように皐英に近づき、大量に血を流しながら横たわる皐英に問いかけたが、答えは返ってこなかった。

「皐英、様……!」

 皐英によって斬られた肩の傷口が火を放つように熱い。

 悠蘭は最後の力を振り絞って問いかけたが、反応がない師匠を前に絶望を抱えながら力尽きた。

駆けつけた月華によって抱きかかえられた悠蘭は、その腕の中で苦痛に顔を歪めていた。

「悠蘭っ!」

 左肩から流血しており、その血は月華の手元をも血で染めた。

 月華はその鮮血を見て今回のことに彼を巻き込んだことを強く後悔した。

 あの暗い華蘭庵からんあんで百合の救出を助けたいと言ってきた時に、断るべきだった。

 陰陽寮に属する悠蘭が、陰陽頭に逆らうようなことがあればその責めを負うことになるとわかっていたはずなのに。

 彼の申し出を安易に受けたのは自分の過ちだった。

 月華にはそう思えてならなかった。

「悠蘭っ」

 月華は腕の中の弟にもう1度声をかけたが、ぐったりとした彼がその問いに答えることはなかった。

 一方、すぐそばでは皐英の傷口から鮮血がほとばしっていた。

 辺りがみるみるうちに血の海と化す。

「これは大変だ、早く止血しないと」

 遅れて駆けつけてきた雪柊は、自身の着物の裾を破ると皐英の胴体へ止血のために巻き始めた。

横たわっている皐英の体からは次々と血が溢れ出て、止血のために巻かれた雪柊の端切れさえもすぐに血で染まってしまっていた。

 それまでその場に立ち尽くし呆然自失していた百合は、はっと我に返り雪柊のもとへ駆け寄った。

「雪柊様!」

「百合、これは見ない方がいい」

「いいえ、私もお手伝いします」

 そう言って百合も着物の裾を破ると、雪柊が巻いた端切れの上からさらに巻き始めた。

 百合の全身は皐英の血で染まり、着物はところどころどす黒く変色していた。

「百合、どうしてそうまでしてこの男を助けようとするんだい」

 汚れることを気にも留めず皐英を助けようとする百合に、雪柊は思わず問いかけた。

「もう目の前で人が死んでいく様は見たくありませんから。助けられるのなら助けたい、ただそれだけです」

 これまで戦場でいくつもの命を看取ってきた輪廻の華は毅然と答えた。

「この方がどんなに私たちを苦しめたのだとしても、死んでほしくはありません。死んだらすべて終わりなのですから」

 百合は皐英を助けようと必死だった。

 月華はその様子を呆然と見ていた。

 あんなにも殺したいと思っていた相手のはずなのに、百合が必死に助けようとするのをなぜか止める気にはならなかった。

 腕の中で苦しむ弟、虫の息の好敵手。

 どちらの命の灯も消えようとしているような気がして月華は言葉を失っていた。

するとそばに寄って来た鬼灯はいたって冷静に月華に言った。

「この馬鹿者」

 月華はその叱責に顔を上げると、鬼灯を見つめた。

「よく見なさい、月華。弟の傷は急所を外れている。痛みで一時的に気を失っているだけだ」

「…………」

 鬼灯が言う通り、冷静に見ると悠蘭の傷口は浅く、出血はしているものの皐英に比べればその出血も少ない。

「陰陽頭がわざと外したのかもしれぬな」

「…………まさか」

 何を意図したのかは本人にしかわからないことである。

 単に外れただけなのか、鬼灯が言う通り意図的に外したものなのか——。

 どういうつもりなのか問いただしたくても、容態はさらに悪化していた。

「駄目だ、鬼灯。血が止まらない!」

 皐英の止血作業を行っていた雪柊は珍しく声を荒げていた。

 よく見ると皐英の顔は青ざめており、血の気が引いているのは明らかだった。

 横たわる皐英のそばに寄った鬼灯はその口もとに耳を寄せた。

 ほとんど呼吸をしていない。

 鬼灯は顔を上げると、止血作業をしていた雪柊と百合に向かって首を振った。

「そんな……」

 百合はそんな皐英の手を取ると、強く握った。

 しかし、その手から徐々に温もりが失われているようだった。

「何とか助けたかったのに……」

 命の灯が消えかかっていると察した百合は一筋の涙を流しながら握った皐英の手に額を寄せた。

「そんなはずはない! 殺そうとしても死ななかったやつだ、こんなあっけなく死ぬはずはない」

 月華は反論したが、本当はわかっていた。

 戦場で多くの命を奪い、仲間を失ってきた。

 今の皐英がどういう状態にあるのかくらいわからないはずはない。

 だが、認めたくなかった。

 できることなら自分の手でその息の根を止めたかった。

 互いに死力を尽くした上で、自分が叩きのめしたかった。

「月華様、私は戦場で多くの命が消えゆく様を見てきました。残念ですがもう……」

「……百合」

 あふれ出る血を手で塞いでいた雪柊は百合の顔を見据えた。

 彼女の瞳にはひとつの決意が見えた。

「皐英様は月華様にも私にもひどいことをたくさんしてこられましたが、最後には私たちの大切な悠蘭様を守ってくださった。だから私はこの方を業から解放します」

 百合が皐英の手を強く握り締め、祈るように額にかざすと辺りが淡い光に包まれた。


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