第13話 華蘭庵での密談
摂家の邸宅の多くは京都御所の近くにある。
御所の南西に大きく居を構える九条邸には巨大な敷地の中に建物だけでなく九条池と呼ばれる大きな池があり、その池の中島に建てられた茶室は数年前に突如、九条家当主が建築させたもので華蘭庵と呼ばれていた。
華蘭庵へは東西の門廊から続く回廊によって繋がれるように改築されていた。
その敷地の広さや建物の豪快さは九条家の権力を象徴しているかのようだった。
九条悠蘭は、久しぶりに邸へ帰ってきていた。
さほど遠くもない陰陽寮と九条家邸宅ではあるものの、悠蘭の中ではとても距離を感じる存在であった。
それは陰陽師として朝廷に仕える自分を九条家当主が認めていないとわかっていたからである。
劣等感を感じ、それでも自分の生きる道をやっと見つけて歩み始めていたのに、悠蘭は再び暗い洞窟の中を彷徨っているような心地がしていた。
悠蘭は近江の山奥で月華に再開した日のことを思い出していた。
九条池を囲う回廊にしゃがみ込み、月明りを映す水面を呆然と見つめる。
池は強風で波打ち、悠蘭の迷いを反映するかのように、その姿を歪めて映した。
(兄上はあの後、どうされたのか……)
悠蘭の頭の中から、差し伸べた手が取られることなく崖下へ滑り落ちていく兄の姿が離れない。
結局、自分の存在が常に月華を不幸にしているように思えてならない。
月華が元服してすぐに家を出た時もそうだった。
口にはしなかったが、月華と常に比較されて悠蘭が辟易していることを兄として気がついていたに違いない。
だからこそ、自分のわがままで九条家を離れるのだと公言して出て行った。
公言したのは、その責めを悠蘭に追わせないためだろうと幼心にも理解していた。
確かに月華がいなくなったことで比較されることはなくなったが、同時に自分が追い出したも同然だという罪悪感に見舞われた。
(あの時と同じだな。結局、俺はいつもこの九条家のお荷物なのかな)
そんなことをひとり考えていると、中島の華蘭庵から話し声が聞こえてきた。
また、父がひとりで物思いにふけっているのだろうと、明かりがついているのを見ても気にも留めていなかったが、どうやらひとりではないらしい。
悠蘭は静かに建物へと近づき、話し声に耳を傾けた。
木枯らしのような強い風が吹く夜、行燈に薄暗い明かりの灯る茶室でふたりの男は向かい合っていた。
茶を点てているのは長年、九条家に仕える家臣の松島だ。
松島は朝廷の官吏ではないが、九条家の重鎮と恐れられ、文武両道で人徳者である彼を、どの公家も家臣として欲しがるほどの人材だった。
年のころは40を超えているが、まったく衰えた様子はない。
「最近、どうやら左大臣殿が怪しい動きをしているとの噂が……」
優雅な手つきで松島は主人へと茶碗を差し出した。
主人は目の前に出された茶碗をおもむろに持ち上げると、静かに茶をすすった。
松島と同世代でありながら、その若さと美しさは若い頃とほとんど変わっていない。
赤茶色の髪をまとめ上げ、朝服をまとえば、朝廷ではその名を知らない者はいないほどの百官の長のひとり、右大臣がそこに鎮座している。
「柿人が?」
九条家当主——九条時華は松島の言葉に怪訝な顔を向けながら言った。
「はい。近衛家に夜な夜な陰陽師が出入りしているとも」
「まさか悠蘭ではなかろうな」
「いえ、悠蘭様ではないようです。身なりの様子からすると陰陽頭ではないかと」
「……土御門か」
窓から吹き込んできた風は行燈の明かりを怪しく揺らした。
「しかし……近衛家は陰陽師を巻き込んで、何をしようとしているのだ」
「詳細はわかっておりませぬ」
時華は何かよからぬことが起こりそうな悪い予感を取り払い落ち着こうと、開けられている障子に向かって立ち上がった。
冷たい夜風が頭を冷やしてくれる。
そんな時華の様子を横目に、松島は片付けながら言った。
「ただ、ひとつ気になる情報がございます」
「なんだ」
「近衛家は倒幕を目論んでいるのではないかと一部の官吏の方々が噂しているようです」
「何だと? 近衛柿人め、気でも触れたか。ただでさえ六波羅に監視されておるというのに、この上まだ騒ぎを起こそうというのか」
「あくまで噂でございます」
「……噂とはいえ、火のないところに煙は立たぬ。その話、捨て置けぬな。こんな時に月華がおれば―」
時華は自分で言いながら、はっと言葉を呑み込み、二の句を継ぐことはなかった。
それを聞いた松島はぴたりと作業の手を止め、主人の様子をまじまじと見つめる。
長年その名を口にすることがなかった主人の様子を不審に思ったのである。
「時華様、まさか月華様の消息をご存じなのですか?」
「…………」
「時華様。月華様がここを出られてからもう4年になりましょうか。私は九条家にお仕えして20年以上になりますがあんなに聡明な方は、他にお会いしたことがありません。時華様の跡をお継ぎになるのはあの方しかおられぬと……九条家の存続には、月華様の存在が欠かせないと存じます。消息をご存じなのでしたらどうかご子息を呼び戻してくださいませ」
松島は額を畳にこすりつけ、九条家当主に懇願した。
月華という存在は、松島にとっても生まれた時から世話をしてきた息子のような存在である。
出奔したままというのは受け入れがたい現実だった。
「松島」
「…………」
「顔を上げろ」
目の前で頭を深く下げる松島を見ていられなくなった時華は、深く息を吐きその重い口を開いた。
「あやつは……月華は信頼する武家に預けたのだ。月華が久我家ゆかりの山寺に身を寄せたことは知っていた。だが、強制的に連れ戻したところであの時の月華は朝廷では使い物にならなかっただろう。使い物にならないのであれば、いっそのこと使えるようにしてしまえと思ってな。北条鬼灯殿に預けたのだ」
松島は目を見開いて言った。
「まさか、あの六波羅の御仁に託したのですか」
「ああ。あの時は鬼灯殿がまさか我々の監視役として京に来るとは知らなかった。不可思議なことだが我々とあの男の間には何かの縁があるのだろう。昔、一時鎌倉で世話になったことがあってな。妙な男だが、嘘がない男なのだ」
「……して、月華様は今どちらにおられるのです?」
「鎌倉におるのだろう。まだ、呼び戻す時期ではないと思っている。しかるべき時がくれば呼び戻すつもりだ。心配するな——」
そう言いながら、時華は胸を押さえ片膝をついた。
慌てて立ち上がると松島は主人の体を支える。
大事ない、と時華は煩わしがったが、松島は近年になって時々こうして苦しそうに胸を押さえる主人の姿を見てきた。
何かあってからでは九条家の一大事となる。
家臣としては、やはり一刻も早く月華を呼び戻すべきではないかと、松島は強く思っていた。
「時華様、月華様をすぐに呼び戻せないのであればせめて悠蘭様に代理をお任せになっては……」
「いや、あれはだめだ。悠蘭は他人の気持ちを理解する術を身に着けておらぬ。おまけに陰陽師などという職に就きおって」
「…………」
「もしも近衛家と関わる所業に悠蘭も1枚噛んでいるのだとしたら、私は悠蘭を許すことができぬかもしれぬ」
凄みのあるその言葉から、松島は主人が本気であることを悟り、ただ固唾を呑むだけだった。
九条池のほとりで父、時華と家臣である松島の会話を一言一句逃さず聞いていた悠蘭はその場に崩れ落ちるように膝をついた。
月華は崖から落ちて死んだかもしれないことを、まだ九条家の誰も知らない。
その上、陰陽師である自分をよく思っていない父は、やはり自分を必要としていない。
その事実を突きつけられ、悠蘭はただ愕然とするしなかった。
おまけに皐英ははっきりと明かしてくれていないが、近衛家からの依頼で何かをしようとしていると考えると、時華の言葉が頭をよぎる。
自分の知らないところで一体何が起こっているのか。
悠蘭は不安な夜にひとり、呆然と池のほとりに佇んでいた。




