第20話 秘密
神無月の初め強い風が吹く中、西園寺李桜は京都御所近くの近衛邸を訪れていた。
寝殿造りの豪華さはかつてよく訪れた九条家のそれと似通っており、その権力の大きさをまざまざと見せつけている。
邸の女中に案内されて足を踏み入れた部屋には下げられた御簾の向こうに目当ての人物がいた。
「火急の要件につき、突然伺いました無礼をお許しください、椿姫」
李桜は恭しく首を垂れた。
女中に促され、御簾の前に腰を下ろすと鈴なりのか細い声が聞こえた。
「お前はもう下がってよい」
誰も目にしたことはないにも関わらず絶世の美女と噂されるひとつに、そのか細い声から想像されるか弱そうな印象があるのかもしれない。
御簾の向こうの主人に言い放たれた女中は頭を下げながら静かに部屋を後にした。
女中が部屋を出たのを確認するや否や、御簾が大きく上げられ、女性が飛び出してくる。
「ああ、もうっ! 堅苦しいのなし!」
「…………!?」
李桜は御簾の向こうから現れた近衛椿の姿に驚愕した。
打掛の裾をぶんぶんと振りながら現れた姫は、世の中で噂されるか弱い印象など、どこ吹く風でずいぶんと活発な印象だった。
「北条鬼灯様に文を出したのが私だって、もうわかってるんでしょ? 西園寺李桜様」
李桜に膝をつき合わせた椿は確かに噂される美女だった。
だが、李桜にとってはその容姿よりも姫とは言い難い振舞の方に気を取られ一瞬我を忘れてしまった。
椿は不敵に微笑んでいる。
想像とあまりにも違いがあり狼狽えたが、すぐに我を取り戻すと李桜は冷静に返答した。
「やはりあなたでしたか」
「そう、この椿が出したものよ。でもよく私にたどり着いたわね。さすがは朝廷一の切れ者官吏と噂されるだけのことはあるわ」
「噂ではなく事実です」
至極まじめに言ったつもりだったが、そんな李桜を椿は笑い飛ばした。
李桜はわざとらしく咳払いを一つして、続ける。
「私がここに来た理由がお分かりのようなので話が早くて助かります。六波羅に届けられた文には近衛牡丹の家紋があったと聞きます。近衛家の中で当主以外にその家紋を使えるのはあなたしかいない。ですがひとつわからないことがあるのです」
「何かしら」
「なぜ朝廷が百合姫を保護しようとしたのか、そしてその文はなぜあなたから出されたものだったのか……」
「ああ、それは私が帝と取引したからよ」
「取引……ですか」
椿は何でもないことのように答えた。
「私が帝の側室になる代わりに百合を朝廷で保護するよう命を出したことにしていただいたの。帝が承諾してくださったから、私が北条様に文を出したのよ。帝は側室になったあかつきには百合を私のそばに置いてくださると約束してくれたわ。百合とは、まだ奥州藤原氏が征伐されるよりずっと前に父上に連れられて奥州に行った時から仲がいいの。ちょうどひと月ほど前、父上が倒幕のために百合を家に囲おうとしていたことを知ってしまったから……」
「……ずいぶんと開けっ広げにお話になるのですね。お父上が倒幕を目論んでいるなど、他の方に聞かれれば一大事なのでは?」
「関係ないわ、私には。私は望んで皇室に嫁ぐわけでもないし、近衛家に必要とされてもいない。この家がどうなろうとどうでもいいのよ。でも、唯一の友人として、百合には不幸になってほしくない」
椿は濁りのない眼で李桜に向き合った。
外見の美しさだけでなく、その心の強さが彼女の美しさを唯一無二のものにしているのだと、李桜は改めて思う。
「だから百合姫を助けるために、あなたは帝の側室になることを受け入れたのですか」
椿は少し考えるように目を逸らしたが、すぐにその視線は一層強さを増して、李桜を捉えた。
「うーん……百合のことももちろん助けたかったけれど、私が助けたかったのは陰陽頭の方かもしれないわね」
「…………?」
「私はね、父上の傀儡のようになってしまった皐英様のことも救いたかったの」
「土御門皐英殿を、ですか」
「ええ。皐英様が土御門家の養子なのはご存じ? それを取り持ったのが近衛柿人——父上でね。皐英様の能力を高く買っていた父上は私が小さな頃からよくこの邸に彼を呼びつけていたわ。私もよくかわいがっていただいた。でも、陰陽頭になってから皐英様は変わってしまわれた……」
李桜はその時、初めて椿の瞳が曇る様子を見た。
伏せられた目元に長い睫毛が影を作る。
まるでその想いの深さを物語っているようだった。
「本当は人攫いに協力するような方ではないのよ。純粋に陰陽道に身を置かれていたのに、父上があの方を変えてしまった……元の皐英様に戻ってほしいの。これ以上、人の道を外れてほしくない」
「なぜ百合姫をこの家に連れてこようとしているのかご存じなのですね」
李桜が目を細めながら見据えると、椿は力強く頷いた。
「多分、百合は『輪廻の華』だから……」
「輪廻の華?」
「そうよ、百合はね、選ばれてしまったから」
「……選ばれてしまった、とはどういう意味ですか」
椿は首を横に振るだけで、しばらくふたりの間に静寂が訪れた。
李桜が見る限り言いたくない、という印象である。
結局それ以上、話の進展がなくなり李桜は近衛邸を後にするしかなかった。
李桜が近衛家の門を潜ろうとした時、後ろから誰かが追いかけてくる気配を感じ、振り返った。
すると息を切らせながら白髪交じりの初老の女中が走ってくるのが見える。
先刻、李桜を椿の元へ案内した女中だった。
「僕に何か用?」
「さ、西園寺様! 私のような者が差し出がましいのは重々承知で、無礼を押してお願いしたいことがございます」
深々と頭を下げる眼下の女中に李桜は冷たい視線を送り面倒そうに訊ねた。
「椿姫に関することなの?」
女中は頭を下げたまま、はい、とひと言だけ返事をした。
頭を上げない様子を見ただけでもその必死さは優に理解できた。
だた、身分による序列がすべての公家の世界にあって、使われる立場の者が使う立場の者に願い出るなどあり得ないことである。
「……他を当たってよ」
「いいじゃねぇか、李桜。話くらい聞いてやれよ……って月華なら言うだろうな」
女中の申し出を断ろうとしたところ、そのふたりのやり取りを見ていたらしい久我紫苑が声をかけてきた。
また面倒な奴が話をさらに面倒な方向へ持っていこうとしている、と李桜は内心思ったが、横槍を入れられ断り切れなくなってしまった。
紫苑に対して深くため息をつく。
「あんた、何でここにいるの」
「お前を迎えに来てやったんだ。まぁ、護衛とも言うな」
屈託なく笑う紫苑に悪気はなく、武術を会得している彼が護衛として役に立つことにも間違いはなかった。
李桜は再び小さく息をつくと軽く紫苑を睨みつけ、女中に向き直った。
「で、お願いって何なの」
「……椿姫様は、望んで帝の側室になられるわけではないのです」
「ああ、確かにそう言っていたけど。姫は帝と取引をしたとも言ってた。もう今さらどうしようもないんじゃないの」
「はい、ですが姫様が出された条件は『百合姫様を朝廷で保護する』ということ。保護できなければこの契約は成り立たないのではないですか」
女中の目はひどく曇っていて、その中には闇が広がっているようだった。
李桜は、女中の言わんとしていることを理解していたがそれを口にするは憚られ、女中の問いには答えなかった。
だが、紫苑は深く考えることもなく、怒りを露にして言った。
「何だか事情はよくわからねぇけど、あんた、百合姫が亡き者になればその契約とやらは成立しないって言ってんのか」
女中は顔を背け、口を閉ざした。
彼女の拳を強く握りしめる様子を見ても、その心苦しさは伝わってきた。
望んでいることではない、でも他に選択肢がない。
その良心の呵責に苛まれているのは明らかだ。
「紫苑。何であんたはいつもそうやって直球なんだよ……間違ってないけど」
「李桜にはそう聞こえなかったのか?」
「そう聞こえたよ。だから間違ってないって言ってるじゃないか」
李桜と紫苑が睨み合う様子を見て、女中は申し訳なさそうに口を開いた。
「大それたことを申している自覚はございます。ですが、わたくしはもう姫様のことを見ていられないのです。想いを寄せる方がおられるのに、正室ではなく側室として嫁がれるなど……」
女中は涙ながらにその場に崩れ落ちた。
李桜はその女中を見下ろしながら、唇をきつく結んだ。
李桜と紫苑は懇願する女中に明確な回答を出すことなくその場を離れた。
ふたり、肩を並べながら歩き出すと紫苑はその沈黙に耐え切れず、口を開いた。
「で、李桜。結局、どういう話だったんだ?」
「あんた、わけわからないで話に入ってこないでよね」
「事情はよくわからなかったけど、良くない話だってことは察しがつくぜ?」
「……鬼灯様に文を出したのはやはり椿姫だった。椿姫と百合姫は旧知の仲らしいんだ。百合姫を保護したいと思ってたのは、朝廷ではなく椿姫本人の希望だった。それを条件に帝の側室になることを受け入れたって」
「ああ、なるほど。あの女中の話はそういうことか」
「左大臣様が百合姫を必要としていて陰陽頭が百合姫を近衛邸に連れてこようとしているとも言ってた」
そう話しながら李桜はなぜ陰陽頭がそこまでして近衛家に従うのか理解できなかった。
椿の話からすれば、土御門皐英は人攫いをするような人物ではなかったと言う。
近衛柿人からの指示以外に何か目的があるのか。
「でも何で左大臣様はその百合姫を必要としてるんだ?」
「それがよくわからない……椿姫は『輪廻の華』だからって言っていたけど、さっぱり意味がわからなかったよ」
肩をすくめて見せた李桜に紫苑もただ首を傾げるだけだった。
「ねえ、紫苑。倒幕を目論んだ時に必要なものって何だろう」
「考えたこともねぇが……兵は必要だろうなぁ」
近衛邸に来た時には見事な秋晴れだったが、気がつくと不穏な雲が見る見るうちに立ち込めてきていた。
「公家は武家とは違って大きな兵力を持たない。そんなに簡単に兵を集められるもの?」
「隣国に応援を頼むとか……? あとは足りなきゃ、農民なんかも駆り出すかもな」
「農民? そんな寄せ集めで戦えるの」
「さぁ。でも強い権力があれば可能なんじゃないか? 人質を取るとか、洗脳するとか……頭数が揃えば武器を持たせて立たせておくだけでも役に立つ場合もあるかもな」
「洗脳、ね」
李桜は解せない様子で、暗雲が立ち込めてきた空を見上げた。
どこからともなく風に運ばれてきた分厚い雲が上空に広がっている。
誰も彼も、何を考えているのかさっぱりわからない。
「今夜は嵐になりそうだね……」
ぼんやりと空を眺めた李桜はぽつりと呟いた。




