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第43話 待ち望んだ再会

 固く閉ざされた近衛このえ家の門を、百合ゆりは呆然と眺めていた。

 邸の外へ出してもらえたことは嬉しかったが、囚われの身であった自分がいなくなった後のことを想うと、椿のことが心配でならなかった。

 心配させまいとして名残惜しむこともなくすぐに扉を閉ざしてしまったのだろうが、百合にとってはこの上なく寂しさを残した。

 邸の外に出ると案内人が近くにいるとのことだったが、辺りを見回しても誰もいる気配がない。

 少し離れたところで案内人になるはずの李桜りおうと天敵の皐英こうえいが立ち話をしていることなど、百合は知る由もなかった。

 仕方がなく百合は土地勘がないながらも立ち止まっているわけにはいかないと思い、歩き始める。

 空を見上げると少し欠け始めた立待月が夜空を明るく照らしていた。

「……どうすればいいのかしら」

 思わずそう呟いたところで、後ろから大きな手が百合の口元を塞いだ。

 同時に腰を強く抱き寄せられる。

 一体何事かと身を固くし声を上げようとすると、耳元でそっと囁く声が聞こえた。

「静かに」

 その声に驚き、さらに目を見開くとさらりとした赤茶色の髪がその視界の端に入った。

 ……いつかもこんなことがあった。

 転びそうになった百合を後ろから支えるように抱き留めてくれた優しい手——それはまさに百合が求めていたものだった。

 抱きすくめられたまま振り返ると口元を塞がれた手は解かれ、代わりに立てた人差し指を充てられた。

月華つきはな様……っ!)

 百合は言葉にはできなかったが、気がつくと目尻から一筋の涙が流れていた。

 必ず助けに来てくれると信じていた。

 捕らえられた倉の中で気丈にしてはいたものの、本当は不安に押しつぶされそうだった。自分の身に及ぶ危険というよりは、自分の身に何かあった時に月華がどんな想いをするのか……それを考えただけでほとんど眠ることができなかったのだ。

 月華はそんな百合の不安をすべて受け止めるようにそっと百合の涙を拭い、額に口づけると囁くように言った。

「百合、来るのが遅くなって悪かった。だが、もう2度と手放しはしないから」

「月華様……ご無事でよかった」

 月華は素早く百合を横抱きにすると脱兎のごとくその場を後にした。

 涙まじりの百合の声に、月華は微笑んだだけで答えることはなかった。

 だが、百合にはそれで十分だった。

 百合は月華の首に自ら腕を回した。

 紅蓮寺ぐれんじの麓で引き離された時のことを想えば傷だらけだった月華がこうして無事に現れ、その体温を感じることができるだけで、百合は心から安堵した。

 月華は百合を抱えながらみやこの中を走り抜けた。

 5つの摂家の邸宅は御所の近くにあり、当然近衛家と九条家もそう離れていない場所に存在する。

 大路を走り抜け、月華は九条家の門の前で静かに彼女を下ろした。

 深夜とあって辺りは静まり返っており、門番以外誰もいない。

「手荒な真似をしてすまなかった。ここまで来ればとりあえず大丈夫だろう」

「ありがとうございます」

「この門を潜れば何人たりとも簡単には入って来られない」

 月華は目の前の門を指さして言った。

「あの……月華様、ここは?」

「ここは——」

 月華が答えようとした時、内側から静かに門が開いた。

 中から姿を現したのは松島だった。

「月華様、お帰りなさいませ。そろそろお戻りになる頃かとお待ちしておりました」

 さすがは松島だな、と月華は感心しながら百合を中へと促す。

「百合、中へ。京の中ではおそらくここが貴女にとって最も安全な場所だ」

「……でも」

「遠慮はいらない。ここは俺の実家だから」

「ご、ご実家ということは……まさかここは九条邸なのですか」

 奥州に暮らしていた頃、京から招かれた貴族の中に九条家や近衛家といった摂家の存在があったことを百合は知っている。

 だからこそ百合は月華が九条家の者だと聞かされて驚いた。

 ましてや月華の話に寄れば、彼の父上である現九条家当主は右大臣の地位にあるという。

 招かれたとはいえ、そんな良家の邸に足を踏み入れていいのだろうか。

 だがもうすでに百合はこの九条家次期当主の妻になってしまっている。

 足を踏み入れないという選択肢は残されていない。

 中に入ることを躊躇っている百合に月華は手を差し出した。

 百合は月華に導かれるままに1歩踏み出した。

 門を開けてくれた人物を目の当たりにすると、彼は深々と百合に向かって頭を下げた。

 理由がわからず目を白黒させていたが、頭を上げた相手の顔を間近で見て百合ははっとした。

「あなたは……近江で1度お会いしたことがありますよね」

 以前、ろくに話をすることもなく月華に連れられて紅蓮寺へ戻った際、最後まで心配そうな視線を送ってくれていたことを覚えている。

 松島は嬉しそうに答えた。

「覚えておいでとは光栄です、奥方様! ささ、秋の夜は冷えますゆえお早く中へ」

「お、奥方様……!?」

 百合が顔を赤らめて口ごもる様子に、月華は肩をすくめるだけで特に事情を説明しようとはしなかった。

 百合は混乱しながら、案内されるままに月華に手を引かれて邸の中へ入っていった。

 彼らの後ろでは静かに門の扉が閉められる音が響く。

 それは百合が安全な場所へたどり着いたことを示していた。

 松島は月華が寝泊まりしている華蘭庵からんあんにふたりを案内すると、行燈に明かりを灯してすぐに去っていってしまった。

 百合は行燈に淡く照らされた室内を見回した。

 6畳ほどの広さだろうか。

 い草のいい香りが漂うそこは、何もない空間だった。

 近衛家から椿の手によって急に外に出され、気がつくと月華の腕の中にいた。

 月華は門の前でここは実家だと言っていた。

 百合は状況がよく呑み込めず、呆然と立ち尽くしていた。

 この夜の短い間にいろいろなことが急激に起こりすぎて整理することができないでいたのである。

 そんな百合の様子も構わず、月華は振り向きざまにしっかりと彼女を抱き寄せた。

愛しそうに百合の頬をなぞり小さく息をつく。

「無事でよかった……」

「月華様こそ……あの後、どうなったのかと案じておりました。お怪我は……お怪我はされませんでしたか」

「ああ、大丈夫だ」

「本当に?」

「ああ、問題ない」

「よかった……助けに来てくださってありがとうございます」

「すまなかった。あの日、百合を守り切れなかったことを今でも後悔している。俺の力が及ばなかったばかりに、貴女に辛い思いをさせた……」

「……もうよいのです。こうしてまた月華様のおそばにいられるだけで百合は幸せなのですから」

「百合……」

 月華はさらに強く百合を抱きすくめた。

 しばらくの間ふたりは言葉を発することもなく、ただ互いの体温を感じていた。

 百合は月華の腕の中で安堵すると、徐々に冷静さを取り戻していった。

 と同時にどこか違和感を持ち始めていた。

 以前、月華は家を飛び出して武士になったと言っていたのに、なぜ今、ここにいるのだろう。

「月華様?」

 沈黙を破って最初に口を開いたのは百合だった。

「ん……?」

「以前、この九条家にいるのが嫌で家を出て武士になったとおっしゃっていましたが、どうして今お戻りに?」

「…………なぜそんなことを訊くんだ」

「少し疑問に思っただけです。月華様なら、ご友人のところとか、お師匠様のところとか他に行ける場所があるはずなのに、迷いなくここへ来られましたよね」

 百合の表情は疑問と戸惑いに満ち溢れている。

 月華はなんとかごまかしきれないものかと思案したが結局、射貫くような百合の視線に耐え切れず深く息を吐いて白状した。

「貴女には隠しごとはできないな……。実は、父上と取引したんだ」

「取引?」

「ああ。近衛家の中に取り込まれてしまった百合を外に出すことは容易ではなかった。だから父上の力を借りた。正確に言うと、父上の地位と権力を利用したんだ。その代わり、父上が引退した後はこの九条家を継ぐことにした」

「えっ……」

「妻の貴女に相談しないで将来のことを勝手に決めてすまないな」

 月華は申し訳なさそうに眉尻を下げている。

「しばらくは鎌倉を離れるつもりはないが、いずれはこの邸に戻ってくることになるだろう。だが、父上が隠居されるのはずっと先のことだ。だから百合は何の杞憂もなく、俺のそばいてくれればそれでいい」

「でも……」

「気にするな」

 あんなに公家を嫌い、家族や友人と遠く離れた鎌倉に行って武士になってまで遠ざかった九条家の鎖に再び繋がれること——それは間違いなく、月華が望んでいたことではない。

 彼の気持ちを考えると、百合は居たたまれなかった。

 その発端が自分にあり、月華の体を傷つけるだけでなくその矜持を失わせてしまうきっかけを作ったのではないか、そう思うと百合は自分の存在が許せなかった。

「……また私の存在が、月華様の運命を狂わせているのですね」

 そういうと百合は強引に月華の手を振りほどいた。

 彼の腰にある刀を鞘から無理やり抜き放つと、1歩下がる。

 そして抜いた刀の切っ先を自分の首へ当て、柄を月華へ向かって突き出した——。


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