第47話 危機迫る
悠蘭が九条邸の門を潜って通りに出ると、目の前を疾風のような勢いで馬に跨った人物が駆け抜けていった。
徹夜明けで急な眠気に襲われていた彼は、何が駆け抜けていったのかわからなかったが、何の気なしに目で追い、その先を凝視すると紫の狩衣を靡かせながら遠ざかって行く人物が見えた。
何度か目を擦って見据えたがそれは間違いなく皐英の後姿だった。
(皐英様が馬に乗ってるなんて初めて見るな……)
そんなことを思いながら、特に気にするでもなく悠蘭は歩き始めた。
陰陽寮に戻るつもりで歩き始めたはずが、なぜかその足は皐英が去っていった方向へ向いている。
陰陽寮とは反対方向なのにも関わらず、その足は止まることはなかった。
すると、皐英を追いかけるかのように少し後ろを数頭の馬に跨った男たちが走り去った。
(皐英様は一体どこに向かっている……?)
悠蘭は妙に気になっていた。
自分が陰陽寮を出た時には、皐英は確かにまだ仕事を続けていた。
仕事を片付けた皐英が向かう先は一体どこだろう……。
昨晩、悠蘭が皐英を無理やり陰陽寮へ連行した時に向かおうとしていたのは近衛邸だった。
百合を近衛邸から連れ出すために李桜が皐英を引き留めていたところだった。
ということは、おそらく用事があったから近衛邸に向かっていたに違いない。
(多分、義姉上の様子を見に行こうとしていたのだろうな)
だが、百合は無事に月華の元へ戻った。
悠蘭は先刻、華蘭庵で見た百合の手のあざについて思い出し、急に血の気が引いていった。
「まさか、義姉上を追いかけているのか……!?」
思わずそう口にしたところで、皐英が向かっていった先から荒々しい砂埃が立ち込め、馬に跨った多数の厳つい男たちの大群が悠蘭の方に向かってきた。
腰に刀をぶら下げ筋肉隆々の男たちは、一見しただけで武士だとわかる出で立ちだった。
近づいて来た集団は優に50人程度。
威圧的な集団に圧倒されて棒立ちになっていると、先頭を駆けているまだ若い武士のような少年が、目の前で止まって馬上から悠蘭に声をかけてきた。
「……月華様?」
少年は従える集団の行く手を制した。
少年よりも年上に見える男たちは彼に従い、制止する。
馬が巻き上げた砂埃に目を半分瞑りながらも悠蘭は馬上の少年の顔を確認した。
初めて見る顔だったがどうやら兄の月華と勘違いしているらしい。
「……そんなに俺は兄上に似ているのか」
前にも紅蓮寺の麓で同じようなことがあったことを思い出し、悠蘭は砂埃で軽く咳き込み、悪態をつきながら言った。
少年は馬から降りると悠蘭の前まで歩み出た。
悠蘭を目の当たりにして間違いだと気づき、律儀にも頭を下げた。
「失礼しました。あまりにも月華様に似ていたものでてっきり……俺は鎌倉から参った早川蓮馬と申します」
「鎌倉から……? では兄上と知り合いなのか?」
「兄上、とおっしゃいますと……もしかして月華様の弟君なのですか」
「ああ。俺は弟の九条悠蘭という」
「そうですか。月華様からご家族の話を聞いたことがなかったもので、すぐには気がつきませんでした。やはりここはあの方の生まれ故郷なのですね」
蓮馬は嬉しそうにしていた。
「鎌倉ではいつもお世話になっているのです。少し前に近江で大怪我をされましたが、もうお加減はよくなったのでしょうか」
「怪我? ひと月ほど前に崖から滑落した時のことを言っているのか? それならもうよくなったと兄上自身が言っていたが」
「いいえ、そんな前の話ではなくつい最近の話です。多数を相手に刀を振るわれた際に傷を負われ、倒れられたのです」
「そうだったのか。そんな話はしていなかった。ずいぶん威勢よく出て行かれたから」
「月華様はお邸にいらっしゃらないのですか」
「いや、それが……」
悠蘭は月華が邸を出て行った経緯と、彼らが六波羅に向かった旨を蓮馬に伝えた。
「兄上たちは六波羅に寄った後、その足で鎌倉に向かうつもりかもしれない。でもそれを執拗に追いかけている方がいて……。もし兄上を探しているのなら、俺も一緒に連れて行ってくれないか。兄上だけでなく義姉上にも危険が迫っている気がするんだ」
悠蘭は鎌倉から兵を連れて戻ったばかりの蓮馬に、皐英が月華と百合を狙っているかもしれないことをさらに説明した。
このまま走り去った皐英を放置するのは危険なような気がした。
「悠蘭殿、粗方事情はわかりました。ですが、この兵をそのまま向けることはできません」
「……っ」
「この兵は北条鬼灯様の命で集まった者たちなのです。ですから俺の一存で動かすことはできません」
そう言うと、蓮馬は悠蘭のもとを離れ、後方に控えている一団に耳打ちした。
悠蘭のところからは何を話しているのか聞こえなかったが、馬上の男たちは頷くと再び砂埃を立ててその場を去っていった。
一団を見送ると蓮馬は悠蘭のところに戻ってきた。
「一体何を話していたんだ」
「彼らには鬼灯様のもとへ向かってもらいました。あの方のもとへ合流すれば自然とその指揮下に入るでしょう。実は六波羅へ寄ってきたのですが、残されていた文に近衛家に向うと書かれてありまして、我々はそこへ向かっていたところなのです」
「じゃあ……」
「ええ。六波羅に月華様はいらっしゃいませんでした。おそらく月華様は鎌倉に向かわれたのでしょう。だから俺が悠蘭殿とともに行きます。万が一、月華様を追っている者がいるのならそれこそ危険でしょうから」
これまでのことを考えれば追手が狙っているのは輪廻の華である可能性が高い。
加えて一緒にいると思われる月華のことを排除しようとしているとするなら、今度こそ月華の命も危ういかもしれない。
寺の麓で傷だらけになっていた月華を見た時に、蓮馬は言葉を失った。
月華が紅蓮寺へ行くと決まった時に無理やりついて行かなかったことを今でも後悔している。
そばにいなかったことで力になることができなかった。
だから同じ轍は踏まない。
来るなと言われても、危険が迫っているかもしれないなら自分もその場に行って助けになりたい。
蓮馬は軽々馬に跨ると屈託のない笑みを浮かべて悠蘭に手を差し伸べた。
「一緒に行ってくれるのか?」
「当り前じゃないですか。俺にとっても月華様は大事な方なんです。行きましょう悠蘭殿、月華様のもとへ」
差し伸べられた手を掴み悠蘭は馬の後ろに乗った。
「あなたのお話だと、陰陽頭が目の前を通り過ぎてからそう刻が経っていませんね」
「ああ。すごい勢いで駆けていったが、まだ追いつける距離にいると思う。俺の杞憂だといいんだが……」
「わかりました。悠蘭殿、しっかり掴まっていてください。飛ばしますよ」
と、蓮馬は一路、来た道を戻っていった。
月華は百合を抱きかかえるようにして馬の前に乗せていた。
気がつくと辺りは見たことのある景色に変わっている。
「ここは……あの時の宿場町ですね。もう近江に入ったのですか?」
「急いだつもりはなかったが、意外と早くここまで来たな」
「この町でその着物を仕立てるための反物を買い求めたのはつい最近のことなのに、もうずっと昔のことのように感じますね」
「そうだな……」
月華は町の中を駆けながらここ数日間のことを思い返した。百合を妻に迎え、攫われた百合を取り返し、父や弟と和解して、今は鎌倉に向かっている。
ずいぶんと激動だったと苦笑した。
「百合、俺とともに来たことを後悔してはいないか」
「なぜそのようなことをお訊きになるのですか」
「俺と出逢わなければずっと紅蓮寺で平和に暮らしていたのではないかと思うからだ。確かに皐英はちょっかいを出してきただろうが、雪柊様の結界が破られない限りは安全だったろう。百合は、自分のせいで俺に禍が降りかかったと思っているようだが、俺も貴女に対して同じことを感じていた。俺と出逢ったことで百合の運命がさらに過酷なものになったんじゃないかと……」
「ふふっ。おかしなことを言う旦那様ですね。籠の鳥のように大事に囲われていた私を外に放ってくださったのは月華様ではないですか。こんな私と一緒にいてくださって感謝こそすれ、後悔することなんてひとつもありません。ただ——」
「ただ、何だ」
「もう大怪我はなさらないでくださいね」
「……戦いが本分の武士の俺にそれを言うのか」
「だって私を守って下さるのでしょ? 月華様が怪我をされたら、誰が守ってくださるのですか」
「百合を守ると誓ったことに嘘はないが——わかった、善処する」
月華の回答に満足した百合は満面の笑みで応えた。
月華たちは華蘭庵を出た後、時華に告げた通り六波羅御所を訪れた。
が、すでに鬼灯は六波羅を出た後であり、門番に文を残していた。
文には一刻も早く京を出よと書き記されていた。
いつものことながら端的な内容で、それ以上のことは何も書かれていなかったが、鬼灯と長年付き合ってきた月華にはそれが彼の優しさなのだとわかっている。
今頃、鬼灯は近衛家に向かっているのだろう。
近衛家と深い関わりのある陰陽頭は百合を狙っている。
いつ何時、百合を取り戻しに来るかわからない。
お前がそばにいて守れ、そう言われている気がした。
月華は六波羅を訪れたその足で鎌倉へ向かったのだった。
ふたりがたどり着いた宿場町は鎌倉へ向かう東海道と近江の奥地へ向かう道との中継地点に当たる。
彼らは馬でそのまま東海道へとなだれ込もうとしていた。
本来なら百合の荷物を取りに紅蓮寺へ戻りたいところだったが、いつ陰陽頭の追手が現れるかわからないため、ふたりは先を急ぐことにした。
東海道に入りしばらく東へ進んだところで小さな木陰を見つけ、馬から降りた月華と百合は、小休止していた。
木の枝に馬を繋いでいると、ふたりが来た方向から俊足で追いかけてくる1頭の馬が土埃を巻き上げながら近づいて来る。
月華が振り向いた時にはその人物が誰なのかわかるほどの距離まで迫っていた。
紫の狩衣を靡かせ疾風のごとく現れたのは土御門皐英だった。




