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第32話 後悔と決意

 雪柊せっしゅうの書院を出た鬼灯きとう月華つきはなのいる離れに向かった。

 紅蓮寺ぐれんじの敷地には本堂、庫裏くり、客人のための離れの3つの建物がある。

 どの建物からも境内の曼殊沙華を眺められるように設計されており、それぞれが渡り廊下で繋がれていた。

 鬼灯はその渡り廊下の途中で足を止め、枯れかけた曼殊沙華を眺めた。

 意図的に植えられたものなのか、野性に生えていたものを活かして寺を建立したのか。

 改めて見ると、咲いていても枯れていても不気味な華である。

 小さく息をつくと鬼灯は再び歩き始めた。

 月華のもとへ向かう途中、鬼灯はわずかに襖の開かれた隣の部屋へ向かった。

 その隙間が自分を呼んでいるかのように感じたからだった。

 ゆっくりと襖を開くと何もない殺風景な部屋に堂々と飾られている着物が目に入った。

 衣紋掛けにかけられた真新しい着物が鴨居に引っかけてある。

 柿渋色の着物は月華の髪の色を連想させ、その身丈や裄丈ゆきたけを見れば月華のためのものだと一目瞭然だった。

 鬼灯はその着物をそっと衣紋掛けから外すと、畳の上で丁寧に畳み始めた。

 どんなに世話になったことがあるとはいえ、着物を仕立てるほどの関係となればそれはもはや家族に等しい。

 少なくとも百合ゆりにはそれだけの想いがあってこれを仕上げたのが伝わってくるほど、丁寧な仕立てだった。

 着物を畳みながら、鬼灯は改めて月華が倒れる前に発した言葉を思い出す。

 ——無茶でも何でも、自分の大事な妻を守るために全力を尽くすのは当たり前でしょう?

 月華は百合のことを『妻』と表現していたことを、鬼灯も確かに耳にした。

 ふたりの間にはすでに切り離すことができない縁があるということだろうか。

 子を授かることがなかった鬼灯にとって、月華は特別な存在だった。

 初めてこの寺で月華に出会った日のことを、昨日のように覚えている。

 元服していたとはいってもまだあどけない少年だった。

 戦場に身を投じ、背中を預けられるほどに成長した彼はもはや息子と言っても過言ではない。

 その息子同然の月華には、禍が降りかかることなく、できれば幸せな家庭を築いてほしいと思っていた。

 百合が抱えている闇はあまりに大きく月華を禍へ導いていくような気がして、ふたりが親密になることを認めたくなかった。

 だが、何よりも月華が百合を求めているのだから親としてそれは認めてやらざるを得ないのだろう。

 鬼灯は畳み終えた着物を手に、新たな決意で月華のもとへ行くことを決めた。



 百合が連れ去られてから数刻の時が過ぎていた。

 月華が目を開けると再び見知った天井が目に入る。

 障子から漏れる光で、夜が明け、すっかり明るくなったことを感じた。

(ひと月ほど前にもまったく同じことがあったな……あの時には百合の顔が真っ先に目に入ったが)

「今はいない……」

 月華は額を抑えながら、百合を守り切れなかった自分を責めていた。

 やれることはやり尽くしたつもりだがそれでもまだ足りていない。

 百合は目の前で連れ去られてしまった。

 目を閉じるだけで百合の様々な表情が思い出され、いなくなって初めてその存在の大きさに気がついた。

 そばにいたい、そばにいてほしいなどという安っぽい言葉には収まりきらない。

 隣にその存在がないということ自体を受け入れることができない。

「いない、とは百合殿のことか」

 勢いよく離れの障子が開くと、気持ちのいいほどさわやかな木枠がぶつかる音が聞こえた。

 そこには優雅な身のこなしで鬼灯がきれいに畳まれた着物を抱えて立っていた。

「鬼灯様……」

 月華が体を起こすと、鬼灯は彼のそばに腰を下ろす。

「少し休んで気分はよくなったか」

「よくなるわけがないでしょう……最悪の気分です」

 月華は深いため息を吐いて俯いた。

 休んだからといって自責の念が消えるわけではない。

 不甲斐ない自分の両手を見下ろして月華は肩を落とした。

「だろうな。だが、お前は自分にできることを精一杯やったのではないのか」

「精一杯やったって結果が伴わなければ何の意味もない。俺は百合を守らなければならなかったのに、守り切れなかった……」

 月華は指が掌に食い込むほど拳を強く握りしめた。

「……鬼灯様。申し訳ありませんが、引き受けた任務はこれ以上遂行できません。百合を朝廷に引き渡せば不幸になる者が増えるだけです」

「ああ、わかっている」

「…………?」

「月華、すまなかった」

 鬼灯が軽く頭を下げると、その長い髪が美しく揺れた。

 滅多に頭を下げる立場にない鬼灯が首を垂れる姿を、月華は久方ぶりに見た気がした。

「お前が里帰りするきっかけになればという親心で任せた任務であったが、それがかえってお前を苦しめる結果になったな」

「頭を上げてください、鬼灯様」

「いや。知らなかったとはいえ、百合殿に引き合わせ、その過酷な運命にお前を巻き込んだのは私の過ちだ」

「鬼灯様のせいではありませんよ。あなたに拾われてあなたの臣下になれたからこそ、百合にも出逢えた。きっと輪廻のように繋がっているんです。俺は必然だったと思っていますよ」

 後悔はしていない——月華は、それだけは鬼灯に伝えたかった。

 武士になったこと、任務とはいえ長く寄り付くことがなかった近江に来たこと、百合に出逢うきっかけになったこと……すべては起こるべくして起こったこと、と月華はすべてを受け入れている。

「お前は百合殿をどうするつもりなのだ」

 鬼灯の問いに月華は顔を上げると強い意志を持った眼差しを返した。

「百合とは夫婦の契りを交わしました。取り戻したら鎌倉へ連れ帰ります。たとえ誰が何と言おうとも」

「百合殿が輪廻の華と呼ばれていてもか?」

 鬼灯は訝しげにしている月華を見て、彼はまだ輪廻の華と呼ばれる百合の数奇な運命について何も知らないのだと悟った。

「そう言えば土御門つちみかどが『輪廻の華を預かる』とか言っていましたが、あれはどういう意味ですか? 百合のことをそう呼んでいたようですが……鬼灯様は何かご存じなのですか」

「まずはその傷を治してからだ。その後でゆっくりと話してやろう、すべてをな」

「そんなゆっくりなどしていられません。今この瞬間にも百合に何かあったらと思うと気が狂いそうなのに」

「だが、今のお前に刀が振るえるのか? せめてその傷を治さなければ足手まといにしかならぬぞ」

「………」

 月華は再び俯き、それ以上反論することができなかった。

 鬼灯の言うことは常に的を射ている。

 確かに今のままでは走ることすらままならない。

 こんな状態で連れ去られた百合を取り返すなど、無理なことは自分でもわかっている。

 今はどうすることもできないもどかしさに心が折れそうだった。

「今のところ、百合殿の命に危険はない」

「なぜそう言い切れるのですか」

「攫った者たちが彼女を必要としているからだ」

「……おっしゃる意味がわかりません」

 鬼灯は苦笑した。

 意味がわからないはずはない。

 もともと百合が近衛このえ家の者に必要とされている、という話から始まっている。

 だが認めたくないのだろう。

 認めることを自分に許せないのかもしれない。

「だが、お前の妻のことは必ず取り戻さねばならぬな」

 鬼灯は手にしていた着物を、俯く月華の手元にそっと差し出した。

 それは柿渋色をした真新しい着物だった。

「今は我慢して傷を治すことだけを考るのだ。動けるようになったらその着物に着替えて六波羅ろくはらまで来なさい。私は先に戻って、お前を待っている」

 そう言うと鬼灯は立ち上がった。

「これは……」

「その着物は百合殿が使っていた部屋に掛かっていた物だ。大きさから察するにお前のために仕立てた物ではないのか」

「…………」

 月華は受け取った着物をまじまじと見つめた。

 この柿渋色には覚えがある。

 百合と反物を買いに行った日のことが脳裏に浮かんだ。

 百合は月華の着物が傷んでいるから新しいものを仕立てるのだと言って、彼の髪色に似た柿渋色の反物を手にしていた。

 反物屋の主人には夫婦に間違われたが、あの時はまさか本当に契りを交わすことになろうとは露ほどにも思わなかった。

 目の前の着物を大事に抱きしめると、つい4、5日前のことなのにあまりにも昔の淡い幸せなひと時のように感じる。

 こんな短時間で、百合が自分のために着物を仕立ててくれていたとは知らなかった。

 その彼女の想いの深さに月華は心を打たれた。

 鬼灯は開け放った障子をゆっくりと閉めながら、百合の代わりとばかりに強く着物を抱きしめる月華を見下ろして言った。

 まるで厳しい現実を突きつけるかのように。

「月華、私は3日しか待たぬ。百合殿を想うのならその右足、3日で何とかせよ」

 その言葉に、決心の光を宿した月華はしっかりと頷いた。

 月華らしさを取り戻した彼の様子を見て安心した鬼灯は満足げに障子を閉めた。

 そのまま踵を返すと、

「お前に雪柊と同じ想いはさせぬ。どんなことがあろうとも、な」

 と、枯れ始めた境内の曼殊沙華を眺めながら、鬼灯はひとり呟いた。

 曼殊沙華はすっと伸びた茎に満開の紅い花を咲かせ、花が散るとその後に葉が出てくるという変わった植物である。

 満開に咲いている曼殊沙華は血の色をしていて不気味な光景だが、花が終わった後に葉をつけるというのはまだ散ることができないという生へのこだわりのように見える。

 離れを出た鬼灯は曼殊沙華を眺めながらそう思った。

「おや、鬼灯。月華を置いてもう行くのかい」

 外へ出ると鬼灯を追いかけるように出てきたらしい雪柊がいつの間にか、後ろに立っていた。

 足音ひとつ聞こえなかったのに、鬼灯が振り向くとすぐ目の前に雪柊の顔があった。

 気配をまったく感じなかったことに、鬼灯は肝を冷やした。

「雪柊、気配を消して私の後ろに立つのはやめろと何度言ったらわかるのだ」

「ははっ。性分だから許しておくれよ。それに、そんなこと言っていても本当は気がついているんだろう?」

「……いや、今は本当にわからなかった」

 真剣に返す鬼灯に雪柊は一瞬、言葉を失ったがすぐに吹き出すと続けた。

「君にも集中力を欠くことがあるんだね。人間味があってよろしい」

「笑うな、雪柊」

「ごめん、ごめん。君とは長い付き合いだけど、こんなことは初めてだね」

 鬼灯は何も答えなかった。

 確かにらしくない自覚はある。

 月華のこととなると多少、感情が理性を上回るようである。

「雪柊、月華のこと、頼んだぞ」

 鬼灯はひと言、言い残すと紅蓮寺を後にした。

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