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第5話 紅蓮寺で出逢って

 小鳥がさえずる早朝、見習い僧侶として紅蓮寺ぐれんじに身を寄せる鉄線てっせんは慣れた様子で前を行くひとりの女性を追いかけていた。

百合ゆり様、朝露で滑るので気を付けて下さいよ!」

 百合と呼ばれた女性は振り返って満面の笑みで答えた。

 百合は藤色の着物の裾を少したくし上げながら薬草を入れるための籠を片手に鼻歌を歌っている。

 百合と鉄線は紅蓮寺付近の崖下に来ていた。崖下に流れる沢の周りに生息する、薬草を集めるためである。

 玉砂利が転がる沢は上流へ向かうと鬱蒼とした緑が広がっていた。

 百合は鉄線が心配するのもよそに、ずんずんと上流へ向かっていった。

「鉄線さん、今日はもう少し先へ行ってみましょう。もっといろいろな薬草があるかもしれません」

「百合様は薬草を集めるのがお好きですね」

「好きというより、これしかできないだけです。私が役に立つことなんて他にないもの。お世話になっている鉄線さんや雪柊せっしゅう様のためにお料理を作ることくらいしか……」

 百合は悲しい目をして彼に答えた。

 崖に沿って流れる沢の上流へさらに進んでいくと、高い壁のように立ちはだかる崖の遥か上に紅蓮寺の影が少し見えていた。

(ずいぶん下ってきてしまったな)

 戻るのが大変になる前に引き返そう、そう鉄線が考えていた時、彼を呼ぶ叫び声が前方から聞こえた。

「鉄線さんっ!」

 その声が百合のものだとすぐにわかり、鉄線は身軽に玉砂利の上を駆けた。

「百合様、どうされましたっ」

 駆けつけると百合の足元にはひとりの男が転がっていた。

 離れたところから見ても全身が傷だらけであることが伺える。

「人が……」

 見上げた高い崖から滑落してきたと思われる状況だった。

 手に持っていた籠を落としてしまうほどの驚きで、百合は青ざめた顔をしている。

「百合様、見せてくださ——」

 鉄線は途中まで言いかけて、一瞬言葉を飲み込んだ。

 近づくと、そこに横たわっていたのはよく見知った男だったからだ。

「……月華つきはな様っ!?」

 かつて一緒に紅蓮寺で修業した兄弟子の変わり果てた姿を見て、鉄線は二の句を継ぐことができなかった。

 まとっている黒い着物はところどころ破れており、全身には裂傷があった。

 もしかしたら骨も折れているかもしれない。着物の袖には確かに九条藤の家紋が入っており、月華であることは間違いなかった。

 鉄線はそばに駆け寄るとすぐに月華の胸に耳を当てた。鼓動はしっかりしている。

「まだ息がある!」

「鉄線さん、この方を知っているのですか」

「はい、よく存じております。とにかく寺に運びましょう。私が月華様を担ぎます。百合様、おひとりで歩けますね?」

「もちろんです!」

 強く頷く百合を尻目に、鉄線は静かに月華を動かす。

 瞬間、苦しそうに顔を歪めた様子もあったが、鉄線はゆっくりと月華の体を背負った。

「月華様、何とか寺まで持ちこたえてくださいよ」

 ふたりは急ぎ、紅蓮寺への道を引き返した。

 


 月華が長い夢から目覚めたのは、百合たちに崖下で発見されてから2日が過ぎた時のことだった。

 月華は紅蓮寺で初めて鬼灯きとうと出会った日のことを夢に見ていた。

 あの日、鬼灯に出会ったことで自分の世界はがらりと変わった。

 身分に関係なく、実力がすべての武士の世界は、まさに月華の求めた世界だった。

 月華が目を開くと、見慣れた天井がそこにはあった。

 ゆっくりと見回すと部屋の障子は開け放たれ、秋の涼しい風が頬をなぞり、真新しい藺草いぐさの香りと差し込む光が月華を優しく包んでいた。

 目の端には境内に咲く曼殊沙華の鮮やかな紅色が映っている。

「ここは……紅蓮寺……?」

 紅蓮寺に向かっていたことは覚えている。

 その後、何があったのか思い出すことができない。

 ただ確かなことは、全身に激しい痛みが走っているということだった。

 あちこちに包帯が巻かれ、誰かが手当てしてくれたことはわかった。

 月華のそばに付き添っていた百合は身を乗り出して彼を見つめた。

 長い黒髪がわずかに、月華の頬をかすめ、ぼんやりとしていた意識が少しずつはっきりとしてくる。

「目を覚まされましたか? 今、雪柊様をお呼びしますね」

 立ち上がろうとした百合の手を咄嗟に掴み、月華は呟いた。

「貴女は(あなた)……」

「ふふっ。意識ははっきりしておられるようですね、月華様。あなたはこの紅蓮寺にゆかりのあるお方だとか。ご安心ください。ここは紅蓮寺の離れ。安全な場所です」

 百合は優しい笑みを月華に向け、掴まれた手をそっと戻した。

「何か事情がおありのようですが、今はお休みになった方がよいでしょう」

 月華は戻された手を自分の額に当てながら、少しずつ状況を整理していく。

 数日前、突然京から戻ってきた主君は含みのある様子で紅蓮寺に向かうよう、指示を残していった。

 そうだ。

 鬼灯に命じられて、この紅蓮寺にいる百合姫を朝廷に送り届けるのが自分に与えられた任務だった——。

「……もしかして貴女が百合姫か」

 月華は目元を少し細めながら、半信半疑で言った。

 何しろ、保護するはずの姫は名前以外、何も情報がなかったのだ。

すると目の前の彼女はなぜかむっとした顔をして反論した。

「月華様、私は姫ではありません。どうぞ百合、とお呼びください。さ、どうぞ気楽に」

 百合は顔を近づけて言い直すことを求めたが、月華はすっかり困惑してしまった。

答えられずにいると、薪にするための丸太を数本背負って戻ってきた鉄線が縁側から声をかけてきた。

「月華様! 気がつかれましたか」

 鉄線は嬉しそうに草鞋を脱ぎ捨てると横たわる月華の傍らに腰を下ろした。

「よかった、一時はどうなることかと……。崖下から月華様を背負いながら、虫の息のあなたを背中で感じて、もうだめかと思いましたよ」

 涙を浮かべながらまくしたてる鉄線。

何年ぶりになるか……一緒にこの寺で修業した日々を懐かしく思い出す。

月華はそんな鉄線の頬に手を伸ばし、懐かしい顔を見つめて苦笑した。

「鉄線、しばらく見ないうちに大きくなったな」

「何をおっしゃっているのです。もう4年になるんですよ? なぜこれまで1度も寄ってくれなかったのですか。だいたい鬼灯様も鬼灯様ですよ。突然現れて月華様を攫っていくなんて……」

「鉄線、そこまでにしなさい」

 鉄線が振り返ると頭上から雪柊が切ない表情で月華たちを見下ろしていた。

 鈍色にびいろの着物に腕を後ろで組むその姿は月華が最後に見た姿とまったく変わっていなかった。

 現れた師匠に挨拶しようと動かない体を無理やり起こそうとしたところを、雪柊は軽く手で制した。

「月華、まだ寝ていなさい」

 雪柊も月華の枕元に膝を折ると、その額に優しく手を添えた。

「さあ、鉄線は丸太を片付けてきなさい。百合にはお茶でも淹れてきてもらおうかな」

 声をかけられたふたりは頷いてそれぞれの役割を果たしに、月華のそばを離れていった。

 部屋に月華とふたりだけになった雪柊は優しい笑みを浮かべながら告げる。

「さて、何があったのか事情を説明してもらおうか、月華?」

 鬼灯から受けた任務でこの紅蓮寺を目指していたこと、途中で弟の悠蘭らしき人物に会ったこと、怪しい術を使う陰陽師に追いつめられ崖下に滑落したこと、少しずつ思い出したことを月華はゆっくりと語りだした。

「鬼灯からの文は届いていたよ。百合を朝廷に送り届ける任で月華がここへ来ることはわかっていたけれど」

 雪柊が鬼灯から事前に受け取っていた文には、確かに月華を百合の護衛として送ると書かれていた。

 しかし、そこには危険が迫っているなどとは書かれていなかった。

 雪柊はしばらく考え込んでいたが、明確な答えは見つからない。

「陰陽師はあそこで何をしていたのでしょうか。しかも一緒にいたのは悠蘭でした。なぜ悠蘭があの場に……」

「まあ、いずれにしても君は満身創痍だし、任務をこなせる状態ではないね。しばらくここで体を休めるといいよ。鬼灯には私から文を出しておこう。百合のことは体を治してからにしたらいい。陰陽師たちの真意はわからないがすぐに手を出してくることはないだろう。君は生かされたのだから、まずは傷を癒すことに専念しなさい」

「でも……大丈夫でしょうか」

「問題ない。この寺の周辺には結界が張ってある。この寺にゆかりのある者しか中までは入って来られないからね」

 雪柊は優しく微笑むと、話は終わりとばかりに立ち上がり、開け放っていた障子を静かに閉めながら月華に言った。

「月華」

 月華はゆっくりと雪柊の方へ首を向ける。

「お帰り」

 月華を優しく見下ろして雪柊は言った。

 久しぶりに里帰りした愛弟子を傷つけた相手のことは許せなかったが、今はこうして帰ってきてくれたことが、雪柊は何より嬉しかった。

 


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