第22話 雨上がりの境内で
「ちょっと紫苑、どこまで行くの!?」
嵐が去った翌日、澄み渡る秋晴れの中、李桜と紫苑、そして月華の同僚の早川蓮馬はともに紅蓮寺を目指していた。
李桜と蓮馬はこれまで紅蓮寺を訪れたことはなく、紫苑の道案内だけが頼りだった。
獣道のような道なき道を、枯れ枝や草木をかき分けながら、やっとの思いで紅蓮寺の麓にたどり着く。
「そうかりかりするなよ、李桜。この108段の石段を上がれば紅蓮寺の境内だ」
日ごろから体を鍛えているという紫苑は何でもないことのように長い石段を指さして言った。
李桜は紫苑の指さす方を見上げたが、遥か空に向かって続く石段の先は見えない。
その先に寺の境内と建物があるとは到底思えなかった。
「李桜殿、体が訛ってるんじゃないですか? このくらいの山中を歩くことなんて、よくあることですよ。京みたいに整備されてる場所ばかりじゃないんですから」
と、武士として常に鍛錬を怠らない蓮馬もたやすいことだと、鼻を鳴らした。
「僕を、あんたたちみたいな筋肉の塊と一緒にしないでよね。僕は文官、朝廷の文官なの! 肉体労働なんてするわけないでしょ」
ふんとそっぽを向きながらも、李桜は仕方なく前を行く肉体労働請負人たちを追いかけた。
「ところで紫苑殿、どうして紅蓮寺の場所をご存じだったんです?」
蓮馬が訊ねると紫苑はこともなげに即答した。
ふたりは3歩後ろを、息を切らしながら来る李桜をよそに平然と石段を上っていった。
「紅蓮寺の住職は俺の叔父上なんだ」
「? もとは公家の方、ということですか」
「んーまあそうだな。詳しくは知らないが、気がついたら叔父上は坊主になってた」
紫苑は豪快に笑いながら答えた。
「叔父上は坊主になる前は俺と同じように兵部省に務める官吏だったみたいなんだが、その頃から武術では叔父上の右に出る者はいないとまで言われた達人だったそうだ。それがどこでどう間違えたのか坊主になっちまってな……でもその強さは今も健在さ。俺と月華は10代の頃、一緒にこの紅蓮寺で叔父上の指導を受けて修業してたんだ」
「修業?」
「ああ。叔父上は、鬼灯様が唯一相手になる人物と称賛するほどの武術の達人なんだ。あの鬼灯様の強さを知ってるなら、蓮馬、お前にはわかるだろう、どれほどの達人なのか」
「……背筋が凍る思いです」
蓮馬が鬼灯の戦場での所業を思い出しながら血の気が引く思いをしていると、にやつく紫苑の後ろから緊張感のない声が発せられた。
「あと何段あるの!?」
息を切らしながら顔を上げることができない李桜に対し、いたって冷静に紫苑は答えた。
「まだ半分だ」
「…………」
李桜が驚愕して顔を上げると、目の前のふたりの、さらに向こうにまだまだ長い石段が続いていた。
「冗談でしょ」
「よし、蓮馬。上まで競争しよう! 李桜のことは放っておいて大丈夫だから先に上で待っていようぜ」
「そういうことなら負けませんよ、紫苑殿」
境内へ向かい、石段を駆け上がるふたりを唖然と見送る李桜だった。
紫苑は懐かしい境内に蓮馬よりも早くたどり着くと、真っ先に離れに向かった。
客人が来た時にはそこに寝泊まりさせていることを知っていたからである。
昨夜の豪雨を受け、乾ききらない雨戸を勢いよく開き、部屋へとつながる障子を思い切って開く。
「月華! 見舞いに来てやったぞ。死にかけたんだって——」
紫苑は途中まで言いかけて、目の前に広がる光景に目を見開いた。
そこには壁に背を預けながら抱き合うように絡み合い、座ったまま眠る男女がいたからである。
ひとりはよく見知った旧友の月華。
もうひとりの女性は顔が月華の肩に埋もれており、よく見えなかった。
いずれにしてもふたりとも薄い夜着1枚しかまとっておらず、どう考えても怪しい現場としか見えなかった。
急に差し込んできた光と、紫苑の大声で目を覚ました月華は眩しそうに目を細めた。
焦点が合わないまま、光を遮るように障子の方へ手をかざすと、百合が腕の中で身じろいだ。
「……百合殿?」
「ん……んん」
まどろむ百合を起こそうと、月華は百合の肩を揺らしたが、むしろ名残惜しそうに月華に抱き着いてきたところで、意識がはっきりしてきた。
昨夜、雷に怯えて震えていた百合を安心させるつもりで抱きしめたが、気がついたら朝方になって自分も寝てしまっていたようだ。
こんなところを誰かに見つかってしまっては大事になる。
早く百合を起こして、自室に戻さなくては……そう月華が思った時、目を白黒させながらこちらを見下ろしている旧友の姿が目に入った。
「…………? 紫苑!?」
急に大きな声を出してしまったことで百合は目を覚ましたようだった。
「ん……月華……様?」
月華はなぜここに紫苑がいるのかということ以前に、見られてはいけない場面を見られてしまった焦りで頭の中がいっぱいだった。
何と言い訳すれば納得してもらえるのか。
「紫苑、これは……」
月華が言い訳がましく説明しようとすると、紫苑は勢いよく障子を閉めた。
ぱしんという木枠がぶつかり合う音がむなしく響く。
「紫苑殿ぉ、いやぁさすがですね! 全然追いつけなかった」
紫苑が障子を閉めるのと同時に後ろから声をかけてきたのは蓮馬だった。
石段を競争しながら駆け上がったものの、もともと紅蓮寺で修業したという紫苑にはかなわず、敗北宣言をしながら近づいてきた。
紫苑は蓮馬の言葉を聞き流しながら、必死に現状を理解しようとしていた。
(今のは何だ!? 月華と女が抱き合っていなかったか……? 確かに鬼灯様の話では保護する姫が寺にいるはずだとは聞いていたが……このふたり、恋仲なのか? それよりも、こんな大人な場面を蓮馬に見せるわけにはいかないな)
紫苑の額からは嫌な汗が一筋流れていた。
一方、月華は閉められた障子の外から、蓮馬の声が近づいてくるのを聞いていた。
(紫苑だけでなく、蓮馬も来ているのか!?)
月華は急ぎ百合を起こすと、自分の着物を百合の肩にかけた。
こんな薄着の彼女を他の男たちの前にさらすことは許せない。
「百合殿、起きてくれ。一大事だ」
「月華様……どうしたのですか……って私、なぜここにいるのでしょう!?」
「覚えていないのか?」
「……確か雷の音で足がすくんでしまって」
「そうだ。俺の部屋の前で立ち尽くしていたから、こうして1晩一緒にいた」
百合は昨晩のことを思い出しながら少しずつ、顔を赤らめていく。
おまけに気がつくと月華の膝の上に座っていることにも驚いていた。
「ご、ごめんなさい!」
「そんなことはいい。百合殿、聞いてくれ。一大事だ」
「一大事?」
月華は強く頷くと続けた。
「なぜかはわからないが、俺の旧友が今、障子の前に立っている」
「っ!」
「一瞬、障子を開いたようだが俺たちの様子を見て何か誤解していると思う。おまけに他にもまだ人がいるようだ。俺が連中の気を引くから、貴女はこれを着て誰にも見つからないようにひとまず自分の部屋に戻るんだ」
百合は状況を理解して黙ってうなずくと、赤らめた顔をうつむかせながら肩にかけられた月華の着物を強く握った。
彼は安心させるように百合の頭をそっと撫でる。
「大丈夫だ、何とかなる」
その言葉にまったく根拠はなかったが、月華は自分に言い聞かせるように発していた。
百合の姿を自分の後ろに隠すようにして障子を静かに開く。
するとそこにはやはり幻ではなく、この紅蓮寺でともに修業した旧友の紫苑が立ち尽くしていた。
「紫苑、久しぶりじゃないか」
月華は大げさに肩を叩きながら、後ろ手で障子を閉めると境内へと紫苑を連れ出していく。
紫苑は怪訝な顔をしていたが、一応は月華の話を聞こうとしていた。
「月華、これは一体……」
月華が出てきた部屋の方へ視線を移そうとする紫苑を強引に前方へ促し、少しずつ離れから遠ざかるように歩みを進めた。
「月華様!」
紫苑と肩を組みながら境内の中ほどまで進むと、歩み寄ってくる月華の姿を見つけた蓮馬は、一段と明るく近づいてきた。
月華は、自分に集中してくれているうちは百合に関心が向くことはないはずだと考えていた。
何とか注意を引きつけ続け、百合が自室に戻るための時間稼ぎをしなければならない。
「蓮馬! 元気だったか」
不気味なくらい上機嫌な月華を見ると、蓮馬はかえって不審に感じた。
「月華様、どうされたのです? ずいぶん上機嫌でいらっしゃるようですが、何だか気味が悪いですね……」
「どういう意味だ」
「いえ、いつもは俺のことを邪険にするのに今日はずいぶん優しいというか、何というか……」
「蓮馬、それはな、月華がいかがわしい現場を隠そうと——」
「紫苑!」
蓮馬の疑問に正直に答えようとした紫苑の口を月華が塞いだ時、離れの一室から男物の着物を肩にかけた女が出てくるのを、遅れて到着した李桜が発見する。
「あれ……もしかして月華の着物?」
袖に入った九条藤の家紋を見た李桜は、ひと目でそれが月華の着物だとわかった。
部屋を出ていこうとした百合がびくりと驚き、足を止めると李桜と目が合った。
李桜の声を聞き、紫苑も蓮馬もその声の先に視線を移すと、確かに肩にかけただけの黒い着物には、はっきりと九条藤の家紋が袖に入っている。
「え? どうして女の人が月華様の着物を?」
蓮馬が不思議そうに言うと、紫苑は見てはいけないものだとばかりに蓮馬の両目を自分の手で覆った。
「蓮馬、見てはいけないぞ。ここからは大人の領域だ」
「紫苑、変なことを教えるな! 誤解だ」
「誤解? ことが終わって朝まで一緒にいた恋仲のふたりにしか見えなかったぞ」
「え? 恋仲!? ことってなんですか、紫苑殿」
視界を塞がれたまま、蓮馬は興味津々に言った。
月華は深い息を吐き、すでに収拾がつかなくなってしまったことを悟った。
その時、寺の仏堂の方からやって来た雪柊は、境内の騒がしい面々を順番に見回していた。
月華が使っている離れの部屋から出ようとして固まっている百合は、なぜか月華の着物を肩にかけている。
その様子を怪訝に眺め、面倒くさそうにしている青年は左三つ巴の家紋が入った着物を身にまとっていた。
久しぶりに見る甥の紫苑は、見たことがない少年の目を覆うようにしており、その中心で月華は盛大なため息をついている。
(左三つ巴の家紋と言えば西園寺家……そうか、彼は紫苑の友人だね。月華とも友人だと言っていたか。紫苑のそばにいる少年は、出で立ちからすると武士……鬼灯のところの子かな。やれやれにぎやかなことだ)
一通り状況を把握すると雪柊はくすくすと笑いながら月華に言った。
「にぎやかな場所の中心にはいつも月華がいるねぇ」
「雪柊様!」
蓮馬以外のその場の全員が口をそろえて思い思いにその名を呼んだ。
「みんな朝から元気で何より」
雪柊は高らかに笑い、事態を終息するべく矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「紫苑、ぼーっと突っ立ってないでお友達を私の部屋へご案内しなさい」
「はいっ」
一瞬、直立不動になった紫苑は李桜と蓮馬の腕を掴み、有無を言わさずその場を移動した。
「百合」
「はいっ!」
「そんな薄着では風邪を引いてしまうよ。月華の着物は置いて、早く着替えてきなさい」
百合は申し訳なさそうに月華の着物を畳むと、こそこそと自室へ向かっていった。
「そして月華」
「はいっ」
「この状況の事情を説明してくれるかな?」
(やはりそうなるよな……)
月華は深くうなだれ、ことの次第をすべて話すしかなかった。




