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第40話 条件

「……条件とは」

 月華つきはなは父に向かってまっすぐに言った。

「私の跡を継げるのはお前しかいないと思っておる。私が引退した後はこの九条家をお前に継いでもらう。それが条件だ」

 松島は目を大きく見開いて主人の顔を見た。

 確かに月華に九条家を継いでもらうことは松島の悲願でもあった。

 体を患っている主人のことを想うと、跡継ぎの確約が欲しいのは山々だった。

 しかし、この状況でその条件を突きつけるのはあまりに無情な仕打ちではないか、松島にはそう思えてならなかった。

「何も、今のまま継いでほしいとは思っておらぬ。お前は武士となり鎌倉で多くを学んだはずだ。このみやこの貴族たちは贅を尽くし身分の低い者を虐げて暮らしているが、それをお前はお前のやり方で改革すればよいではないか。お前はこの公家の暮らしが嫌で出て行ったのであろう? であれば根本から変えてしまうことも道のひとつではないか。この腐った公家の世界を変えてみよ。そのために摂家の力が大いに役立つぞ」

「…………」

「九条家に生まれたからこそできることを、お前が成すべきことを成せばよい。どうだ月華、この条件、お前は呑むか?」

 月華は、にやりと口の端を吊り上げた時華ときはなの術中にすでにはまってしまっていることを認めざるを得なかった。

 いつもこの人の掌の上で踊らされている、そんな気がしてならない。

 だが、紅蓮寺ぐれんじでかつて雪柊せっしゅうから言われた『人にはみな役割がある』という言葉が脳裏をよぎった。

 それはまさにこのことではないのか、そう思うのである。

 かつては九条家に生まれたことを呪ったこともあったが、たしかに大きなことを成すために必要な権力がこの家にはある。

 そして、父の跡を継げば自分もそれを得ることができる。

 そんな考えを巡らせていると、それを後押しするように松島は目尻を下げて言った。

「月華様、これ以上の好条件はないとお見受けしますが……」

 月華は、頭ではわかっていた。

 左大臣がやっているように陰陽頭おんみょうのかみを使うことができるのは同じ立ち位置にいる右大臣——つまり時華くらいしか思いつかない。

 近衛椿このえつばきの力を借りて百合ゆりを近衛家の敷地の外へ連れ出すことができても、陰陽頭の邪魔が入れば救出は難航するに違いない。

 それにその責めは椿にも及ぶ可能性がある。

 ただでさえ、百合には土御門つちみかどに獲物の印がつけられ、すぐに居場所を知られてしまう。

 陰陽頭の手を逃れられるのは、近衛家も手が出せない九条家の邸内、もしくは雪柊の結界がはられている紅蓮寺、あとは遠く離れた鎌倉くらいのものだ。

 百合が近衛家から脱出したことを気づかせないためにも、できるだけときを稼ぎ、ことを穏便に済ますためには本来の仕事を大量にさせ、近衛家から遠ざけるしかない。

「わかりました、父上。次期当主の座は、俺が引き受けます」

 月華は恭しく頭を下げた。

「まあ、当分私も現役でいるつもりゆえ、お前の出番はずっと後のことだ。そう肩肘張らずともよい」

「……はい」

 顔を上げて苦笑した月華に、時華は至極まじめに言った。

「ついでに世継ぎも頼むぞ」

「……はっ?」

「男子はもちろんだが、やはり姫もほしいの。どう思う、松島」

「少しお見受けしただけですが百合姫様もとても美人なお方でした。月華様との間にできる姫となればさぞかしお美しい方におなりかと」

「そうよな。私も本当は姫がほしかったのだ。それが残念ながら男ふたりとは……父親としての楽しみも半減した」

「…………えっ?」

「何をとぼけておる。その近衛家に幽閉されてしまった姫を娶るつもりなのだろう? 実はな、月華。先日ここで鬼灯きとう殿と賭けをしたのだ」

「………………!?」

「私はお前が姫を娶る方に賭けたが鬼灯殿は絶対娶らないと言い張ってな……で、本当のところはどうなのだ、娶るつもりなのだろう?」

 月華は言葉を失った。

 確かに先ほどの松島の話では、この華蘭庵で父と鬼灯が自分の話をしていたと聞かされた。

 だがまさかとんでもない賭けをしていたとは夢にも思わなかったのである。

面白おかしく迫ってくる父に対し半ば呆れ、ため息交じりに、

「もう夫婦の契りを交わしました……」

 とだけ告げた。

 時華と松島のふたりは顔を見合って一瞬沈黙したが、すぐに時華は豪快に笑い飛ばした。松島は月華の手を握り、自分のことのように喜んでいる。

「そうかそうか、賭けは私の勝ちだな。よし、次に鬼灯殿と吞む時にはあの男の足腰が立たなくなるほど呑ませるとしよう。いや愉快だ、こんなに気分がいいのは久しぶりだな、松島」

「はい、まったくでございますっ。これで九条家も安泰」

「なっ……まだ子を授かったわけではありませんっ!」

「ん……? だが子作りはしているのだろう? 励めよ、月華!」

 時華は息子の肩を強く叩き、再び声を上げて笑った。

「はぁ!?」

「照れるな、照れるな。そうだ、私がこつを教えてやろう」

「大きなお世話ですっ!」

 子だくさんではない父に教わることなどあるのか、と反論しそうになった気持ちをぐっと押さえ、月華は冷静に言った。

「そんなことより父上、陰陽頭の件、よろしくお願いします」

「月華、この私を誰だと思っている?」

「……右大臣様です」

「わかっているのならばよい。私に任せておけ。官吏に仕事を課すのは得意とするところだ。陰陽頭には通常の2倍、いや3倍の仕事を与えるとしよう。あの柿人かきひとめにも一泡吹かせてくれる」

 上機嫌の時華は、笑いながら華蘭庵からんあんを出て行った。

 続く松島も月華に対し、しばらくはこの部屋を使うよう言い置いて出て行った。

 ふたりが出て行った襖を呆然を見つめながら、月華は足を崩した。

 緊張が一気にほぐれ、思いの外、すべてが希望通りにいったことに安堵した。

 とにかくこれで百合を助ける1歩を踏み出すことができる。

 それまでにぎやかだった室内に急に静寂が訪れ、月華は疲労感に襲われた。

 疲れを感じながらも横になる気にはなれず行燈の明かりを消し、刀を抱えながら壁に背を預け百合のことを想って座ったまま目を閉じた。

 月華がうとうとしていると、襖が静かに開く音が聞こえ、咄嗟に抱き込んでいた刀を手に身構えた。

 障子から漏れる月明りがぼんやりと室内を照らす中、月華は目を凝らす。

「兄上……」

 近づいてきたのはひと月前に紅蓮寺の麓で偶然再会して以来、顔を見ることがなかった弟の悠蘭ゆうらんだった。

 月華は抜き身の刀を納めると薄暗い中で彼に近づいた。

「悠蘭なのか?」

「兄上、九条家にやっと戻られたんですね」

「戻ったわけじゃない。今は一時的に世話になっているだけだ。そんなことより、お前、土御門のもとにいるようだが大丈夫か? 何か強制されているなら——」

 悠蘭の肩を強く掴みながらそう言う月華に、悠蘭は苦笑しながら答えた。

「兄上はいつもそうやって自分のことよりまず誰かのことを心配している。わかっていますか? 紅蓮寺で偶然会ったあの夜、皐英こうえい様と一緒にいたのは俺なんですよ。俺が兄上を崖下に突き落としたも同然なのに……」

「何を言っているんだ。お前こそわかっていない」

「……?」

「俺はお前が手を伸ばして助けようとしてくれたのをこの目で見た。お前が突き落とそうとしたのなら、助けようとするはずはないじゃないか」

 月明りに照らされ、うっすらと見て取れる月華の表情には屈託のない微笑みが浮かんでいた。

悠蘭は、負けを認めて再び苦笑するしかなかった。

「……兄上には敵わないな。兄上、俺にも義姉上あねうえの救出を手伝わせてください」

「……何だって?」

「皐英様から奪い返すおつもりなんでしょ? 今、1番あの人の身近にいるのは俺です。何かのお役に立てると思います」

「悠蘭、自分が何を言っているのかわかっているのか? お前がやつとどれほど関わっているのか知らないが、陰陽師として仕えるお前が陰陽頭おんみょうのかみに逆らえば、それ相応の責めを負うことになる」

「わかっています。でも、俺はもう逃げたくないんです。俺も誰かの役に立つための道を見つけたい。兄上、救出した折にはちゃんと紹介してくれるんでしょ、義姉上を」

 月華はしばらく見ないうちに立派な大人に成長した弟を見て、誇らしかった。

 幼い頃は自分の後ろについて歩く悠蘭を可愛がったものだが、いつの間にかその距離はどんどん開き、疎遠になっていった。

 周りの者たちは悠蘭を不憫に思って家を出たと思っているらしいが、月華こそが悠蘭から嫌われたのではないかと思い、この九条家にいることが辛かったのである。

 だが、今こうして自分の目の前にいる弟は長い時を経て心を開いてくれた。

 月華は何よりもそれが嬉しかった。

 その腕に悠蘭を優しく包み込むと、月華は震えた声で告げた。

「ああ、もちろんだ……」

「兄上……生きていてくださって、ありがとうございます」

 悠蘭の声もまた震えていた。

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