第1話 気の進まない任務
静寂に包まれ、夜も更けた頃。
辺りは杉林が続くばかりで、鳥や虫の鳴き声しか聞こえない。
そんな中、九条月華は月明りを頼りに、草をかき分けて獣道のような道なき道を進んでいた。
赤茶色の肩にかかるほど長い髪は後ろでひとつにまとめられ、刀を腰に差しただけ。
武士とは思えない軽装の月華は、とある任務のために近江の山奥に来ていた。
途中までは馬を連れていたが、この先は馬で進むことはできない険しい道だと知っていた彼は遠い記憶を辿りながら目的地を目指す。
月華は鎌倉幕府で武士として働いているが、主君が六波羅探題の任にあるため、戦がない時は朝廷から依頼された面倒ごとを片付ける雑用係のような仕事をすることが多かった。
もとは摂家5家のひとつ、九条家の跡取りなのだがそのしがらみから抜け出すために縁を辿って京を離れ、今は鎌倉に身を置いている。
「確かこの辺りだったと思うが……4年ぶりか。まさか再びこの地に来ることになろうとは」
月華はちょうど10日前、鎌倉でのことを思い返していた。
夏も終わり長月の初めの、秋を告げる涼しい風が頬を撫でる黄昏時——月華は長い回廊を歩いていた。
茜色に染まる中庭の池を囲うように作られた回廊からの景色は大倉御所の中でも最も美しいとされる場所だった。
寝殿造りの豪華な構造は武士のための仕事場としてはいささか派手な印象もあるが、鎌倉幕府の中枢であり、将軍の邸宅でもあるため、威厳を示すためにはちょうどいいとされている。
確かに、贅を尽くす公家たちに対抗するにはこういった威厳も必要なのかもしれない。
月華は、自分の仕事場としてよく訪れるこの御所を京にある九条家の邸宅と重ねて眺めていた。
特にこの中庭を囲う回廊をいつも懐かしく感じている。
しばらく回廊を進んでいると、前方に目的の人物を見つけた。
腰に届くほど長く美しい髪をまとめるでもなく風になびかせ、すれ違う女中たちが2度は振り返るという美貌の持ち主は、その美しい所作で池の鯉に餌を与えていた。
「鬼灯様。京からお戻りになるのでしたら事前に文をいただけませんか。あなたはいつも急すぎるんです。だいたい——」
謎の美青年——北条鬼灯は不服を申し立てる月華の不満を制するように不気味な笑みを向けた。
月華は初めて会った時からまったく変わらない容姿を久しぶりに眺めながら、その年齢不詳な主君をある種、化け物じみているように感じていた。
自分よりも10は年上のはずだから、年の頃は30を超えているはずだが、若かりし頃とまったく変わっていない。
「何だ、月華。私が鎌倉に戻ると都合が悪いのか」
「いえ、そういうわけでは……」
(文で済むところをわざわざ指示を出すために鎌倉に戻ってきたのだろうか。よほどの面倒ごとに違いないな)
月華はどうせその面倒を押し付けに来たのだろうと、半分諦めていた。
鬼灯は六波羅探題の任にあり、日ごろは幕府の命を受け京に常駐している。
六波羅探題は、幕府が朝廷を監視するために置いている役職であるが、同時に朝廷との間を取り持つ役割も担っている。
朝廷から幕府に対する面倒な依頼を鬼灯が窓口として引き受け、鎌倉にいる臣下の月華に丸投げするというのは、よくあることだった。
鬼灯は面倒ごとが嫌いで大雑把な性格であることは月華もよく理解していた。
鬼灯の本業は武将であり、戦に出れば右に出る者はいないとまで言われている。
ひとたび刀を握れば、彼の後ろには死体の山が築かれる。
その姿、まるで鬼神のごとくと水面下で囁かれているのは幕府内では有名な話だ。
怒らせると死の淵を見ることになることを知っている月華は絶対に逆らうことができないのだった。
「ところで月華」
優雅な動きで向き合った鬼灯に対し、月華は自然とその場に跪いた。
「まったく京に寄りつかないな」
「京に用事などありませんから」
「お前の実家は京にあるだろう? たまには里帰りしたらどうだ」
「今さら九条家に顔を出すつもりはありませんよ」
「お前はそう思っていても周りのみなはそうではないかもしれぬ。我らはひとたび戦が起これば、命を懸けて戦いに赴かねばならない。未来の約束をできるほど安泰の時を過ごしているわけではないのだから、会える時に会っておかねば2度と会えなくなるかもしれぬ、そうは思わないか」
「…………」
月華は京にいる家族や友人たちの顔を浮かべた。
高い官職にあり、九条家のことしか考えていない父、いつも自分と比べられてかわいそうな弟、自分のことを常に気遣ってくれていた家臣、毒を吐く冷酷な幼馴染に、暑苦しいほどの情熱を持った友人——確かに鎌倉に来てから4年になるが、1度も京に帰ったことはなかった。
友人たちも京を遠く離れ、鎌倉にいる自分の身を案じていることは伝え聞いている。
だが、逃げるように鎌倉に来た以上、何かのきっかけがないと顔を出すことができないのもまたしかりだった。
鬼灯はそんな俯く月華に言った。
「久しぶりに京の近くまで行ってみないか」
「は? それはどういう……」
鬼灯の言葉に、月華は俯いていた顔を上げる。
(この人、また何を企んでいるんだ)
いつものことながら急に鎌倉に戻ってきたかと思ったら突然呼び出され、何を言い出すのか——そう思いながら怪訝な表情をする月華に鬼灯は続けた。
「お前にひとつやってもらいたいことがある。引き受けてくれるな」
鬼灯の口元は笑っているが目は笑っておらず、それがかえって不気味だった。
だが、内容によっては引き受けたくないものもある。
月華は一応の抵抗を見せることにした。
「それは内容にもよります」
「お前に選択権はない。黙って引き受けるより他に道はないぞ?」
月華が探るように見つめ返しながら返事をせずにいると、ふたりの間にしばらくの沈黙が訪れた。
すると鬼灯は珍しくため息をつきながら、降参とばかりに両手を軽く上げておどけて見せた。
「わかった、私の負けだ——実は、ある摂家から内々に依頼があった」
「摂家?」
「安心しなさい、九条家ではない」
月華は一瞬身を固くしたが鬼灯の言葉を聞き、胸を撫でおろした。
鬼灯は茜色に染まる池の遠くを見ながら、再び鯉に餌を撒き始める。
「かつて奥州で栄えた藤原家ゆかりの姫に関わることだ」
「奥州……ですか?」
「お前も私とともに加わった先の奥州征伐で、将軍に滅ぼされた藤原家ゆかりの姫だそうだ」
月華はかつてあった奥州での戦を思い浮かべた。
まだ、武士になったばかりの頃に右も左もわからず駆り出された戦で、月華は鬼神のごとく死体の山を築く鬼灯の背中を見た。
「あの戦で落ち延びた姫が近江の山寺に匿われている。その姫を朝廷で保護したいそうだ」
「近江の山寺——ってまさか」
「そうだ。お前がかつて修業した紅蓮寺のことだ。お前の任務は紅蓮寺へ行ってその姫を朝廷に送り届けること。簡単な任務だろう」
(この人、俺を京に引きずり出すための口実にこの案件を引き受けたんじゃないのか)
月華は鬼灯の真意を探ろうとその顔をじっと睨みつけたが、引き受ける他に選択肢がないことを悟ると小さく息を吐いた。
「わかりました。で、その姫というのは」
「名は百合姫というらしい。詳しいことは知らぬ。どういう容姿かも聞いていない」
「なぜ肝心なことを確認していないんですか、あなたは」
「いいではないか。美人かもしれぬぞ。いずれにしても紅蓮寺に行けばすべてわかることだ。一応、住職の雪柊には文を出しておく。雪柊はお前の師匠である前にこの私の竹馬の友だ。とにかく準備を整えて紅蓮寺に向かうことだ」
鬼灯は鯉に与えていた手持ちの餌がなくなり、跪く月華を見下ろした。
「月華、わかったな?」
月華は居住まいを正して答える。
「はい……。3日の後、鎌倉を立ち近江の紅蓮寺にて百合姫を保護。無事朝廷に送り届け、鎌倉に戻ります」
「頼んだぞ……ああ、そうそう。私はひと月ほど鎌倉に滞在することにした。お前が任務を終えて鎌倉に戻るのと入れ違いになるやもしれぬな」
ひらひらとだらしなく手を振りながら立ち去る鬼灯の後姿を月華は複雑な気持ちで見送った。
この物語に登場する地名や人物名などは、架空のものであり実在するものとは一切関係ありません。