第39話 九条家の敷居
地霧の漂う早朝。
月華はこれまで暮らしてきた邸の門前に立ち、そのそびえ立つ大きな門を見上げた。
九条家という公家の名門に生まれ何不自由なく暮らしてきたが、この世界は自分の肌には合わない、長い間そう思ってきた。
将来は父のように朝廷で官吏として働き、好きでもない相手と夫婦になって家を守る。
そんな決められた人生を決められた通りに歩んでいくなど、まっぴらごめんだ。
この先の人生は、誰に決められることなく自分で行く道を選択していきたい。
使命感があってのことではないが、とにかく早くこの場を離れることが先決だと月華は思った。
もう2度とここに帰ってくることはないだろう。
そう思いながら1歩踏み出すと、霧の中からひとりの男が追いかけてくる影が見えた。
「月華様! お待ちくださいませっ」
追いかけてきたのは息を切らせた松島だった。
松島は月華が生まれる前からこの九条家に仕える重鎮である。
月華にとっても家族のような存在であった。
「松島……」
「こんな早朝からどこへ行こうとなさっておいでですか」
「どこって、当てはないがこれ以上ここにいる必要もないから、この邸を出て行くだけだ」
「なぜ急にそのようなことを……」
「別に急にというわけじゃない。ずっと昔から考えていたことだ。俺ももう元服した。自分の道は自分で決めても問題ないだろう?」
「月華様。どうかお考え直しを」
松島は月華の腕を掴み懇願した。
「考え直したところで答えは同じだ」
「ですが、あなたはこの九条家の跡取りでいらっしゃる。一族や家臣一同を路頭に迷わせるとおっしゃるのですか」
「大袈裟だな、松島は。父上もまだまだお元気だ。俺に何かあっても悠蘭がこの九条家を守っていくことができる。だから俺は俺の好きにさせてもらう」
門を自らの手で開け、月華は門の外に出た。
門が閉まる寸前に隙間から見えた松島の顔は今にも泣きだしそうだった。
月華は重々しい音を立てて閉まった門を振り返ることもなく、通りへ出た。
もうこの門を潜ることもないだろう。
その足で外の世界へ駆け出した——。
月華は、紅蓮寺から移動する際に使った馬を鬼灯の邸に置いたまま、歩いて御所の付近までやって来た。
数年ぶりに戻った九条邸の門前にたどり着くと、固く閉ざされた扉を見上げ月華は大きく深呼吸した。
数年前にこの門から外の世界へ飛び出した日のことは今でも忘れていない。
九条家が嫌いで、公家が嫌いで、朝廷に仕えるなど想像すらできなかった。
父や家臣の松島は過大な期待をしていたようだが、その期待に応えられる能力が自分にあるとは思えなかった。
この門を飛び出し、紅蓮寺に身を寄せ、鬼灯とともに鎌倉へ向かった。
武士となり、再び紅蓮寺に戻ってきたことで妻を得た。
その大事な妻を取り戻すために、再び月華は飛び出した門の前に立っている。
(まさか、またこの門を潜る日が来ようとは……なんとも皮肉なものだ)
心を決めて月華が門番に声をかけようとすると、後ろから彼を呼び止める声がした。
振り返るとそこには数日前、宿場町で偶然再会した松島が立っていた。
「月華様ではありませんか!」
「松島……ちょうどよかった。頼みがあるんだ」
駆け寄ってきた松島に月華は声を潜めて言った。
「こんな夜分に悪いが父上に取次ぎを頼みたい」
「取次ぎなどと、何をおっしゃいます! ここはあなた様のご実家ではありませんか。堂々と門を開けて入られればよろしい」
声を荒げて言う松島の口元を慌てて押さえ、月華は小声で告げる。
「松島、声が大きい。今、邸の者に俺が来たことを知られたくない」
理由はわからなかったが事情を察した松島は黙って頷き、門番を言いくるめると静かに門を開けさせた。
「何か事情がおありなのはわかりました。時華様をお呼びしますので、まずはこちらに」
松島の案内で邸の中に入ると、そこにはかつて自分が暮らした景色と変わらないものが広がっていた。
寝殿造りの豪華な邸に大きな池が広がる景色は、やはり鎌倉の大倉御所と似ている。
ひとつ、新しくなったものと言えば池の中島に見たこともない建物が存在していることだった。
松島に案内されながら、月華は回廊を歩く。
「ちょうど時華様の使いで外に出ておりましたので、ご報告に伺うところでした。月華様のことはこれからお伝えしますので、まずはあちらでお休みください」
松島がそう示したのは、月華の目に入っていた中島の建物——華蘭庵だった。
「新しく増築したのだな」
「はい。時華様が数年前に突然、武家の建物をひとつ拵えるとおっしゃって、茶室代わりに建築いたしました。あの時はなぜあんなものを建築されたのか私には理解できませんでしたが、最近、月華様が武家に預けられているとお聞きして得心いたしました」
「……?」
「時華様なりに、月華様の住む世界を理解されようとなさったのではないでしょうか。私にはそう思えます。あの茶室は『華蘭庵』と名付けられましてな、月華様の華と悠蘭様の蘭の字を取って命名されたのは時華様です」
今は客人をもてなす際に使用しているという華蘭庵の外観は、まさに先ほどまでいた六波羅の邸にどこか雰囲気が似ていた。
「ところで先日お会いした女子は百合姫様とおっしゃるそうですね、お元気でいらっしゃいますか」
華蘭庵の襖を開けるとそこは6畳ほどの茶室のような造りだった。
松島が行燈に明かりを灯す様子を眺めながら月華は答えた。
「あの時、ちゃんと紹介しなかったのになぜ彼女の名を……?」
「つい最近、ここで時華様と北条様が酒を呑み交わしていらして……明るくなるまで月華様が百合姫様と夫婦になられるのかどうかという話に華が咲いていたのですよ」
「父上と鬼灯様が……?」
「はい。おふたりとも月華様をとても大事にされているのです。では、私は時華様をお呼びして参りますので、しばしお待ちを」
松島は深々と頭を下げ、襖を静かに閉めた。
静寂に包まれた空間に襖を背にして正座すると、月華は目を閉じた。
脳裏によみがえるのは連れ去られる際に見せた百合の諦めた表情だった。
近衛家にその身を取り込まれてしまったことは許しがたいが、利用価値があると思われているうちは命を取られることはないだろう、とは思う。
だが六波羅で聞いた三の姫の話が真実であるなら、想像しただけでも今すぐ土御門皐英を殺したい衝動に駆られ、刀の柄を強く握りしめた。
今、百合はどんな気持ちでいるのか……。
そんなことを考えているうちにしばらく刻が経った頃、後ろの襖が静かに開かれた。
目を閉じていても月華には、その衣擦れや足音で誰が入ってきたのかすぐに分かった。
後に続いて襖を閉める人物がもうひとり、合わせて3人の男が膝を突き合わせることになった。
月華がゆっくりと目を開けると正面には久しぶりに見る父が座していた。
数年前に別れた頃と少しも変わっていない。
自分と同じ赤茶色の髪は白髪すら混じっておらず、艶めいている。
さすが現役の大臣とでもいうべきか、眼光も鋭く衰えはどこにも見られない。
ある意味、鬼灯同様、人間離れした若々しさを感じた。
時華の後ろに控える松島は月華に対して力強く頷いた。
「よく戻った、月華」
腕を組み、まっすぐに月華を見据える視線に、彼は背筋を凍らせた。
本来ならこの九条家の敷居を再び跨げるとは思ってもみなかったのである。
自分の身勝手で飛び出していったのだから勘当されても当然だと思っていた。
「お久しぶりです、父上。このような親不孝者を受け入れてくださり、感謝いたします。ですが、俺は九条家に戻るつもりで今夜ここに参ったわけではありません」
「…………」
「身勝手なことを申していることは十分わかっていますが、何とか、父上のお力をお借りしたいのです」
「……望みは何だ」
時華は眉をひそめながら腕を組み、値踏みするように月華を見据えた。
何を言い出すのか、好奇心を露にしているようでもあった。
「少しの間、陰陽頭に仕事を与え多忙にしていただきたいのです。本業以外のことをしている暇もないほどに……2、3日でよいのでお願いします」
月華は父に対して深く首を垂れた。
語尾が掠れるほどの懇願する様子を見た時華は尋常ではない何かを感じた。
「お前は、何をしようとしているのだ」
「……実は、陰陽頭の手によって近衛家に幽閉された者を助けたくて……」
「陰陽頭が邪魔なのか」
「個人的には大いに邪魔ですが、ことを荒立てるつもりはありません」
「それは今朝廷で噂されている、近衛家が倒幕を目論んでいるらしいという話と関係があるのか」
「おそらくは……ですが、近衛家のことなどどうでもいい。俺は——」
月華が続きを言いかけたところで、時華はその先を制止した。
「その幽閉されているというのは奥州藤原氏の忘れ形見なのか?」
「……事情をご存じなのですか」
「いや、詳しくは知らぬ。だが先日、今この京で何が起ころうとしているのか粗方鬼灯殿から聞いた。で、陰陽頭を近衛家から遠ざけられたとして、ことを荒立てずに連れ出せる手立てはあるのか」
「それはこれから考えますが、近衛家の三の姫が手を貸してくれると……」
時華は胡坐をかいた膝に頬杖をつきながら、月華を見やった。
「そうか、三の姫がな……」
月華は久しぶりに見る父の眼光の鋭さに固唾を呑んだ。
「お前のその話に力を貸してやらぬでもないが、それにはひとつ条件がある」
確かに何の条件もなく、父が申し出を受けるはずはない。
だが今の月華には藁にも縋る思いでどんな条件でも受けざるを得ないのもまたしかりだった。




