第48話 近衛家の末路
朝堂院を出た北条鬼灯はすぐに六波羅御所内にいる警護の手勢数名と兵部少輔の久我紫苑を従えて近衛邸の門前に向かった。
日頃はだらしなく揺らめかせている長い髪もこの時ばかりは紐で纏められ、腰に刀差している。
「鬼灯様、蓮馬に集めさせた手勢とやらはまだ到着していませんが、俺たちだけで乗り込むんですか」
「間もなく到着する頃だ。我々が近衛家の門を破る頃には到着するやもしれぬ」
「……ずいぶんと余裕なんですね」
「お前と私とでは踏んでいる場数が違うからな。陰陽頭の怪しげな術で秘密裏にことを謀ろうとするような腰抜けを相手に臆する必要などない」
朝議で遠回しに種を蒔いたことですぐに近衛柿人が動き出すという鬼灯の考えは間違っていなかった。
彼らが近衛家の門前に辿り着くと、門の向こうからは慌ただしい様子が伝わってくる。
「——鬼灯様」
紫苑が緊張した面持ちで鬼灯を見やると、目の前の武将は平然としていた。
「何だ、紫苑。怖気づいたか」
「ま、まさか。ただ、俺はあなたと違って一応朝廷の官吏なんです。その俺が摂家に乗り込むなんて……」
「計画通り、お前は何もしなくてよい。我々が捕らえた者たちを引き取るだけでよいのだ」
鬼灯は後ろに控える臣下たちと頷き合ったのを合図に、勢いよく門を蹴破った。
強制的に開かれた扉の向こう——邸内は騒然としていた。
逃げ惑う家臣たちに紛れ、武装した男たちが右に左に走り回っている。
まさに戦準備をしているとしか思えない光景だった。
だが、それだけでは柿人を捕らえる証拠にはならない。
鬼灯はぐるりと邸内を見回した。
すると、前方にひとり、冷静な様子で邸の外に出ようとする男がいた。
よく見ると懐に何やらしまい込んだようだ。
「鬼灯様、あの男、怪しいんじゃ——」
紫苑が鬼灯に耳打ちする前に、風のごとく走り出した鬼灯は瞬時にその男を捕まえた。
他の臣下たちも慌てて鬼灯の後を追う。
紫苑も1歩遅れて後に続いた。
「貴様、今懐に入れた物を出せ」
どすの効いた低い声で鬼灯に凄まれた男は、恐れのあまりその場にひっくり返った。
尻もちをついた状態の男から臣下のひとりが1通の文を奪い、鬼灯に差し出す。
騒がしい邸内では、鬼灯たち数人が乱入したことにほとんど気づいていなかった。
彼は受け取った文を開きその場で目を通すなり口元を歪め、この上なく愉快そうに言った。
「これで証拠は揃った。近衛柿人を捕らえよ!」
鬼灯が目を通した文は、西国へ向けた倒幕のための戦へ誘う内容のものだった。
文の最後には柿人の署名が入っており、何より動かぬ証拠であった。
彼らが邸内へ踏み込もうとすると、正面の門から多数の馬に跨った屈強な男たちが乱入してきた。
「やっと到着したか」
男たちは鬼灯の前に集合すると全員、馬から降りてその場に跪いた。
彼らは鬼灯が蓮馬を使って鎌倉から呼び寄せた武士たちだったのである。
蓮馬の指示で鬼灯の後を追ってきたのだった。
「お前たち、よく参った。ところで蓮馬はどうしたのだ」
「はっ。蓮馬殿は道中で月華様の弟君と名乗る御仁に出会い、月華様の後を追われたのではないかと」
「月華の? あやつは鎌倉に向かったはずだが、なぜ蓮馬がその後を追っているのだ」
「さぁ、そこまではわかりませぬ」
鬼灯と紫苑は互いに顔を見合わせた。
そもそもふたりが立てた計画に蓮馬が不可欠だったわけではない。
鬼灯が文を持たせて蓮馬を鎌倉へ行かせたのは、邸の者をくまなく捕えるために頭数が必要だったからである。
紫苑の言う通り、朝廷の官吏たちは兵部省に務める者とは言えど、左大臣を糾弾することに難色を示すことはわかっていた。
だからこそ鬼灯は鎌倉から呼び寄せてでも頭数を揃えたかった。
中途半端に終わらせると火種を残すことになる。
それだけは避けなければならなかった。
鬼灯は到着した臣下の言葉を不審に思いながらも、まずは目の前の敵を征伐することに集中した。
武装した男たちが次々と邸の中から出てくる様子に、不敵な笑みを浮かべながら鬼灯は矢継ぎ早に臣下たちに向かって指示を出した。
ある者は現れた男たちを迎え撃ち、ある者は邸の出入り口を封鎖し、ある者は柿人の捜索に当たった。
鎌倉から合流した手勢も合わせて50人以上いる臣下たちはあっという間に近衛家を制圧していった。
「鬼灯様、近衛柿人を捕らえました!」
ふたりの臣下たちに両腕を掴まれ、引きずられるようにして邸から庭へ連れ出された柿人はすっかりうなだれていた。
恰幅のいい体躯は小さく見え、その威厳はすっかり失われていた。
「左大臣殿、今朝方忠告したと思ったが、貴殿の耳は飾り物でしたかな」
鬼灯はわざとらしく言ったが、柿人にはもはや反論する気力は残っていなかった。
「申し上げたはずですぞ、倒幕を目論む輩には圧倒的な武力をもって制圧する、と。家格や官位への酌量はないと申し上げたのに……無様だな。そのような覚悟しかないのであれば、最初から倒幕などゆめゆめお考えなさるな。将軍はそんなに甘いお人ではない」
鬼灯の言葉を聞いているのかいないのか、柿人は声を発することもなかった。
辺りでは次々に武装を解除された家臣たちが縄を打たれて庭に放り出されていく。
その中にもうひとりの目当ての人物がいないことに気がついた鬼灯は、自ら柿人の襟を乱暴に引っ張って問い詰めた。
「陰陽頭の姿がないようだが……よもや逃がしたのではあるまいな」
「逃がしたわけではない。あやつはこの私を裏切ったのだ!」
それまで黙していた柿人は皐英の話題になると急に声を荒げ、鬼灯を睨みつけた。
「裏切った? ではここにはいないのか。どこへ行った?」
「知らぬっ! 輪廻の華を追うと言っておったわ」
「…………」
憤然とする柿人を見下ろしながら鬼灯は嫌な予感がしていた。
鬼灯が近衛邸に踏み込んだ時にはすでに陰陽頭はいなかった。
ここに到着した臣下たちに蓮馬の行先を問いかけた時、彼は月華の弟とともに月華の後を追ったと言った。
月華が六波羅に寄っていれば自分が残した文を確認したはずだ。
であれば今頃、百合とともに鎌倉に向かっているに違いない。
鬼灯は考えれば考えるほど焦りを感じた。
(陰陽頭はまだ百合殿を狙っているのか……いやむしろ邪魔な月華を殺すつもりなのかもしれぬ)
鬼灯は近くにいる紫苑を呼び寄せると、足元にかしずく臣下と紫苑に向かって早口で言った。
「あとのことはお前たちに任せる」
「えっ、鬼灯様、どちらへ……」
「月華のもとへ向かう」
鬼灯が近くの馬を引きよせて跨ろうとした時、その視界の端に以前西園寺李桜とともに六波羅へ乗り込んできた近衛家の三の姫が臣下の男たちの手によって連れられてくる様子が映った。
毅然と歩く様は自身の末路を覚悟していると見え、潔かった。
紫苑は鬼灯の視線の先に三の姫がいることに気がついた。
六波羅御所で鬼灯と軍議を行った時のことが脳裏をよぎる——。
あの夜、鬼灯はため息をつきながらこう切り出した。
「計画の一部に変更が必要だな」
「変更、とは?」
「近衛家の者はすべて処分の対象とするつもりだったが……三の姫だけは助けることにする」
「三の姫って……先刻、李桜と一緒にいた?」
「そうだ」
「どういうことですか」
紫苑が椿と会ったのはこの夜が初めてのことだったため、どういう人物なのかは知らない。
ただ、あの天邪鬼な李桜が椿の後を追いかけていったことは不思議に思っていた。
「紫苑は先ほどの三の姫の恰好を見たか」
「あー、ずいぶん薄着で何だか飛び出してきたような姿でしたね。何かあったんですか」
「あの者は百合殿の保護を頼んだのになぜその彼女が近衛家の中にいるのか、この私を問い詰めにきたのだ」
「……はっ? 何を考えているんでしょう」
「何も考えておらぬだろう。ただ、百合殿を大事に想っている、それだけだ。世間知らずの姫の割には肝が据わっている。私はああいう人間は嫌いではない」
「鬼灯様にそこまで言わしめるとは、大した姫だな」
「あたりまえだ、紫苑。よく思い出してみよ、あの李桜が尻に敷かれていただろう? ただ者ではなく、大物だ」
鬼灯はそう言って高笑いした。
「だから、あの姫は助ける。まあ、ちょうどよい身元引受人もいるようだから問題ないだろう」
——そんな夜のやり取りを思い出した紫苑は、鬼灯が椿のもとへ足を向けた理由を理解した。
鬼灯は臣下たちに捕まっていた椿を引き受け、自ら彼女の手を引いた。
椿は嫌がり後退さったが、鬼灯はより強く引き寄せた。
「離してくださいっ。もう近衛家は終わりです。私のことは父上とともに殺してくださいませ」
「そなたは自らの危険を顧みず、百合殿の救出に手を貸してくれた。私は借りは返す主義だ」
そう言うと鬼灯は片手に馬を引き、片手に椿の手を掴んで嫌がる彼女とともに近衛家の門を潜って外に出た。
門の外には中の様子を心配そうに伺う李桜がうろうろとしていた。
「李桜!」
鬼灯の呼び声に気がついた李桜は連れられてきた椿を目の当たりにして、駆け寄った。
「鬼灯様!?」
「受け取るがいい」
鬼灯は近づいて来た李桜に椿を受け渡した。
解放された椿をしっかりと胸に受け止めると李桜は目を白黒とさせていた。
「お前の考えていることなど手に取るようにわかる。彼女がどうなるか心配で中の様子を伺っていたのだろう?」
「…………はい」
「私も鬼ではない。終始、百合殿を守ろうとして体を張ってきた彼女を取って食おうとは思っておらぬ」
「それはどういう……」
「だが、これで帝のもとへの輿入れ話はなくなるだろう。李桜、椿殿をここまで巻き込んだ責任はお前が取るのだな」
状況を呑み込めずにいる椿の様子をよそに、李桜は力強く頷いた。
その様子に満足した鬼灯は優雅に馬に跨った。
「鬼灯様、どちらへ行かれるのですか」
「陰陽頭が月華を追っているらしい。私はその後を追う。月華を守るのは親である私の役目だからな。中のことは紫苑に任せてある。私がいなくても後はうまくやるだろう」
不敵な笑みを残し、鬼灯は馬を走らせるとあっという間に遠ざかり影も見えなくなった。
李桜は鬼灯の情けに心から感謝し、椿を強く抱きしめた。
「……あの、李桜様?」
椿が上目遣いに伺うと、初めて見せる優しい微笑みで李桜は椿を見下ろした。
「椿殿、かわいそうだけどこの状況では近衛家にはもう戻れないね」
「もとより覚悟の上ですもの。北条様は情けで私を助けて下さったけど、いっそのこと首を刎ねてくださった方がよかった」
「どうしてそんなことを言うの」
李桜は怪訝な表情で椿を覗き込んだ。
椿は李桜から目を逸らし俯いて答える。
「だって私はずっとこの邸の中で暮らしてきたのよ? ひとり放り出されても生きていく術を知らないわ……」
「じゃあ椿殿、僕のところに来ればいいんじゃない?」
「…………?」
椿には李桜の言う意味がさっぱりわからなかった。
「摂家ほどの家格はないけど西園寺家も清華家のひとつだし、こう見えてもそこそこの官職で俸禄も十分もらっているし、家も近衛邸ほど広くはないけどふたりで暮らすには十分な広さがあるし……」
「あのっ」
「何? 何か不満でもあるの」
「そうではなくて!」
「あんたをひとり養うくらい、問題ないよ」
「それってどういう意味でおっしゃってるの……」
「ん? わからない? 僕のところに嫁においでよって言ってるつもりだけど」
躊躇なく言う李桜に、椿はただ目を見張っていた。
門の向こう側から聞こえる喧騒が別世界のように感じられ、時が止まったような印象さえあった。
李桜は腕の中の椿を見つめながらその愛しさを実感していた。
これまで毒舌で冷酷な人間と周りから揶揄されてきたが、椿だけはその直球な物言いを笑いながら受け入れてくれた。
彼女は自分へ火の粉が降りかかることも顧みず、力を貸してくれた。
そんな椿の強さや優しさに李桜はいつしか惹かれていた。
鬼灯は取って食うつもりはないと言っていたが、近衛家直系の姫として無罪というわけにはいかないだろう。
それでも、生きてさえいればどうにでもなる。
この先、どうなろうと今の李桜はこの腕の中の椿を手放すつもりはなかった。
今、やっと月華の気持ちが分かった——。
李桜は心の底から鬼灯に感謝したのだった。




