第28話 契りを交わした夜明け
空が白くなり始める夜明け前。
月華は着物を羽織って帯を締めながら、まだ眠りの中にいる百合を見下ろした。
この山小屋に泊る予定ではなかったが衝動に歯止めが効かなかった自分を、月華は反省した。
百合の隣に横になると肩肘をついて寝顔を眺めながら、彼女の着物を掛け布代わりにその体に被せた。
そっと頬を撫でると少し身じろいで百合は幸せそうに微笑む。
このまますべてのしがらみを忘れて鎌倉へ連れ帰りたい。
そんな想いがぼんやりと脳裏に浮かんだ。
初めて百合に出逢った時、彼女のことは何とも思っていなかった。
確かに鬼灯が想像していた通りの美人だったが、月華には単なる任務の対象としてしか見えていなかった。
だが、自分と同じように人の間に序列があることを嫌っていると知った時から、何かが変わった。
百合にそばにいてほしい、守りたいという想いが日に日に強くなっていった。
土御門皐英が茶屋で百合の手に口づけていた様子を見て我を忘れた時に、月華ははっきりと自覚した。
自分は百合のことが好きなのだと。
百合を狙っている連中はいつどこでその機会を得ようとしているかわからない。
早めに紅蓮寺に戻った方が得策だろう。
幸い、雨音も収まった。
雪柊たちも心配しているに違いない。
(思い返せば、一昨日の夜はまるで生殺しのような状況だったな……我ながらよく自制できたものだ)
月華は雷の鳴り響いた夜のことを思い返した。
苦笑しながら百合の頭を優しく撫でていると、うっすらと目が開いた。
「……月華……様?」
「すまない、起こしてしまったか?」
「いいえ……自然と目が覚めました」
優しく微笑む百合を愛しく感じ、その額に口づける。
百合は恥ずかしそうに掛けられている着物を引っ張り上げ、顔を半分隠してしまった。
「百合……その、体はつらくないか?」
はにかんだ百合は控えめに頷くと、小さくくしゃみをした。
考えてみれば汗ばんだ体をそのままにして着物を掛けただけでは風邪を引いてもおかしくはない。
温めようと思い月華は百合の体を、掛けている着物ごと抱き寄せた。
互いの体温をしばらく感じていると、月華は考えていたことを口にした。
「百合、俺と鎌倉で一緒に暮らさないか」
「……えっ?」
「京には百合を狙っている者が確実にいる。紅蓮寺の外に出なければ危険は少ないが、近江は京から近すぎる。貴女を守るためには、もっと遠くへ逃れた方がいいと思う。鎌倉の俺の邸は、大きくはないがふたりで暮らすには十分だ」
「…………」
百合は迷いを抱えている様子で、切ない眼差しを月華に向けた。
「私には何か秘密があると月華様も勘づいていらっしゃるのではないですか」
「ああ、気にはなっている。だがそんなことはどうでもいいんだ」
「どうでもいい?」
「俺は今この目の前にいる百合がそばにいてくれればそれでいい」
「でも私と一緒にいることで、また月華様に危険が及ぶかもしれません」
「あの時は不覚を取ったが2度はない。貴女のことは俺が全力で守る。昨日、そう言っただろう?」
百合は涙を浮かべながら月華の胸に顔をうずめた。
ふたりがしばらくそうして温め合っていると、外では鳥のさえずりが夜明けを知らせ始めていた。
月華は起き上がり、百合の体を起こすとその両肩を掴んで言い含めた。
「百合。まだ貴女とこうしていたいところだが、ずっとここにいるのは危険だ。一旦、紅蓮寺に戻ろうと思う」
頷いた百合は胸元を着物で押さえながら恥ずかしそうに上目遣いで言った。
「あの、月華様……」
「ん、どうした」
「着替えますので向こうを向いていていただけませんか」
「着替えを手伝わなくていいのか」
「大丈夫ですっ!」
からかうつもりで言った月華の言葉を真に受けた百合は赤面しながら訴えた。
月華は百合に背を向けると、黙ってこれからのことを考えた。
百合を鎌倉に連れていくことになれば、鬼灯の命に反することになる。
だが、鎌倉に百合を連れて行くことができれば朝廷も容易に手を出すことができなくなるだろう。
百合は死んだことにしてしまえば朝廷に連れていくことができなかった説明もつくし、まさか鎌倉で暮らしているとは誰も思わない。
あとは鬼灯にどう説明するかだけだ。
(……鬼灯様に嘘は通じないから、すべて正直に話すしかないだろうな)
後ろから着物を着付ける衣擦れの音が不意に聞こえてきて、月華の思考はそこで止められてしまった。
昨晩、帯を自らの手で解き、百合の着物を脱がせていった時の彼女の表情を思い出しただけでもその熱が呼び起こされ、月華は自分を抑制できなくなりそうだった。
「月華様、着替え終わりましたのでもう大丈夫ですよ」
月華が胡坐をかいたまま振り返ると、そこには元通りに着物を着付けた百合が立っていた。
これまでよりも一層美しく見えるのは気のせいだろうか。
月華は改まって百合の前に跪くと、彼女の左手を取ってそこに口づけた。
「順序が逆になってしまったが……生涯、貴女を愛し続けると誓う。だから百合、どうか俺の妻に」
「……本当に、私でよいのですか」
「百合がいい」
一瞬、言葉を失った様子だったが百合ははにかみながら力強く頷いた。
震える声でよろしくお願いします、と答えた百合を目にして、月華は安堵した。
「これからのことは寺に戻ってから考えるとしよう——」
月華はそう言いながら、百合の手を取ってともに立ち上がろうとしたところで、彼女の手に不思議なあざのようなものがあることに気がついた。
それは黒い蝶の形をしている。
「百合、これは前からあったものか?」
百合は自分の手を見つめながら呟いた。
「……あら? 何でしょう。ほくろにしては大きいですし、蝶のようにも見えますね。気がつきませんでした」
確かに左手の甲の中心に蝶の形をした、ほくろよりひと回り大きいあざのような黒点があった。
「別に違和感はないのか」
「はい、自分でも気がつかなかったくらいですから。いつからあったのかも……」
「そうか。少し気になるが、雪柊様に後で訊いてみよう。では、行こうか。もうすぐ夜が明ける」
月華は百合の手を取り、山小屋を後にした。
痛めていた百合の足は歩けるほどに回復したため、時折気遣いながらふたりは仲良く手をつないで紅蓮寺への道を引き返した。
「雨上がりで道が滑るから気をつけろ、百合」
「大丈夫ですよ、月華様は心配性ですね——」
片足を濡れた落ち葉の上で滑らせた百合は、後ろへひっくり返りそうになるところを、月華に繋いだ手を強く引き寄せられたことで泥まみれになる惨状を免れた。
気がつくと、すっぽりと月華の胸の中へ納まっている。
「だから気をつけろと言ったんだ。足は大丈夫か?」
優しく百合の顔をのぞき込む月華に、百合は顔を赤らめながら答えた。
「ごめんなさい……不注意でした」
「いや、いい。俺がこうして支えればいいだけのことだ。俺の妻はそそっかしいということを改めて理解するいい機会になった」
「か、からかわないでください」
そんな他愛もない話をしながらふたりは歩いた。
辺りは徐々に明るくなってきており、風が吹くと頭上から枯れ葉がひらりと舞う様子が秋の深まりを物語っていた。
進む先に紅蓮寺の輪郭が見え始めた時、ふたりを呼び止める声が前方から聞こえた。
月華が目を凝らしていると、屈託なく微笑みながら鉄線が近づいてくる。
「あれは鉄線だな……」
背中に米俵を担いだ鉄線は、夜明けの時分にふたりが山中を歩いている様子を不思議そうに見て言った。
「おふたりとも、こんな時間にどうしたんですか」
「……いや、いろいろあったんだが……」
「まさか、夜中に逢引きですか」
「ち、違います!」
「でも仲良く手を繋いで歩いていらっしゃるんですから別に隠すことはないんじゃないですか。おふたりとも互いに好いていらっしゃるんでしょ?」
「な……なぜそれを」
「なぜ? 愚問ですよ、月華様。おふたりを見ていれば誰でもわかります」
月華と百合は互いに顔を見合わせた。
雪柊にならともかく年下の鉄線にまで見抜かれていたとは、どれだけわかりやすかったのだろう。
月華は以前、厨で朝餉の準備をしていて指を怪我した百合が赤面して駆け出していった時のことを思い出した。
(あの時の、鈍いとはそういうことか。すでに鉄線には気づかれていたとは……)
急に恥ずかしくなった月華は、小さく咳払いすると話題を変えた。
「ところで鉄線こそ、昨日は寺で見かけなかったがどこに行っていたんだ」
「私は雪柊様のお使いで米を仕入れに町へ行っていたのですが、嵐で2日も足止めされまして……。やっと戻って来られたのです」
「それは大変でしたね、鉄線さん」
鉄線も合流して、徐々に白くなる山際を眺めながら3人は前方の紅蓮寺を目指して再び歩き出した。
嵐は去ったようだが、どことなく不穏な空気が漂っている。
嫌な予感がする、月華は必要以上に周囲に気を配っていた。
寺の麓、108段の石段まで辿り着いた時、月華はその足をぴたりと止めた。
石段に片足をかけていた百合と鉄線は振り返り、月華の様子を伺った。
「月華様……?」
月華は百合の手を離すと腰の刀を静かに抜き、誰もいない方向へ構えた。
百合がどうしたのかと声をかけようとした時には、あっという間に複数の武装した男たちに囲まれていた。
どこから湧いて出てきたのか、あれよあれよという間に4、50人の男たちに囲まれた。
(ひとりで相手にするには少し人数が多いな……)
月華は刀を構えたものの、自分たちを囲む人数を見据えながら固唾を呑んだ。
ひとりで相手にできるのはせいぜい20人程度。
鉄線の力を借りたとしても全員を打ちのめすには手に余る人数が揃っている。
ましてや百合を守りながらとなると戦況は厳しい。
そんなことを考えているうちに目の前のひとりが月華に斬りかかってきた。




