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第18話 想いが渦巻く朝に

 松島が気付け薬を買い求めた翌日、朝議に出席した九条時華くじょうときはなは朝堂院を後にした。

 朝議とは京都御所内にある朝堂院と呼ばれる場所に八省の大輔たいふや大臣たちが首を揃えて集まる定例会のことで、右大臣として当然、時華も毎回出廷している。

 この日の朝議で時華は、内容よりも終始、近衛柿人このえかきひとの様子が気になっていた。

 特に目立った動きは見せていなかったものの、数日前の松島との会話を思い出しながら、時華は朝堂院から停めてある牛車までの道のりを歩いていた。

 すると彼を呼び止める声が聞こえた。

「時華殿」

 声がした方へ振り向くと、優雅に歩いてくる旧友の姿が目に入る。

 腰まであろうかという長い髪を揺らしているその人物に、時華は足を止めた。

鬼灯きとう殿、そなたが出廷するとはめずらしいな」

「まあ、たまには朝議に出るのもよいかと思いまして」

「たまにはとは……六波羅探題ろくはらたんだいとは自由な役職のようだ」

「苦言は甘んじて受けましょう。ここは将軍の目も届かぬ遠い場所ゆえ」

 鬼灯ははにかみながら、日ごろの怠慢には目を瞑るよう時華に懇願した。

 ふたりは横並びになって再び歩き始める。

「こうして鬼灯殿と並んで歩いていると、昔を思い出す」

「あなたが鎌倉に滞在されていた頃のことですか? もうあれから10年になりますか」

「そうだな。まさか奥州からの帰路で夜盗に襲われ、幕府の者に助けられるとは夢にも思っておらなんだ」

 時華は当時のことを思い返した。

 10年ほど前、まだ奥州藤原氏が栄華を極めていた頃、交流のあった奥州へ赴いた帰り道、乗っていた牛車が夜盗に襲われた。

 供の者はみな夜盗に殺されてしまったが、そこへ偶然出くわした鬼灯に時華は助けられたのだった。

 鬼灯は幕府では絶大な力を持つ北条家の出身であり、当時はまだ幕府の要職には就いていなかったが、時華が公家であることを承知の上で鎌倉にしばらく滞在するのを世話してくれた。

「あの頃は毎晩、浴びるように酒を吞みましたね。あなたは底なしだから酒盛りの相手には骨が折れる」

 鬼灯は愉快そうに笑った。

 互いに年を取り、同じみやこにいても立場上、話をすることが少なくなった友人を懐かしく思い、時華は鬼灯に言った。

「鬼灯殿、この後、久しぶりに吞まないか」

 時華は、鬼灯が自分とときを合わせるように朝議に突然現れ、声をかけてきたことを偶然ではないのだろうと感じていた。

 鬼灯も断ることなく時華の誘いを受け、ふたりは牛車に乗り込むとその足で九条邸へ向かった。

 邸に到着すると時華は九条池の中島にある華蘭庵からんあんへ鬼灯を招き入れた。

 ほどなくして松島が酒を持って現れた。

 まだ日は高いが、並々と酒が注がれていく盃を眺め、鬼灯は久しぶりに高揚感を抱いていた。

 懐から1本の紐を取り出すと、慣れた手つきで鬼灯は長い髪を結わいでいく。

「ほう。そなたがそのように髪をまとめる姿を見るのは久しぶりだ」

「時華殿のような酒豪に付き合うには気合を入れませんと対等に呑めないでしょう」

「……かつて月華つきはなのことを頼んだ時も、そなたは私の深酒に付き合ってくれたな」

「そうでしたね。あの時は酔った勢いで言われていると思っていたので、翌日、あなたが本気だったとわかり驚愕したものですよ」

 しばらくそんな昔話に花を咲かせていたふたりだった。



 同じ頃、紅蓮寺ぐれんじくりやには朝餉あさげの支度をする百合ゆりの姿があった。

 鉄線てっせんが定期的に山を下りて仕入れてくる米を大事に焚き、自らの手で採取してきた山菜や薬草で副菜や汁物を作るのはすっかりお手の物だった。

 奥州の戦場で雪柊せっしゅうに拾われ、紅蓮寺にやって来た頃は料理などしたこともなかったが、鉄線に寺の精進料理を教わり、世話になっている恩返しにと始めたことが今では日課になっている。

 ひとりで煮炊きをしていると、掃除を終えた鉄線が慌ただしく厨へやって来た。

「百合様、私も手伝いますね」

「鉄線さん、ここは私ひとりでも大丈夫ですよ」

「ですが、月華様が来られてからというもの、いろいろお手伝いしてくださるので手が空いて仕方がありません」

「まあ、贅沢な悩み」

 はにかむ鉄線を百合も微笑ましく見守った。

 鉄線はかまどの火加減を確認しながら、百合に言った。

「昨日は月華様とお出かけされていたそうですね。どちらへ行かれたのですか」

「ここから1番近い町です。初めて行きましたが、ずいぶんといろいろな物がありますね」

「そうですね。あそこは東西南北の道が交差する中心にあるので、各地から物が集まるのだとか。私もあの町で米を仕入れてくるのですよ」

「そうですか」

 百合は昨日の町であったことを思い出す。

 月華のためにと反物を買い求めたところまではよかったが、京の陰陽師に出遭った時の月華を想い出すと今でも心がざわつく。

 普段は優しくてもやはり本業は武士なのだと思い知った。

 冷たく凍った表情で敵を見据える月華を見て、遠い過去を呼び起こされないはずはなかった。

 あの人も戦場で生きる人―。

 だが、そんな相手であっても惹かれずにはいられない。

 戦場で人の命を奪う職業であったとしても、日常では心優しくいつもそばに寄り添ってくれる。

 ひと月近く同じ屋根の下で暮らすうちに、百合はすっかり月華を目で追うようになってしまっていた。

 そんなことを考えながら葉物野菜を切っていると、鉄線が口を開いた。

「ところで百合様、月華様との逢瀬は楽しかったですか?」

 百合は手を止めて急に顔を上げる。

 こちらを見ながらにやにやとしている鉄線の様子に、徐々に恥ずかしさがこみ上げてきた百合は、どもりながら答えた。

「お、逢瀬なんて……そんな大層なことではありません」

 慌てた百合は包丁を振り回しながら必死で否定した。

「危ないですから刃物を振り回すのはおやめください!」

「ご、ごめんなさい……」

「せっかく初めておふたりでお出かけされたのに何もなかったのですか」

「な、何もって……反物を買いに行っただけですし。確かに月華様のご実家の家臣の方にはばったりお会いしました。茶屋に行っておふたりがお話しされている間にあの方と出逢ってしまって——」

 百合は鉄線に皐英こうえいと月華の間に起こったことの顛末を細かに説明した。

 互いに朝餉の準備中だったため、手を止めることなく作業を続けながら。

 月華が皐英に斬りかかった話を聞いた鉄線は当然のことのように言った。

「それって嫉妬ですよね?」

 その言葉に動揺した百合は包丁を滑らせ、指先をわずかに切ってしまった。

「——っ」

 包丁を置き、切れたところを見ると左の人差し指の先にわずかに血が滲んでいる。

「大丈夫ですか、百合様!?」

 心配する鉄線の声はまるで遠くにいるかのように小さく聞こえた。

 切れた指先を見つめながら、冷静に考えてみる。

 もし、月華の行動が嫉妬心からだったとするなら、それは百合に対して少しでも心が向いているということを証明していることになる。

(あれはおふたりの間に因縁があって皐英様を斬ろうとしたのではなく、皐英様が私の手に口づけされたことを許せなかったからだと言うの……!? だからあんなに怒っていらしたの?)

 百合は考えれば考えるほど鼓動が速くなるのを感じた。

 よく考えてみれば、月華に抱き締められたように思うし、自分もその背中に手を回したように思う。

 しかし、昨日のことはよく覚えていない。

 どうやって帰って来たのかさえ思い出せなかった。

(月華様が抱きしめてくださったのは、不安を抱えていた私を安心させようとしてくださっただけよ……。深い意味は……ないはずだわ)

 百合は顔が熱を帯びて赤くなっていくのを感じた。

 その頃、月華は朝餉の準備を手伝うからと途中で離脱した鉄線に代わって掃除道具を受け取り、廊下を掃き清めていた。

 板間の廊下の上で箒をゆっくりと左右に動かしながら月華の中に、ぼんやりと昨日のことが思い浮かんだ。

 思わず百合のことを抱きしめてしまったが、冷静に考えれば恋仲でもない相手に対し道端で何と大胆な行動をとってしまったことか。

 しかし百合も嫌がるどころか受け入れてくれていたようだった。

 なぜ百合が嫌がらなかったのか月華にはさっぱり見当もつかなかったが、今思い返しても彼女のぬくもりが思い出されるようで、月華はじっと箒を握る自分の手を見つめた。

 思い出しただけで鼓動が速まり全身が熱くなるような感覚に支配される。

 昨日はどうやって寺へ戻ってきたのかも思い出せない。

 月華はかぶりを振って昨日のことを忘れることにした。

 邪念を払うようにしばらく掃除に専念していると、鼻腔をくすぐる朝餉のいい香りがしてきてそれに導かれるように月華は厨へ向かった。

「朝からいい香りだな……ん? 鉄線、何を騒いでいるんだ」

 月華が厨にやって来ると、鉄線がひとり、慌てふためいていた。

 彼とは対照的に百合はじっと自分の指先を見つめている。

 百合の左の指先が少し赤くなっているのを見て、状況を察した月華は急いで厨に入り込むと百合の手を掴んだ。

「百合殿、大丈夫か」

 月華は強引にその指先を覗き込んだ。

 血はもう止まっていて、傷も浅いようだった。

 心配のあまり何も考えずに百合の手を掴んだが、ふと百合を見ると赤い顔をして月華を見上げている。

「だ、だ、大丈夫です!」

 照れ隠しに月華の手を振り払うと百合は厨から駆け出していった。

 月華にはなぜ百合がこの場を逃げ出すように駆け出していったのか、皆目見当がつかなかった。

 そこへ騒ぎを聞きつけた住職の雪柊が髪のない頭を掻きながら現れた。

 風のごとく目の前を駆け抜けて行った百合と、厨の中にいるふたりとを交互に見やる。

「何かあったのかい」

 雪柊の問いに首を傾げながら答えに困っている月華に、鉄線はあからさまにため息をついた。

「鈍い方ですね、月華様は」

 月華には鉄線の言っている意味がまったく分かっていなかった。

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