第49話 不条理な世界で
「九条月華」
乱暴に馬を乗り捨てた土御門皐英は手に持っていた刀を抜き、鞘を放り投げた。
紫の狩衣姿の陰陽師に刀を構えた姿は不自然に映ったが、構えを見る限りには素人という感じにも見えない。
尋常ではない様子に月華は百合を自分の後ろへ隠すと抜刀した。
「土御門、そこまで輪廻の華が必要か? 鬼灯様は近衛家を征伐するつもりだぞ。戦を起こすことができなければもはや輪廻の華の存在は意味がないんじゃないのか」
一定の距離を保ちながらふたりの男は1歩も動かなかった。
「近衛家がどうなろうともうどうでもよい。私は百合殿が欲しいだけだ」
「よくもぬけぬけと……俺が黙って渡すと思うのか。あの日、茶屋で俺に斬られそこなったことを忘れたわけではないだろう」
「私と百合殿の縁はすでに繋がれている」
「お前が無理やりに繋いだものだろうが」
「繋がれた縁はそう簡単に切れぬ」
「……らしいな。では話は簡単だ。お前を殺してすべて元通りにするまで」
月華は1歩踏み出した。
袈裟懸けに振り下ろされた月華の白刃を弾いた勢いで皐英は横一文字に薙ぎ払う。
月華は咄嗟に1歩退いてその切っ先を逃れた。
「月華様っ!」
後ろに控える百合は悲鳴のような声を上げたが、彼女に対して月華は冷静に言った。
「大丈夫だ、百合。今度こそ、必ず守る」
月華の言葉を聞いた百合は無言で後退り木に繋いだ馬の後ろまで下がった。
心配そうに見守る百合の気配を後ろ手に感じながら、月華と皐英は再び打ち合った。
何度も鍔迫り合いながら近づいては離れを繰り返していたところで、さらに数頭の馬が到着した。
「皐英殿!」
近衛柿人の命で皐英を追いかけてきた男たちが10人ほど、馬を降りると皐英に近寄り全員が刀を抜いて月華に対峙した。
「皐英殿、ご無事か。柿人様の命で馳せ参じた! 我らも輪廻の華奪還に手を貸そう」
「お前たちは、柿人様の家臣か……ふん、邪魔なだけだ。手出しはしないでいただこう」
「何だと!?」
「邪魔だと申しているのだ。私がこの地に足を運んだのは輪廻の華を奪還するためではなく、あの九条月華をこの手で殺すためだ」
皐英は月華に対して刀を突きだした。
その目には深い闇が蔓延っており、月華にはただの虚勢とは思えなかった。
「あの男が生きている限り、百合殿は本当の意味で私のものにはならぬ」
「あの男を殺せばいいのだな」
男たちは柿人からふたつの命を受けていた。
ひとつは輪廻の華を無傷で奪還すること。
柿人が倒幕のために挙兵する上で輪廻の華の力が必要だと考えているからである。
そしてもうひとつは、柿人を目の前で裏切った土御門皐英を連れ戻すこと。
陰陽師として最高の能力を持つ彼に対し幼い時分から目をかけ、自分の駒として育ててきた自負が柿人にはあった。
大事を前に、その力を失うわけにはいかない。
輪廻の華を取り戻すことができれば、皐英のことも取り戻せる、柿人はそう算段していた。
しかし、もしどちらも叶わない時は両者を殺すよう、男たちは言い渡されていた。
「あの男は鎌倉から来た武士だ。お前たちでは歯が立たぬ」
「それは皐英殿とて同じことではないか。陰陽師に刀が扱えるとは思えぬ。貴殿はそこで呪詛でも唱えておればよいのだ」
男たちにとって、皐英の目的である『目の前の男を殺すこと』など目的外のことだったがその後ろに控える輪廻の華を奪還するためには確かに邪魔だった。
「輪廻の華をこちらに渡していただこう」
刀を持つ皐英を嘲笑した柿人の家臣のひとりが月華に斬りかかった。
「邪魔だ」
甘い太刀筋はあっという間に月華に弾かれ、皐英のさらに後方へ飛ばされる。
男が手にしていた刀は弾かれた勢いでその手を離れ、皐英のすぐそばに突き刺さった。
その場を微動だにせずにただ刀を振っただけで大の男ひとりを弾き飛ばした様子を見た皐英は感心した様子で半ば嬉しそうに口元を歪ませた。
「だから歯が立たぬと申したではないか。まあよいか……お前たちがあの男と遊んでいる間にまずは百合殿を取り戻すとしよう」
柿人の家臣が次々と月華に襲い掛かるのと同時に、皐英は足元に刀を突きさすと懐から式札を取り出した。
蝶の形をしたその和紙は、皐英が息を吹きかけると2羽の光る蝶の姿に変化した。
次々と襲い掛かってくる柿人の家臣たちを相手にしながら、月華は皐英の手から繰り出された見覚えのある光る蝶に驚愕した。
黄金に輝く1羽は、皐英に寄り添うようにその場に留まっているが、もう1羽はゆらゆらと月華たちの元へ近づいていた。
月華は、初めて皐英と紅蓮寺の麓で遇った夜をにわかに思い出す。
「あれは……」
月華は目の前の男たちと鍔迫り合いしながら、その光る蝶から目を離すことができなかった。
「よそ見をしている余裕があるのか?」
男のひとりが力任せに月華を押し切ると、集中を搔いていた彼は傷が治り切っていない右足を無意識に後ろに退いた。
その隙に別の男が横から斬りかかった。
「月華様っ!」
いつの間にか駆けつけた馬から降りてきたひとりが、月華に横から斬りかかろうとしていた男のもとへ刀を抜きながら駆け寄った。
打ち合いながらも体が小さいことを活かし、相手の懐に忍び込むと鳩尾に肘を打ち込み、相手が怯んだすきに逆袈裟に斬り上げた。
斬られた男はその場に倒れ、間もなくこと切れた。
月華の窮地を救ったのは、駆けつけた蓮馬だった。
「月華様、ご無事ですか」
「蓮馬、助かった。だがなぜここに……?」
「鬼灯様の元へ向かう途中、悠蘭殿と出会いまして……月華様が危険だとおっしゃるので駆けつけました。さすが、ご兄弟。悠蘭殿の言った通り、駆けつけて正解でしたっ」
息を切らしながら蓮馬は簡潔に説明した。
月華も対峙していた男を勢いよく斬り伏せると、皐英が放った蝶の行方を探した。
こちらに近づいて来たと思っていた1羽は、斬りかかってくる男を相手にしている間に月華の横を通り抜け、百合の元へ向かっていた。
「百合っ!」
月華は百合に危険が迫っていると直感した。
百合の元へ向かおうとしたが、次々に襲い掛かってくる柿人の家臣たちに阻まれ、気がつくと蓮馬と背中合わせになっていた。
すると皐英は蝶を動かしながら、再びもう1枚式札を取り出すと地面に突き刺してあった刀で器用に自分の親指の腹を傷つけ、滴る血を和紙に垂らして何やら小声で唱え始めた。
すると皐英の手元にあった式札は人の大きさほどもあろうかという獅子に化けた。
獅子はどしどしと重量を感じさせる音を響かせながら月華たちのもとへ突進していった。
一方、遅れて馬から降りた悠蘭は皐英のもとへ駆けつけた。
その時にはすでに放たれた獅子が月華のところへ向かっていた。
「兄上!」
月華に向かって突進してきた獅子は、対峙していた近衛家の家臣を蹴散らした。
それはどう見ても作りものに見えない迫力があり、月華と蓮馬はこれまで相手にしていた男たちに加えて皐英の式神をも相手にすることになってしまった。
兄の危機を不安そうに見つめながら、悠蘭はさらなる現象を目の当たりにすることになる。
月華の後ろから、百合が左手を前に出したまま、見えない糸に引っ張られるようにして皐英の方へ向かっていたのである。
自分の足で歩いているがそれは百合の意思ではないようだった。
左手の甲に刻まれた蝶の印が光り、その腕を皐英が放った蝶の式神が導いているかのようだった。
悠蘭は百合を皐英に近づけまいと駆け寄ろうとしたが、気がついた時にはその足から首に至るまで大蛇が体を締め上げており、動くことができなかった。
「こ……皐、英さ……ま……」
獅子に続いて放たれた皐英の式神であることは悠蘭もわかったが、いつ発動されたのかすらわからなかった。
気がついた時には自分の体に大蛇が絡まっており、自力ではどうすることもできなかった。
「悠蘭、お前はそこで黙って見ていればよい。余計なことは考えるな」
皐英はせめてもの情けとばかりに、それ以上、悠蘭の首を絞めつけるようなことはしなかった。
「つ、月華様っ」
百合は月華の名を叫んだが、月華はふたりの男を同時に相手にしており百合の元へ駆けつけることができない。
百合はそのまま、皐英の元へ吸い寄せられるようにたどり着き、とうとう皐英の腕の中へ捕らえられてしまった。
腰元を強く抱き寄せられ、百合は恐怖で顔を背けたがその拘束は強く、彼女の力では振りほどくことができなかった。
「ようやく手に入った——百合殿」
皐英は不気味な笑みを浮かべた。
皐英が指を打ち鳴らすと頭上に閃いていた2羽の蝶は姿を消した。
「離してください、皐英様っ」
「あの月夜にも言ったと思うが、私は輪廻の華だからあなたが欲しいわけではない」
顔を背けていた百合が振り向いた隙に皐英は嫌がる百合に口づけた。
月華に見せつけるように深く口づける皐英に、百合は力いっぱい抵抗したが梨の礫だった。
「皐英様……おやめ、ください! こんな……ことに、何の意味……があるの、ですかっ」
見かねた悠蘭がなんとか自由になる片手を動かし、皐英の袖を掴んだ。
皐英は冷ややかに悠蘭を見下ろすと、袖を掴む手を振り払った。
悠蘭に巻き付いている大蛇はまるで次の命を待っているかのようにその顔を皐英に向け、細い舌を揺らめかせていた。
やっと口づけから解放された百合は青い顔をして荒い呼吸をしている。
「お前は何もわかっていない、悠蘭。かつてお前はすべてを失ったと言って私に拾われたが、お前は何も失っていないことはわかっていた。お前の中に流れる血は紛れもなく九条家のものだ。多少冷たくあしらわれておったのかもしれぬが、家もあり家族も失っていないお前に、私の気持ちなどわからぬ」
皐英は百合を愛おしげに見つめながら続けた。
「異能を持った者の宿命は、それを持たぬ者には到底わからぬ。我々は常に孤独だ。利用されないようにするにはいつも人を遠ざけ、人に心を許さず、自分を見失わないようにあらねばならぬ。私はこれまでその孤独を抱えて生きてきた。それは同じように異能を持つ苦しみを持った者がいなかったからだ——だが、ここにいた」
優しく百合の頭を撫でる皐英はそれまでの彼とは少し違った印象だった。
悠蘭はその表情を見て、初めて皐英に出会った時のことを思い出した。
帰る場所を失くし、呆然自失していた悠蘭に優しく手を差し伸べてくれた皐英と同じ顔をしていた。
「皐英様が、いくら望んでも、もう……遅いのです……その方は、別の男の、妻になってしまったのですから……」
「……それがどうした」
「…………?」
「百合殿を縛っているあの男を殺せば、その呪縛から解き放たれる。私はそのために今ここにいるのだ、悠蘭」
皐英のその表情はすでに狂気をはらんでおり、悠蘭は唖然とした。
月華と蓮馬は武装した男たちと皐英が放った式神を相手に手を離すことができない。
百合は皐英の手の中にある。
その皐英は、もはや悠蘭の知っている人物ではなかった。
一瞬、かつての皐英を見たように思ったがそれは幻だったようだ。
自分に何ができるのか、ろくに身動きのできない状態で悠蘭は必死に考えていた。
皐英の暴挙を止める方法、それは——。




