第4話 道を決めた日
近江の山奥にある紅蓮寺。
秋になると寺の境内にたくさんの曼殊沙華が咲くことから紅蓮寺と呼ばれるようになったと言われている。
その鮮やかな美しさは紅蓮寺の見どころのひとつであるが、曼殊沙華は死や不幸をもたらすとされ、寺に寄りつくものは少なかった。
人の行き来が少ない分、寺へ続く道はか細く1本の獣道のみが寺の敷地へ続いているだけだ。
山頂に建立された寺は獣道を抜けた後、108段の石段を上った先にある。
九条月華は元服してすぐに家を飛び出し、紅蓮寺へ身を寄せた。
幼馴染である久我紫苑の叔父が紅蓮寺の住職をしているからだった。
家を飛び出したのにはいくつかの理由があったが、1番は公家の身分に嫌気がさしていたからだった。
生まれた時から将来を決められ、同じ『人』でありながら、身分の違いというだけで人をあごで使うような貴族たちに、月華は幼い頃から心底、辟易していた。
「おや、修業を怠けているのかな」
紅蓮寺の住職、雪柊は縁側に座って境内を眺めている月華の横に座った。
いつも鈍色の着物をまとう雪柊は、長い間、喪に服しているらしいと聞いたことがあるが、その昔に何があったのか、月華には知る由もなかった。
しかしいつも優しく寄り添ってくれる雪柊の存在は彼にとってかけがえのないものだった。
境内では同じ修業仲間の紫苑と、最近雪柊がどこかで拾ってきたという見習い僧侶の鉄線が組み手をしている。
雪柊は微笑ましく弟子たちを見守っていた。
開いているのかどうかわからないほど細い目はいつも優しく垂れさがっており、その目が見開かれたところを月華はほとんど見たことがない。
この紅蓮寺に世話になって早2年。変わらず可愛がってくれる雪柊を、月華は心から信頼していた。
「……休憩しているだけです」
「ふん、そうか。ところで月華、君はこの寺に来てどのくらいになるかな」
「2年になります」
「君はこのままここで僧侶になるつもりかな」
「…………」
月華は核心を突かれ、返答することができなかった。
紅蓮寺に来たのは何かを目指していたわけではない。
ただ、貴族たちの中にいるのが嫌だった。
ここへは逃げてきただけで、僧侶になるとも、ここで修業したことをどこかで役に立てられるとも考えてはいなかった。
答えを見つけられないまま、月華は師匠を見つめた。
「月華、輪廻転生という考えを聞いたことはあるかい?」
「輪廻……転生?」
「そうだよ。人は死してもまた生まれ変わる。でも次にどんなものに生まれ変わるかは、今生きている間に何を成したかによると言われている」
雪柊はさらに続けた。
「今生で人を殺せば人として生まれ変わることなく、地獄へ落ちて魂が浄化されるまで人として生まれ変わることはできない。でも人のために尽くしていれば来世も人として生まれ変わることができる」
「本当にそんなことがあるのでしょうか」
「さあ。誰も前世で何を成したか記憶していないのだから本当のところはわからないね。でもこれだけは言える」
月華は雪柊の話に聞き入っていた。
「私たちは何かを成すために生まれてくる。必ず成すべき役割がある。今はわからなくとも、何かをきっかけにして気がつくこともあるよ」
「成すべき役割、ですか。俺にもそのような人の役に立てる何かがあるのでしょうか」
月華は自分の両手を見つめながら、何が掴めるのかを考えていた。
自分が誰かの役に立てるなどと考えたこともなかった。
そんな時、ふと雪柊を呼ぶ声が境内から聞こえてきた。
組み手をしていた鉄線の声だった。
「雪柊様ぁ! お客様ですよ」
境内から大声でこちらに向かって手を振る鉄線の方を見ると、確かにその後ろに見知らぬ人物が立っていた。
年の頃は雪柊と同じように見えたが、見目麗しい長身の男だった。
腰まで届くほどの長い髪を揺らしながら優雅に向かってくるその男は腰に刀を差していた。
ゆったりとした動きでこちらに近づいてくる。
「やあ、鬼灯。久しぶりじゃないか。文は受け取った、待っていたよ」
雪柊は満面の笑みでその男を出迎えた。
鬼灯と呼ばれた男は、品定めするように月華を足元から頭の先まで見つめていた。
「——あの」
男の視線に居たたまれなくなり言葉を発しようとしたところ、鬼灯と呼ばれた男が月華に近づくのを見るや否や、割って入るように雪柊は月華をかばった。
しかし、鬼灯は意に介さない様子で雪柊を無視して月華に話を始める。
「お前、武士になる気はないか」
鬼灯は唐突に月華に言い放った。
腰に差した刀を鞘ごと抜き取ると月華の前に突き出して見せる。
「武士、ですか」
「そうだ。人にはみなそれぞれ役割がある」
月華ははっとして目の前の男を見上げた。
(この人、雪柊様と同じことを言っている)
「お前は坊主には向いていない」
不敵な笑みを浮かべた鬼灯は、まっすぐに月華を見つめていた。
「おいおい、鬼灯。いきなりすぎるじゃないか。月華にも職業の自由選択権はある。ねぇ、月華?」
月華は考えていた。
初めて会うこの人はなぜ突然このようなことを言い出すのだろう。
貶されているようだが、不思議と腹が立たなかった。
圧倒的な存在感を放つ目の前の人物から視線を逸らすことができない。
当然、雪柊の言葉は耳に届いていなかった。
「あなたはなぜ俺が僧侶に向いていないと?」
「お前の目には迷いがありすぎる。坊主は人を導くのが仕事だ。迷いのある人間に人は導けないだろう?」
鬼灯はくすくすと、小ばかにしたような笑いを含みながら言った。
「だが、その奥には何か強い信念があると見える。だからお前には武士が向いている。武士は信念がなければできない仕事だ。心が折れればそこで終わり」
「信念がなければできない仕事」
月華は、頷いた鬼灯が差し出した刀を受け取った。
想像した以上にずしりと重い。
しかしその重さが妙に手に馴染んだ。
折れない心と覚悟を象徴しているかのような重量感だった。
「俺にも務まるんでしょうか」
そう呟いた月華に雪柊はわずかに狼狽えた。
「つ、月華! 鬼灯の口車に乗って簡単に決めてはいけないよ。君の将来なんだから」
「雪柊、邪魔しないでくれないか。それとも久しぶりに私とやり合いたいのか」
呆然と手元を見つめていた月華から乱暴に刀を取り上げると、無駄のない動きで鞘から抜き放たれた刀身は、気がつくと雪柊の首元に当てられていた。
慌てて仲裁しようと腰を上げた月華や、境内で鬼灯たちのやり取りを見守っていた紫苑と鉄線も引き留めにかかろうと動きかけたが、雪柊は彼らに留まるよう手を挙げた。
「まさかっ。当代随一の腕と言われる鬼灯に敵うなんて思っていないよ」
「嘘を言ってもらっては困る。私の相手をできるのは古今東西、雪柊以外にはいない」
一触即発の空気に雪柊の弟子たちは微動だにすることができなかった。
が、へらへらと笑う雪柊に対し、口元をにやりと歪ませた鬼灯は静かに刀を鞘に納めた。
「で、月華とやら。答えは?」
月華は目前の鬼灯の無駄のない動きを見て、只者ではない何かを感じ取っていた。
この人についていけば自分が成すべきことがわかるのかもしれない。
「……なります。俺、あなたについて行きます」
強い意志を持った眼差しで鬼灯を見つめると、彼は嬉しそうに月華に手を差し伸べた。
「では決まりだな。私と一緒に来なさい。お前が向かうべき道へ私が導くとしよう」
月華は迷うことなくその手を取った。雪柊は可愛い弟子を谷底に突き落とすような心地がしていたが、預け先として間違いがないこともわかっていた。
「今来たばかりなのにもう行くのかい?」
「善は急げと言うだろう? 近々朝廷を監視するための六波羅探題という任に就くことになる。そうなればしばらくは鎌倉を離れ、京に住まわなければならなくなる。その前にこの月華に刀の扱いを教えなければならないからな」
鬼灯に連れられ月華は迷いなく紅蓮寺を後にした。
月華が美しい曼殊沙華の咲き誇る境内を見たのはそれが最後だった。