第45話 転落のはじまり
冷たい秋風が荒ぶ神無月の終わり頃。
京都御所の中にある朝堂院には主要な人物が集まっていた。
帝のいない定例の朝議であったが、両翼に左右大臣を据え八省の大輔や少輔が居並び、末席には幕府の代理として北条鬼灯が鎮座していた。
中務大輔の後ろに西園寺李桜、兵部大輔の後ろには久我紫苑が控えている。
定例の朝議に鬼灯が顔を出すことは珍しく、室内は騒然としたが進行役の左大臣の号令によって静まり返った。
「では定例の朝議を始める——」
「その前に私からひとつよろしいか、左大臣殿」
鬼灯は1歩前に出るとその場に集まった面々に一礼した。
左大臣は眉をひそめて厳しい表情を向ける。
「北条殿、ここは朝議の場である。そなたの戯言を聞く場ではない」
かねてより倒幕派と言われている近衛柿人は、その場にいる全員に聞こえるようにわざと鬼灯を遠ざけた。
その顔には鬼灯を煙たがっている様子がありありと見えた。
「貴殿がどう思おうと勝手だが、私の言葉は幕府からの諫言であるとご理解いただこう」
「……っ」
柿人が二の句を継げずにいると、鬼灯は不敵な笑みを口元にたたえて話を続けた。
「最近、この朝廷の中で倒幕を目論む輩が暗躍しているという噂を耳にしましてな。もしこの噂が真実だとすれば幕府から派遣されている私も黙って見過ごすことはできぬ」
毅然とした様子の鬼灯は一同を見回した。
その睨みを効かせた視線に全員が固唾を呑んでいた。
紫苑は微妙な空気が漂う室内を見回しながら、4日前に六波羅御所で鬼灯と向かい合った時のことを思い出していた——。
百合を取り戻すために出て行った月華の背中を追いかけるように、李桜と椿が部屋を出て行く様子を見て、鬼灯はため息をついた。
「さて、紫苑。では改めて軍議を始めようではないか」
「鬼灯様、月華たちをあのままにしておいてよいのですか」
「近衛家の三の姫が百合殿を連れ出す手伝いをしてくれるというのであれば、何も問題はないだろう。百合殿の救出に最も大きな壁となっていたのは、近衛家の中に取り込まれてしまったということだった。そこから出す術があるのであれば、あとはどうとでもなる」
鬼灯は紫苑から手渡された文を広げ、ひと通り目を通した。
中には予想通りの内容が書かれており、彼は満足した笑みを浮かべた。
「これから大変なことが起こるっていうのに、なんだか嬉しそうですね」
「お前はこの文の中身を見たか?」
「それ、蓮馬からのもののようですが、さすがに中身までは見ていませんよ。蓮馬は何と?」
「総勢50名を取りそろえた旨と、近衛柿人に倒幕の疑いあるのなら捕縛を許可していただくよう将軍が帝に進言してくださると書かれてある」
「……本当に摂家相手にそんなことが可能なんですか」
「我々武士はお前たち公家が思っているよりも早耳だ。不穏な動きをしているとあればそれは遠く離れていてもすぐに耳に入る。柿人のことだ、権力を笠に鎌倉の手の届かぬ西国のどこかに応援を頼んでいるに違いない。幕府としては西国が朝廷と手を組み反旗を翻してくることは好ましくない。無駄に血が流れるばかりで貧しい民が余計に疲弊するだけだからな」
鬼灯は紫苑との間に大きく京の地図を広げた。
「とにかく我らは柿人が兵を動かす前に捕縛せねばならぬ」
「近衛家の関係者はどうされるおつもりなんですか?」
「だから今宵、お前を招いたのだ」
「…………?」
「私は幕府に反旗を翻して挙兵しようとする連中の首を押さえられればよい。公家どものことは朝廷に処分を任せるつもりだ。兵部大輔にはすでにお前を借り受けたい旨、伝えてある」
「いつの間に……!?」
「近衛家の処分に関しては兵部省へ引き継ぐゆえ、お前は私とともに来るのだ。柿人を捕らえた後はお前に預けよう——ただし」
鬼灯は手元に広げた地図に目を落としながら、近衛家の位置に印をつけると小さく息を吐いた。
「計画の一部に変更が必要だな」
その言葉の続きを紫苑は固唾を呑んで聞き入った——。
はっと我に返った紫苑は鬼灯の言葉に朝堂院の中が騒然とする様子を目の当たりにした。
急に何を言い出すのかと多くの官吏たちは疑問を呈したが、右大臣である時華は黙って柿人の様子を伺っていた。
「何を根拠にそのようなことをっ!」
「根拠? それは貴殿が一番よくご存じなのではないか」
「何だと?」
「最近、私の大事な臣下が妻を娶りましてな。その妻というのがかつて奥州で栄華を誇った藤原氏の忘れ形見なのだが、ある日、近江の山奥で忽然と姿を消しまして……。どうやら攫われたようなのだ。いやはや探し出すのに骨が折れたが昨晩やっと連れ戻して、ことなきを得た」
周りの官吏たちは鬼灯が何の話をしているのかさっぱり見当もつかなかったが、柿人だけはみるみる顔色を青ざめていった。
「その奥州藤原氏の忘れ形見なのだが、少々不思議な能力を持っているようで……奥州にいた頃は戦の明暗を分ける至宝としてその能力が重宝されていたと聞く。攫われた時にはよもやこれから戦を起こすために必要としたのではないかと肝を冷やした」
鬼灯が声高に言うと、時華は眉をひそめながら制した。
「そなた、何の話をしているのだ」
「これは失礼。幕府に届いている噂に関して何か知っている者がいればと思ったが、今日のところはよしとしましょう。だが、これだけは一同にご承知おきいただきたい」
鬼灯は鋭い眼光で官吏たちを見据えた。
「我々武士は、幕府に盾突く者を決して許しはしない。立ち向かってくる者には圧倒的な武力を持ってこれを制圧する。そこに家格や官位への酌量はない」
そう言い切った鬼灯は朝議の途中にも関わらず、他の官吏が制止するのも無視して勝手に朝堂院を出て行った。
その後の朝議は混乱を極め、解散を余儀なくされたのは言うまでもない。
解散後、騒がしい朝堂院から慌てて出て行く柿人の後姿を目で追いながら、時華は口元をにやりと歪めた。
文字通り嵐が吹き荒れた朝議が中断され、朝堂院を慌てて飛び出した近衛柿人は急ぎ、邸に戻ってきた。
門を開けるよう門番を怒鳴りつけたところで土御門皐英に声をかけられる。
「柿人様、そんなに慌ててどうなさいました」
「皐英! そなた今までどこへ行っておった!?」
「右大臣様が山のような仕事を課してきまして、しばらく本来の仕事漬けになっていたのですよ。やっと解放されたところです」
「輪廻の華はどうしたのだ!」
「は? 倉に閉じ込めておりますが……鍵もかけておりますゆえ、中にいるのではないですか」
「その目で確認したのか」
「……どういうことでしょうか」
柿人の狼狽する様子にただごとではない状況を理解し、皐英は1歩身を乗り出した。
「今朝、朝議の場に突然、六波羅の男が現れおって私に釘を刺しおった。急に輪廻の華の話を始めたかと思ったら、取り返したと断言しおったぞ!」
「…………」
ふたりは顔を見合わせ、言葉を交わすことなく百合を閉じ込めているはずの倉へ急いだ。
倉の鍵を開け重い扉を開くと、中はもぬけの殻だった。
青ざめる柿人をよそに皐英は握りしめた拳で扉を強く叩いた。
ここに百合を連れてきたことをなぜ北条鬼灯が知っていたのか、そしてどうやってここから連れ出すことができたのか、皐英には皆目見当がつかなかった。
だが百合はここから消えてしまった。
隣で青ざめる柿人は倒幕を目論んでいたことが明るみになったことに驚愕しているのだろうが、皐英は関心を持たなかった。
皐英が何より認められなかったのは、ここから連れ出された百合はおそらく月華の元へ戻ったのだろうということだった。
(あの男の元にだけは置いておきたくない。九条月華……やはりとっとと殺しておくべきだった。やつが生きている限り、百合殿は我がものにはならぬ)
「もはや輪廻の華などどうでもよいわ! とにかく倒幕に賛同した諸国の同志たちを集め、一刻も早く挙兵するまで」
無言でその場を離れようとした皐英は礼を尽くすこともなく、柿人に背を向けた。
「皐英、どこへ行く! お前も戦いに備えよ」
皐英は柿人を一瞥すると冷たく言い放った。
「私は輪廻の華を追います」
「もう輪廻の華など必要ない。もたもたしていると北条が攻めて来るやも知れぬ。その前に兵を集めて鎌倉へ——」
「どうぞご自由に。私はあなたのために輪廻の華を追うわけではない」
柿人の引き留める叫び声が聞こえたが皐英は振り返ることなく、近衛家を後にした。
皐英が柿人に手を貸してきたのは、近衛家の倒幕に対する考えに賛同したからではない。
個人的に恩義を感じていたからこそ手を貸してきたが、皐英にとってそれもすでにどうでもいいことであった。
そんなことよりも、百合を月華の手から奪いたい衝動が皐英のすべてを支配していた。
皐英が去った後、柿人は怒鳴り声を上げながら邸の中を走り回った。
もう手遅れかもしれないと思いながら、数名に皐英の後を追わせた。
根拠はなかったが、皐英と輪廻の華を取り戻すことができれば、勝機があるかもしれないとも算段していた。
柿人は邸の中に護衛として待機している手勢を集め、ありったけの武器を集め始めた。
その慌ただしい様子を近衛椿は自室でじっと伺っていた。
様子を見てきた女中が椿に耳打ちする。
「姫様、何やらただならぬ様子でございます」
「……でしょうね。百合を逃がしたのが私であることはまだ知られていないようだけれど、もし父上が倒幕を目論んでいたことが知れたのならただでは済まされないわ」
「済まされないとは……」
「まあ、この邸にはいられないでしょうね。悪くするとみんな殺されるかもしれないわね」
「そんな……」
椿はあくまで毅然としていた。
邸内の様子をじかに見ていなくても騒然とする雰囲気だけでこれから何が起ころうとしているか想像がつく。
「あなたたちはこの混乱に乗じて逃げなさい。今の邸の様子なら何人かいなくなっても誰も咎める余裕はないわ」
「姫様はどうなさるのです!」
「ここに残る。私は逃げない……いえ、逃げてはいけないのよ。だって私は近衛家に生まれてしまったのだから」
椿はすでに覚悟を決めていた。
皐英を使って輪廻の華を囲おうとしていたことを知ってしまった時は、百合さえ父の手に渡らなければ大事にはならないと思っていた。
しかしすべては動き出した後であり、すでに手遅れだったのだ。
百合をこの邸の外へ出すことができただけでもよかった。
(百合はあの後、月華様に会えたのかしら……)
六波羅御所で偶然会った月華の姿を思い出し、椿は苦笑した。
攫われた百合を取り戻すためにあんなに必死になっていた月華と夫婦になったという百合が、少し羨ましくもあった。
百合は藤原家の姫として生まれながら、その家のしがらみから解放され、自分の愛する人と一緒になった。
それは椿には望んでも絶対に手に入らないものであるだけに、羨ましく思うこと自体を滑稽だとも思う。
すぐにその考えを頭の中から消し去った。
ただ、許されるなら最後にひと目会いたかった。
自分を唯一、近衛家の姫ではなくひとりの人として見てくれた西園寺李桜に——。




