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第2話 騒がしい書庫で

 鬼灯きとうからの命を引き受けた翌日のこと。

 月華つきはなは大倉御所の書庫で保護する百合ゆり姫について調べていた。

 それもこれも、鬼灯から引き受けた任務の内容が姫の名前しかわからないせいだった。

 年齢、容姿、奥州から近江へ行くことになった理由に至るまで何ひとつ情報がない。

 しかも奥州藤原氏ゆかりの姫とのことだったが、どの書物を調べても百合という名前は一切の記録がなかった。

(まるで存在自体を消されているかのようだな)

 奥州藤原氏と言えば、全盛期にはみやこの公家たちとも交流があったはず。

 月華は父である九条家当主もかつて奥州へ出向いた帰りの道中で大変な目に遭ったと家中が大騒ぎしたことをおぼろげに覚えていた。

 仮にかつて奥州と懇意にしていた九条家以外の摂家があったとして、その馴染の姫を保護するのになぜ六波羅へ依頼してきたのだろうか。

 こそこそせずに自分たちで出迎えに行けばいいだけのことではないのか。

(鬼灯様は一体どこまでの事情をご存じでこんな不可解な依頼を引き受けたのか……)

 月華がそんな疑問を抱いていたところ、騒がしく近づいている足音が聞こえてきた。

 裸足で板間を激しく打つ音がどんどん近づいてくる。

 彼はその足音の主が同じ鬼灯の臣下である早川蓮馬はやかわれんまだとわかって、ため息を深めた。

(蓮馬のやつ、ずいぶん耳が早いな)

 月華は蓮馬が自分の元にやってくるであろうことを予想していた。

 北条鬼灯という人は蓮馬をからかうことをひとつの趣味にしている。

 月華よりも5つ年下の年若い武士だが、月華とは違い、武家に生まれ幼少期から武士として生きることを疑問にも思わず育ったまっすぐな人間である。

 そんな真面目一徹な人間に、尾ひれをつけて事情を説明すればどうなるか——過度に心配するに決まっている。

 おそらく鬼灯は蓮馬に対し、今回の任務について多分に含みを持たせて伝えたに違いない。

 蓮馬が慌てて飛び出し月華に詰め寄る様子をどこかで見てほくそ笑んでいるのではないだろうか。

 月華はそんな意地の悪い上司を思い浮かべてうんざりした。

「月華様っ」

 書庫の扉を勢いよく開いた蓮馬は、藍色の着物の袖をぶんぶん振りながら足早に近づいてきた。

 白い袴の裾は泥だらけになっており、急いで馬を駆ってきたことがその身なりからも伺えた。

 大方、鬼灯の使いで外に出ていたのだろう。

 月華が書庫にいることを誰かから聞きつけて慌てて飛んできたのだろうことは、その様子からも十分に伺えた。

「蓮馬、袴の裾をそんなに汚して何を慌てているんだ」

 月華は手元の書物から目を離すことなく、蓮馬に答えた。

 もちろん手元の書物に有力な情報が書かれていたわけではない。

 ただ、蓮馬が何を言わんとしているのかわかっているために、あえて相手にしなかったのだった。

 少し癖のある黒髪を揺らしながら蓮馬は勢いよく月華の手から書物を取り上げた。

「月華様、書物なんか読んでいる場合ではありませんよ」

「何をそんなに騒いでいるんだ。ここは書庫なのだからそんなに騒がしくするものじゃない」

「これが黙っていられますか」

 幸い書庫の中には他に誰もいなかったが、お願いだから黙っていろ、と月華は心の中で呟いた。

 が、蓮馬が聞く耳を持っているはずはなかった。

「なぜ、おひとりで行かれるのですか」

「お前、鬼灯様から何と言われた?」

「月華様に重要な任務を与えた。行先は山賊が出るかもしれない近江の山奥で、しばらくは鎌倉に戻ってくることはできないかもしれない。月華様が不在の間、この俺に後を頼むとおっしゃいました」

 月華は再び深くため息をついた。

 間違ってはいないが、ずいぶんと尾ひれをつけて告げられたものだ。

 確かに山賊は出るかもしれないが、そんなに長らく鎌倉を空ける気もなかった。

 くだんの姫をとっとと保護して朝廷に受け渡せばすぐに鎌倉へ戻るつもりでいるし、鬼灯が期待しているような里帰りをするつもりもない。

 もう家を出てから4年も経過している。

 これまでろくに文すら送ることがなかった自分が、今さらどんな顔をして実家に顔を出せばいいというのだろうか。

 自分の都合で家を出た以上、父や九条家の力を借りるつもりは毛頭ないし、今後もそんなことはあり得ないだろう。

「山寺とはいえおひとりで行かれるのは危険です。山賊が出るやもしれないとのこと。せめて俺をお供に——」

 身を乗り出してくる蓮馬の肩を押し戻した月華は、取り上げられた書物を取り返すと棚に戻しながら告げた。

「鬼灯様から、俺がいない間のことを頼まれたのだろう? だったらおとなしく留守番していてもらおうか」

 月華は目の前に立ちはだかる蓮馬を押しのけて、書庫の出入り口の方へ進みながら言った。

「近江の山寺に匿われているという姫をひとり、保護するだけのことだ。難しいことはない。戦に行くわけでも、敵地に偵察に行くわけでもない。何の心配をすることがある?」

 つまりひとりで問題ない、と月華が続けようとしたが、振り向くと後を追ってきた蓮馬の瞳の奥には不満が浮かんでいた。

「ですが、何かあった時には誰が月華様をお助けするのですか!」

「何かある前提でものを考えるのはやめないか。そんなことでは何も行動できない」

「起こるかもしれない危険をあらかじめ想定しておくのは大事なことです」

「それは一理あるが、お前はただ一緒について来たいだけだろう?」

「うっ……」

 図星を突かれた蓮馬は、それ以上二の句が継げなかった。

「物見遊山で出かけるわけではないんだ。たまには留守番をして、大人しくしていることだ」

 兄のように慕う月華を想ってのことではあるが、その実、確かに長期間離れることに寂しさや不安を覚えているのは間違いない。

 押し黙る蓮馬に月華はそっと声をかける。

「蓮馬」

 俯いていた蓮馬は顔を上げた。

「助けがほしい時には文を出す。受け取ったら1番に駆けつけてくれないか」

 月華は不敵な笑みを残して再び背を向けた。

 そのまま書庫から出て行ってしまった月華を蓮馬は呆然と見つめていた。

 蓮馬は期待とは逆の言葉を向けられ、はっと我に返った彼はここが書庫であることも忘れ、遠ざかる男の背に向かって叫んだ。

「近江は遠いのですから、文をいただいてもすぐにはたどり着けませんよっ!」

 蓮馬は書庫の棚を強く叩き、まったく聞く耳を持たない月華に対し苛立ちを露にするのだった。

 月華は後ろ手に書庫の扉をゆっくりと閉めた。

 背中から蓮馬の叫び声が聞こえたが、聞こえないふりを決め込み、月華は廊下を歩き始めた。

 大倉御所の中では月華と同じような武士たちや、世話をする女中たちなどたくさんの者たちが働いている。

 少なからず武士の世界にも階級があり下の者が上の者に頭を下げる光景は公家の世界のそれと何ら変わらない。

 ただ、その階級は家柄によってではなく、手柄を立てた功績によってという一点を除いては。

 月華は幼い頃から生まれた家によって職業や将来の道筋が決められていることを快く思っていなかった。

 人の間に序列があることを好まず、嫌気がして家を飛び出した。

 あの世界に戻るのは絶対に嫌だ。

 できれば近づくことすら憚られる。

 しかし今回は恩を受けた親のような上司からの任務であるため、西へ向かわないわけにはいかなかった。

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