第42話 消えた百合
李桜は椿と打ち合わせた通り、彼女が百合を倉から連れ出す頃合いを見計らって、近衛家の近くにやって来た。
通りに人影はなく、月明りが煌々と行く先を照らしている。
人知れず百合を連れ出すには都合が良さそうだ。
月華は自分が百合を迎えに行くときかなかったが、李桜はそれを絶対に許さなかった。
それはひとえに月華が九条家の人間であるからに他ならなかった。
左大臣である近衛柿人と右大臣である九条時華が犬猿の仲であることは朝廷の中でも有名な話である。
行方不明とされていた月華が京に戻ってきたことは多くの関係者が知らないことだったが日に日に父の時華に似てきた容姿を見れば朝廷に務める者の多くはすぐに九条家の血縁だとわかってしまうだろう。
だからこそ、月華は犬猿の仲である近衛家の近くにいるべきではない。
(月華のやつ……本当に理解しているのかな)
李桜が不満を抱えながら歩いていると後ろから声をかけてくる人物があった。
「月夜にこんなところでお会いするとは奇遇ですな、中務少輔殿」
「……っ!」
振り返るとそこにはなぜか陰陽頭——土御門皐英が立っていた。
李桜はここ数日、御所の中で皐英の姿を見ることがほとんどなかった。
右大臣から命じられた大量の仕事をこなすことで精いっぱいらしく、近衛家に寄りつくこともなかったようだった。
多忙すぎてここに来る暇は作れないはずなのに……。
李桜は驚愕したがすぐに自分を取り戻した。
今ここで百合の救出作戦を知られるわけにはいかない。
李桜は何としても皐英を遠ざけ、無事に百合を月華のもとへ送り届けなければならなかった。
「つ、土御門殿、最近ずいぶん忙しそうにしているけど、あんたこそこんな時分にここで何してるの」
「何やらわかりませぬが右大臣様から矢継ぎ早に指示が飛んできましてな。今も地方の祭祀を終えた帰りなのですよ。誰の差し金やら……まああらゆる人物に恨みを買っている自覚はありますがね」
そんな皮肉を言いながら皐英は李桜を追い越して、近衛邸の門へ向かおうとしていた。
「では私はまだ仕事が残っておりますゆえ、これにて」
恭しく頭を下げる皐英を呆然と見つめながら、内心は焦りしかなかった。
(な、なんでここにいるの!? いやいや、そんなことは置いておいてとにかくこの窮状をどうにかしないと……)
今夜、左大臣は会合で不在にしている。
それを知っていて近衛家に向かっているのだとしたら、目的は百合以外にない。
絶対に皐英を近衛家に入れてはならない——李桜は平静を装いながら慌てて皐英を引き留めた。
「待って、土御門殿」
「まだ何か?」
「……そ、そういえばこの間執り行われた四堺祭はうまくいった?」
「は……?」
「だ、だって京に疫病が流行ったらいろいろと困るじゃないか。それを防ぐための四堺祭なんでしょ」
李桜は我ながらどうでもいい話題を振ってしまったと内心、後悔した。
しかし、李桜の目には皐英の遥か後ろのある近衛家の門が開かれた様子が映っていた。
おそらく予定通り椿が百合を邸から外に出したに違いない。
今、皐英が再び李桜の元を離れようとすると百合が外に出たことを見られてしまう。
それだけは何としても阻止しなければならなかった。
「本気で言っているのか、西園寺殿。あんな四堺祭など、形だけにすぎませぬ。100年以上昔から続いている気休めの儀式なだけであって、あれだけで疫病はふせげませぬぞ。現実主義のあなたがそんなことを気にしておられるとは……」
皐英に嘲笑され、李桜は絶対に何らかの形で報復してやると心に誓った。
「そ、そうなんだ……まあ、何にしても無事に終わったのならよかったよ。これで民も安心して暮らせるしね」
「今日の西園寺殿はおかしなことばかりですな。熱でもおありなのではないか?」
「僕はいたって健康だよっ」
再び皐英に嘲笑され、李桜は腸が煮えくり返る思いだったが何とかその怒りを収め、会話を続けた。
「そ、それにしてもそんなに多忙だったのにまだ仕事があるの?」
「……中務省ほどは忙しくありませぬが、この後の仕事は個人的なものですので」
「そ、そうなんだ……。そういえば土御門殿は悪霊退治も請け負ってるらしいけど、今度頼めるかな」
「……? 西園寺殿、悪霊にお困りなのですかな」
「い、いや。困ってるのは僕じゃなく、僕の親戚なんだけどね」
「ほう。どんなことにお困りで?」
「く、詳しくは聞いていないけど夜中に邸の中で誰のものともわからないうめき声が聞こえるとかなんとか……」
「うめき声ですか。それは毎日なのですか」
「え……? いや、そこまでは確認しなかったけど」
「そうですか。あまり続くようだと早めに対処した方がよいかもしれませぬな」
「そうなの?」
「ええ。邸の中に現れるうちはまだ影響は少ないですが、体内に入り込まれると払うのは厄介ですので」
「そう、なんだ……。今度その親戚にはそのように伝えておくよ」
何とか皐英を引き留めるために李桜はありもしない嘘をつきながら対応した。
(こんな話題に食いついてくるの……!? 実際困ってないんだからこれ以上話を続けようがないよ)
どうでもいい話でも百合を救出する手立てを見つけるまではこの茶番を続けなければならない。
だが、ふと冷静に考えてみるとここで皐英を引き留めたところで、一体誰が土地勘のない百合を月華のもとへ連れて行くというのだろう。
本当ならそれは自分の役目だったが、今は皐英を引き留めることに手一杯である。
一体どうすればいいのか……。
李桜がどうするべきか思い悩んでいると彼の後ろから皐英を呼び止める声が聞こえた。
「皐英様、やっとお戻りですか。探しましたよ」
「……悠蘭?」
李桜の後ろから現れたのは月華の弟の悠蘭だった。
狩衣を靡かせながらゆっくりと皐英の前まで来ると軽く頭を下げた。
「やれやれ、今日はずいぶんと賑やかな夜だな」
「あれ? 李桜さんじゃないですか。おふたりはご一緒だったのですか」
振り返った悠蘭は涼しい顔をして言った。
「僕は書簡を左大臣様に届ける途中で土御門殿に声をかけられただけだよ」
「左大臣様は会合でご不在のはずでは?」
「わ、わかってるよ、そんなこと。火急の用件だから門番に預けようと思って持ってきたんだ」
「こんな夜分に、李桜さんも仕事熱心ですね」
「放っておいてよ。君こそ何してるの」
「俺は今夜、皐英様がお戻りになると聞いてお迎えに来たんです。右大臣様が急に大量の仕事を陰陽寮に回してきたので、もうみなてんやわんやですよ。皐英様にも手伝っていただかないと終わりません」
悠蘭は皐英の袖を掴むと不満いっぱいに言った。
「何だと……?」
「聞いてください、皐英様。右大臣様と言ったらひどいんですよ。先日の四堺祭がなぜ前倒されたのか理由も含めて報告書にまとめよと、先ほど急に言い出しまして……。それも明日の朝までに届けよと仰せなので、これからその作業を開始するところです。皐英様も手伝ってくださいますよね?」
半ば強引に皐英を連行しようとする悠蘭。
李桜は目前のふたりの遥か向こうに立ち往生している百合らしき人物を見据えた。
(早くこの土御門をかわして百合殿のところに行かなきゃいけないのにっ!)
すぐに向かいたい衝動を押さえながら、李桜はふたりのやり取りを見守る。
「右大臣はそなたの父ではないか。何とかできないものか」
「無理ですよ。俺が九条家で余され者なのをご存じでしょう。さ、行きましょう、皐英様」
悠蘭は一瞬、李桜へ目配せするとそのまま皐英を引きずるようにして近衛家から遠ざけて行った。
その後も路地を歩きながら悠蘭は振り向く隙を与えないほどに矢継ぎ早に皐英に話しかけている。
遠ざかっていくふたりの背中を李桜は呆然と見ていた。
(悠蘭、もしかして助けてくれた……?)
特に打ち合わせしたわけではなかったが、とにかく危機は去った。
皐英と悠蘭が見えなくなったのを確認すると、李桜は前方へ慌てて視線を戻した。
どうしていいか立ち往生している百合が見える——はずが、何者かに後ろから抱えられ、路地裏へ引き込まれていく。
近衛家の門はすでに固く閉ざされており、百合の身に起こっていることに気がついている者は李桜以外には誰もいなかった。
「ちょっと、冗談でしょ!?」
李桜は慌てて百合が引き込まれた路地の方へ向かった。
普段走ることのない李桜にとってとてつもなく長い距離に感じたが、なんとか目的にたどり着くと肩で息をしながらその方向へ目を凝らす。
当然のことながらそこにはもう人影がまるでなかった。
誰かに連れ去られたようにも見えたが、犯人は間違いなく皐英ではない。
他に百合を狙っている者がいたというのか……。
百合は奥州の出身だと聞く。
これまで近江の山寺で暮らしていた百合が京の地理に明るいわけがない。
(せっかく近衛家の邸から出られたのに攫われたんじゃ意味がないじゃないか)
李桜はいつになく冷静さを欠いて、百合を探し京の中を走り回るはめになった。




