第17話 明かさない恋情
月華は松島の話を途中で遮り、刀を抜きながら店を出ると屋外の座席に腰掛けていた百合の向かいに膝をつく男の首へ刃を充てた。
「その首、刎ねられたくなければ、すぐにこの場を立ち去るがいい」
その男は、忘れるはずもない。
自分を妙な陰陽術で崖下へ追いやった陰陽師そのものであった。
百合を狙っているのか、それとも月華の息の根を止めようとやって来たのか。
いずれにしても手放しで見守れる状況ではなかった。
ゆっくりと顔を上げた皐英は、口の端を歪めながら不気味に笑った。
「無事生き延びたようだな。悪運の強いやつだ」
「お前、百合殿に何をしていた」
「何とは、これのことか?」
再び皐英が百合の手に口づけようとすると、月華は目の色を変え、ためらうこともなく刀を振り上げ、その勢いのまま振り下ろした。
寸でのところで切っ先を避けた皐英は後ろに飛び退く。
地面に切っ先が突き刺さる様子を目前にして、皐英は背中に冷や汗が滴るのを感じた。
「今の俺はすこぶる機嫌が悪い。次は外さない」
刀を構え直した月華は、百合が見たことがないほど恐ろしく冷たい表情をしていた。
店の中から松島も事態を察して止めにかかろうとする。
「月華様、おやめください! 周りの者が何事かと怯えております」
「松島、邪魔をするな。俺はこの男に借りがある」
松島の言う通り、店内の客だけでなく辺りを通りかかった者たちまで集まり始め、気がつくと付近は騒然としていた。
「月華様!」
百合は怯えながらも月華の袖を引き、何とか仲裁しようとしていた。
「百合殿は危ないから下がっていろ」
月華は百合を背中にかばうように立ちはだかる。
「やれやれ、血の気の多い武士はこれだから嫌いなのだ。私はもう行かねばならぬので失礼する。野次馬も増えてきたことだしな」
「逃げるのか」
「何とでも言うがいい。お前と対峙する舞台はここではないというだけだ」
皐英は一瞬、百合に目をやると何も告げることなく背を向けてその場を立ち去った。
月華はその背中を追いかけようとしたが、百合に袖を引かれたままで動くことができなかった。
月華を見据える百合は困惑しているようだった。
そんな百合の様子を不憫に思い、松島は刀を握る月華を制して言った。
「どうされたのです、月華様。あなた様らしくもない。冷静におなりくださいませ」
自分でも感情の制御が効かなくなっていることを月華もわかっていた。
皐英が百合の手に口づけていた映像が何度も繰り返し浮かんできて、苛立ちが募るばかりだった。
冷静さを取り戻そうと、静かに刀を鞘へ戻すと月華は松島へ向き直った。
「松島、話の途中で悪いが俺たちはここで失礼する。俺は今、近江の山奥にある紅蓮寺にいる。話の続きはまたの機会にしよう」
月華は乱暴に百合の手首を掴み、松島に百合を紹介することなくその場を立ち去った。
名残惜しそうに松島へ視線を残す百合だったが、半ば強引に引っ張られながら月華の後を続くしかなかった。
松島が呆然とふたりを見送るうちに集まっていた野次馬たちも方々へ散っていった。
紅蓮寺に急ぎ帰るため、月華は百合の歩調も考えず先を急いだ。
松島は倒幕を目論んでいるという噂のある近衛家に、夜な夜な陰陽師が出入りしていると言っていた。
それは土御門皐英のことなのかもしれない。
雪柊は百合を必要としている相手は戦の道具として必要としているとほのめかしていた。
皐英と初めて遇ったひと月前の夜。
皐英は百合を求めて紅蓮寺に来ていたのかもしれない。
近衛家にとって百合は戦の道具として必要で、手元に置きたいと考えているとしたら……それを皐英に依頼したということか。
では、鬼灯に百合の保護を依頼してきた摂家の人間というのは一体誰なのか。
月華はますます混乱を極めた。
だが、いずれにしても狙われているのは百合であり、紅蓮寺に留め置くことが今、百合にとって1番安全であることは間違いない。
自分が万全であれば百合を守りきれる自信はあるが、今はまだ病み上がりの身であり、戦い抜けるほど回復しているわけではなかった。
ひと言も口を開かなかった月華に対して、百合は不安げに口を開いた。
「月華様……怒っているのですか? 私が……その、お止めしたから」
馬を繋いでいた町の入口までたどり着いた月華はその足をぴたりと止めた。
1歩前を歩く月華に倣って百合も足を止めた。
強く握られた手首に何か怒りのようなものを感じた百合は、黙って彼の背中を見つめた。
「いや、怒ってなどいない」
そう言いながらも、月華は百合に顔を向けることはなかった。
百合から見る月華の背中はどこか冷たく感じて、いつもの月華らしくない。
こんなことは初めてだった。
いつでも気遣い、優しく支えてくれるような月華の存在に、百合はこれまで何度となく癒されてきた。
時折、小さなことでもめるようなことがあっても最後にはいつも月華が折れて百合を笑わせた。
そんな月華だからこそ百合は惹かれた。
今はその彼の背中がなぜかとても遠く感じる。
「百合殿、あいつと何を話していたんだ」
月華は冷たく言い放った。
怒ってはいないと言いながら、その責めるような口調に俯いていた百合は静かに答えた。
「……世間話です」
「そうか……。世間話をしていて、男が貴女の手に口づけるのか」
百合は怒っていないと言いながら責める言葉を吐き捨てる月華の考えていることがわからなかった。
ただ、事実を告げることしかできない。
百合は消えゆくように答えた。
「……陰陽師のお仕事について話していただけですが、あの方が急に、その……私の手を取って……」
百合が目を逸らす一方で、月華は憤りを感じていた。
彼女を責めるのはお門違いだと月華もわかっている。
だがどうしてもこの憤りを収めることができず、八つ当たりだとわかっていながら口にしてしまった。
世間話をしていただけの相手が跪いて百合の手に口づけたのだから、好意があってのことではないのか。
百合の煮え切らない様子を背中に感じた月華は振り返った。
掴んでいた百合の手首を一層強く握り、自分の方へ引き寄せる。
月華の中には何とも言えない黒い感情が渦巻き、どう言葉にしていいかわからなかった。
「月華様、何だが変です。いつもの月華様じゃないみたい……」
「なぜ、止めたんだ」
「……月華様には人を斬ってほしくないのです。あの方ではなく、月華様を守りたかった」
百合は気まずそうに視線を逸らした。
「あの方との間に何か因縁のようなものがおありの様子でしたが、あの場で斬ってしまえば周りの人たちは、月華様が理由もなく陰陽師を斬ったようにしか見えなかったでしょう。皐英様も抵抗されませんでしたし……。何を苛立っておられるのかわかりませんが、斬ってしまえば皐英様だけでなく、あなたもただでは済まない状況だったのではありませんか」
今にもあふれ出そうな涙を目尻にため、百合は必死に訴えていた。
どこか怯えた様子の百合と目が合った瞬間、月華ははっと我に返った。
松島が言ったとおりだ。
冷静さを失い、いつもの自分らしくない。
自分の命を危機にさらした敵であるからということではなく、あの男が百合に手を出したことが、どうしても許せなかったのだ。
月華の鼓動は一層速くなった。
(そうか。俺はあの男に嫉妬しているのか……)
月華の着物を仕立てるために楽しそうに反物を選ぶ百合も、必死に訴えながら涙をこらえる百合も、すべてが月華にとって大切で誰にも奪われたくない存在であると自覚した時、月華はどうしようもなく百合を愛しく感じた。
皐英を斬ろうとしたのは、自分を貶めようとした相手だからではなく、百合を奪われるのではないかという嫉妬心からだったということか。
そう理解した時、月華は百合を抱きしめずにはいられなかった。
「……百合殿の言うとおりだな。俺が間違っていた」
嫉妬に狂い、自分を見失って道を踏み外しそうになっていたところを、百合と松島が止めてくれた。
その感謝の気持ちで満たされると、月華から自然と笑みがこぼれた。
自分の頬に触れる百合の艶やかな髪や百合の匂いのすべてが愛しく、誰にも奪われたくないと思う。
月華は百合をずっと自分の腕の中に閉じ込めておきたい衝動に駆られていた。
「……では、次に皐英様とお会いになった時には、急に刀を抜いたりなさいませんね?」
百合は月華の腕の中に閉じ込められたことを嫌がることもなく、むしろくすくすと笑いながら、その腕をそっと月華の背中へ回した。
月華はより一層百合との距離が縮まり、体が密着するのを感じて目元を赤く染めていた。
「それは約束できないな」
照れ隠しにぶっきらぼうに答えると、百合は不思議そうに言った。
「なぜですか?」
「それは言えない」
皐英に嫉妬心を抱くほど百合のことを想っているせいで次に会った時は自分を制御できないかもしれない、とは恥ずかしくて月華は口が裂けても言えなかった。
一方百合は先刻までの冷酷さが消え、いつもの月華に戻ったことに安堵した。
なぜあんなに怒りを露にしていたのかはわからなかったが、月華の腕に包まれていることが心地よくそれまでのことはどうでもよくなっていた。
自然と月華の背中へ両腕を回しながらも、百合は早鐘の打つ自分の鼓動が彼に伝わってしまいはしないかと心配していた。
「……貴女は少し無防備すぎるな。だからあんな男に付け入られるんだ」
不満を吐き出した月華に対し、百合はさらに笑いを深めて言った。
「大丈夫です。百合は月華様しか見ておりませんから」
百合は、月華と夫婦に間違われて密かに喜んでしまうほどに、気がつけば月華のことを想っていた。
「? それはどういう意味だ」
「それは言えません」
百合は素直に想いの丈を伝えたつもりだったが、月華には届いていないようだった。
だが、百合はそれでよかった。
今この刹那、幸せを感じられただけで十分だと内心は思っている。
自分の存在は争いの火種になる。
これ以上、もう誰にも傷ついてほしくない。
深く関わってはいけない。
好きだからこそ、この人をこれ以上、私の運命に巻き込んではいけない。
百合は月華の優しさに包まれながら、そんなことを思っていた。




