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第50話 左大臣の最後

 近衛このえ邸の中は鬼灯きとうが去った後、すべてを任された紫苑しおんが手腕を奮っていた。

 鬼灯が託してくれたおかげで、彼の臣下たちは疑問も持たずに紫苑の指示に従った。

 邸の中からは次々と縄を打たれた男たちが庭に出され、女中たちは邸の隅で泣き崩れる。

 そこはある意味、戦場のようだった。

 門の外では李桜りおうがその腕にしっかりと椿を抱いていた。

 腕の中の椿を見つめながら、李桜はまだ月華つきはなみやこにいた頃、紫苑と3人で将来の話をしたことを思い出す——。

 それは元服する直前のことだった。

 李桜は紫苑とともに九条家の茶会に呼ばれ、邸を訪れていた。

 黄昏時、九条池に3人の影が伸び、それを互いに見つめていた。

「お前たちは元服したら朝廷に仕える気か」

「僕はそれ以外、考えたことないね。そういう月華は、その口ぶりじゃ嫌みたいだけど」

「嫌なわけじゃない。ただ、自分の道は自分で決めたいだけだ」

「お前は朝廷に仕えるのが嫌なんじゃなくて、見合いさせられるのが嫌なんじゃないのか」

 紫苑が茶化して言うと、月華は顔を赤らめながら反論した。

「見合いなんて断るに決まってるじゃないか!」

「月華、見合いすることになってるの?」

「そうらしいぜ。何たって九条家の跡取りだからなぁ」

「俺は断じて見合いなんてしない。誰を妻にするかは自分で決めるし、どんな仕事に就くかも自分で決める」

 月華は堂々と言い放った。

 何がそこまで月華を動かすのか李桜にはさっぱりわからなかったがなぜか、自分の考えを迷いなく言い切る月華が少し羨ましかった。

「でも、自分が娶りたいと思っても相手が同意してくれなきゃ夫婦にはなれないだろ? だったら家が取り決めた相手と婚姻する方がある意味、幸せなんじゃねぇの」

「この人と想う相手に出逢えなかったら俺は生涯独身でいい」

 その時の月華の横顔を李桜は今でも忘れていない。

 月華の中には昔から強い意志があって、結局彼はその意志を貫き通した——。

 あの頃は月華の言葉の意味がわからなかった。

 李桜は元服してから数年になるがこれまで独身でいたのは婚姻を結ぶ相手がいなかったわけではなく、仕事が忙しすぎて必要ないと思っていたからだった。

 月華はこの人と想う相手を見つけられなかったら独身でいいと言っていたが、李桜は違う意味で独身がいいと思っていた。

 仕事があまりにも忙しく、家庭を持つことを煩わしいと思っていたのである。

 西園寺さいおんじの家の者からは再三見合いを進められたが、仕事の邪魔になるとしてすべてを断ってきた。

 李桜は腕の中の椿を見ながら、改めてこの人でなければ妻として迎えたくはないと思う。

 門の向こう側では荒々しい捕り物が繰り広げられているのだろうが、不思議とその喧騒は気にならなかった。

 とにかく、今は目の前の椿から返事を聞きたい、ただそう思っていた。

「椿殿、返事は?」

 怯えているのか、腕の中の椿は肩を震わせていた。

「……嬉しいけど、やっぱり無理よ。あなたのお嫁さんになるなんて」

「どうして?」

「だって私がおそばにいるとあなたに迷惑がかかる。近衛家はお取り潰しになって、私は罪人の娘になるもの」

「だから?」

「罪人の娘を娶ったなんて、あなたの将来に傷をつけるだけじゃない」

「そんなことを気にしてるの?」

 李桜は深くため息をついた。

「僕は三の姫を妻にするわけじゃない」

「…………?」

「いい? あんたはこれから裁きにかけられると思う。でもあの鬼灯様があんたを生かしたんだから命までは取られないよ。前にも言ったでしょ。この世に命より大事なものなんてないんだ。あんたは椿姫じゃなく、ただの椿殿になるだけなんだよ」

 椿は李桜の腕の中で必死に涙をこらえていた。

 これまで邸の中でも側室の子として邪魔者扱いされ、奥に追いやられてきた自分を必要としてくれている人が目の前にいる。

 好んで近衛家に生まれたわけでもなく、好んで側室の子として生まれてきたわけでもない。

 どうしようもない運命の中で必死に戦ってきた。

「でも」

「まだ、何か問題があるの?」

「私……本当に何もできないの。邸の外のことだってろくに知らないのに」

「……そんなことを心配してるの?」

 李桜は恥ずかしそうに俯く椿の頬に手を添えた。

 椿は自分が役に立たないと主張したが李桜にとって、そんなことは百も承知のことだった。

 愛しく思う存在はそこにあるだけで意味のあるものだ。

 李桜は月華が危険を冒してまで近衛邸に近づき、百合を奪還した日のことを思い出す。

 九条邸に戻った月華は百合を片時も離そうとしなかった。

 李桜の説教を聞き流しながら愛しそうに百合を抱きかかえていた。

 その気持ちが今の李桜にはよくわかる。

「あんたはそんなこと心配しなくていいんだよ」

「…………」

「あんたは僕のそばにいてくれるだけでいいんだ——椿殿」

 李桜が椿にそう微笑んだ時、急に目の前の門が大きく開かれた。

 中から次々と縄を打たれた男たちが武装した鬼灯の臣下たちに連行されていく。

 その中には頭を掻きながら面倒そうな面持ちの紫苑がいた。

 朱色の朝服はところどころ汚れ、中で繰り広げられていた捕縛劇が過酷だったことを想像させるには十分だった。

 李桜は無意識に後ろ手に椿をかばいながら、紫苑に声をかける。

 振り向いた紫苑は駆け寄ってきた。

「おお、李桜じゃねぇか、何でここに……」

 紫苑は李桜の後ろに隠れるようにする椿の姿を見つけると、訝しげに言った。

「まさか、三の姫の身元引受人ってお前のことか」

「……何の話?」

「あ、いや。まぁいいや。それにしても鬼灯様もお人が悪いな。そうならそうと最初から教えてくれれば……急に椿殿の手を引いて出て行くからどこに連れていったのかと心配したぜ」

「だから紫苑、何の話?」

「そんなことより、いいなぁ。お前も月華と同じく嫁さんもらったのかぁ」

 紫苑は腕を組みながら至極羨ましそうに空を仰いだ。

 そのわざとらしい仕草に李桜は苛立ちを隠さなかった。

「……まだ返事もらってないけどね」

「そうなのか——椿殿、友人の俺が言っても信憑性がないかもしれないが、こいつはお買い得だと思うけどな」

 紫苑は李桜の後ろに隠れる椿を覗き込みながら言った。

「人を特売品みたいに言わないでくれる?」

「違うのか? 家柄もよく、仕事も順調、稼ぎもそこそこ……問題あるのは性格だけだろう」

「そんなことないわ! 李桜様は心優しい方です」

 威勢よく紫苑に反論しようと顔を出したが語尾は消え入るように小さくなり、椿は再び李桜の後ろに隠れた。

 椿は李桜の背中に額を当て着物を強く掴む。

「椿殿……?」

 李桜が後ろに顔を向けると絞り出すように彼女は呟いた。

「本当に李桜様のおそばに行ってもいいの?」

「だからそう言ってる——」

 と李桜が椿に告げようとした時、門から連れ出されていた男のひとりが、縄が緩んだすきに暴れながら3人の元へ突進してきた。

 咄嗟に李桜は椿を守るよう抱き込んだ。

 うっすらと目を開けて見ると、紫苑が突進してきた男の腕を素早く掴んで捻り上げ、そのまま投げ飛ばしていた。

 鬼灯の臣下が紫苑に一礼すると慌てて飛ばされた男を再び縛り上げている。

「危なかった……油断してたぜ。ふたりとも大丈夫か」

 李桜は紫苑がいとも簡単に男を投げ飛ばしたところを見て、感心しながら目を見張った。

「紫苑って本当に武術が使えたんだ……」

「……っ! どういう意味だよ」

「言葉の通りさ。だってしょうがないじゃないか、今まで紫苑が武術を使ってるところを見たことがなかったんだから」

 そう言った李桜に悪気はないことは友人として十分わかっていたが、助け甲斐のないやつ、と紫苑は悪態をつくのだった。

 もう何人の男たちが近衛邸の門を潜ったのか。

 そんなことを紫苑が思っていると、最後に近衛柿人このえかきひとが連行されてきた。

 まだ現職の左大臣であることを考慮され、柿人は用意された牛車の方へ連れられて行った。

「父上っ!」

 李桜の後ろから柿人の姿を見つけ、椿が駆け寄ろうとするのを李桜は強く引き留めた。

 その場に崩れ落ち、縋るように届かない腕を伸ばしたが、そんな椿に柿人は冷たく一瞥し声をかけることもなかった。

 紫苑は牛車に乗り込もうとする柿人に駆け寄って声をかける。

「左大臣様、あなたの身柄は後に刑部省ぎょうぶしょうへ引き渡すことになります。何というか……残念です」

「ふん、心にもないことを言うでない。おぬしも、中務少輔なかつかさしょうゆうも北条の手のうちなのであろうが」

「いえ、決してそういうわけでは……」

「まあ、もうどうでもよいことよの。だが……頼めるのであればあれのことを頼む」

 柿人の目には伏して泣き続ける娘と、寄り添う中務少輔が映っていた。

 紫苑は柿人の言葉には答えなかったが、ふっと口元を歪めた左大臣の最後の姿がいつまでも頭から離れなかった。

 一方、椿を引き留めた李桜はやるせない思いを抱えていた。

 思い返せば、最初に柿人の謀反を知り、それを何とか穏便に済ませようとして最初に行動を起こしたのは他でもない、椿だった。

 椿が自分の身を帝に売ってまで守ろうとしたのは、百合だけではない。

 輪廻の華が手に入らなければ挙兵しないのではないかと考えたのは柿人への愛情だろう。

 椿はそれに加担していた陰陽頭おんみょうのかみまでもを救おうとしていた。

 そんな深い愛ですべてを守ろうとしたこの人を自分は支えきれるのだろうか——そう、一瞬不安を感じたが李桜はすぐにその考えを払拭した。

 椿が抱える悲しみややるせなさは同情できたとしても、到底理解できないに違いない。

 その痛みは本人しかわからないだろうし、その辛さを共有することはできない。

 今の自分にできることは寄り添うことだけ。

 だとしたら返事を求めるのは酷な話だ。

 気持ちの整理がつかない彼女を追い詰めるだけ。

 李桜は父を想いその場に泣き崩れる椿を優しく抱き寄せた。

 こんな結末は誰も望んでいなかった。

 しかし、現実は最悪の結末を迎えてしまった。

 だからこそ、李桜は椿のそばにいると決めた。

 この人の寛大な優しさを守っていきたい。

「椿殿」

「…………」

「つらいね……あんたは自分のすべてと引き換えにたくさんのものを守ろうとしたのに」

「…………」

「でもまだすべてを失ったわけじゃない。百合殿のことは守ってあげられたでしょ。傷は深いかもしれないけど、いつか癒えることを願って僕はずっとあんたのそばにいるよ」

「李桜様……」

「だから、返事は今じゃなくていい。遠い未来でも、僕はあんたのそばを離れず、返事をもらえるまで待ってる」

 椿は目を見開いて、呆然と李桜を見つめた。

「忘れないで。この先、何があっても椿殿のことは僕が守ってみせる。これまであんたを守ってきた柿人様や陰陽頭に代わって、その役を僕が務めるよ」

 李桜は泣き笑う椿を優しく抱きしめた。

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