1話 悪魔の薬
透明なケースに入った1匹の灰色のハツカネズミ。
勿論ネズミ自体は生きた本物だ。
そのネズミに白衣を着た男がある薬を注射した。
この薬はレイの父親である勉が開発した物で「PW」と名付けられた。
PWが何の略かは勉とその関係者しか分からない。
すると、先ほどまで灰色だったネズミが瞬く間に真っ白へと変わった。
先天性白皮症いえば、その印象を受けるほどに。
色を変える程度だけならともかく、その薬には他にも恐ろしい作用が隠されていた。
しばらく時間が経つと、薬を投与されたネズミが、もがくように苦しみ出す。
細胞組織による拒絶反応が起こったのだ。
やがてネズミは、体中の皮膚が引き裂かれるように破れ、全身から出血、ケースの底を真っ赤に染めた。
――シットアップベンチに座る野々原がそう語った。
野々原の隣に座って話を聞いた武は、顔から血の気が引いたように真っ青になる。
そんな恐ろしい物の存在を知ったこともそうだが、もしそれが自分に投与されたとなったら、生きた心地がしない。
「どうしてそんな恐ろしい物をレイの親父さんが作ったんですか?」
「本来は整形目的で研究されていたんです。肌の色にコンプレックスを持つ方も居りますので、その手助けになればと……」
「あぁー……」
研究していたことが、結果的に悪魔を生んでしまったということだろう。
だが、野々原の話を聞いて、武には1つ気になることがあった。
「――でもそれなら、レイはどうして今も生きていられるんですか?」
「勉様は、万が一を考え解除薬の開発も進めていました――ですが……」
「未完成なんですね」
「はい、一時的に拒絶反応だけを抑える程度の安定剤にしかならなかったのです。深刻に考えた勉様は、PWの研究を止めました」
「……いつもの注射がそうか……、でも、どうやって黒富士が研究の事を?」
「勉様の部下の1人が黒富士組に関係していたようです。そこから……」
「なるほど……だけど失敗した研究をどうして黒富士が欲しがったんですか?」
それだけが分からない。
成功しているなら分かるが、失敗した研究に何の価値があるのだろうか。
「恐らく相手を思い通りに操る手段に使えると考えたのでしょう。……安定剤がなければ死んでしまいます」
「捕まっても、ほっておけば自然と口封じか……」
まさに悪党が欲しがるような夢の薬だ。
確かに黒富士なら喉から手が出るほどの代物だろう。
「勉様は最後まで黒富士に抵抗しました。ですが、お嬢様とクレア様――お嬢様のお母上を人質に取られてしまい、仕方なく薬のデータとサンプルを渡したのです。その時に黒富士が勉様を……」
(クソが……)
人間のクズとはまさに黒富士みたいな奴――いや、人間という言葉を使うこと自体が生易しいとも思えてくる。
「それからどうなったんですか?」
野々原は、その後のことを語り出した。
〇
およそ5年前、真夜中のとある倉庫街――
1台の黒塗りのワゴン車が倉庫の中で止まっていた。
ワゴン車の側には2人の組員が退屈そうに立っている。
すると、タイヤが軋む音が外から聞こえた。
車が急停車したようだ。
組員の1人が「なんだ?」と言って倉庫の外へ出た。
倉庫の外には1台の車が止まっていた。
黒いデロリアン。改造前のダークスピーダーだ。
運転席のドアが上へ向かって開いており、それだけでも注目の的になるだろう。
組員の目はダークスピーダーに釘付けになっていると、突然組員の全身電気が走り、意識が消えた。
電気の正体はスタンガン、そのスタンガンの持ち主が野々原だ。
野々原はレイたちと連絡が取れなくなったことに危機感を覚え、レイを追いかけてこの倉庫街に来たのだ。
勉の依頼でレイには普段からGPS付きのペンダントを着けさせていたので、それを頼りに、何とか捜し出したのだ。
野々原は自作のスタンガン機能付きのトンファーを手に倉庫のドアをノックした。
やがて、「なんだ?」という返事と共にもう1人の組員がドアを開けた。
野々原は透かさずトンファーに付いている電極部分を組員に押し当て、感電させる。
野々原は周りを警戒しながらワゴンへ近づいた。
どうやら他の組員は居ないようだ。
野々原はワゴンのスライドドアを開ける。発信器によるとレイが居るのはここのはずだ。
「お嬢様⁉」
ワゴンの後部座席にはレイが。
しかしレイを見た瞬間、野々原は言葉を失った。
そこには気力を失い、まるで人形ように、窓に寄りかかり全く動かないレイが座っていた。
それよりもレイの見た目だ。
目の前に居るのが、本当にレイなのかと疑ってしまうほど真っ白な様に変わり果てたからだ。
廃屋の地下室――
野々原は警官2人を連れて地下室のドアを開けた。
正気を取り戻したレイからクレアが居る場所を探し出したのだ。
懐中電灯を手に辺りを探して、ふと懐中電灯の光を床の方へ向けた瞬間、野々原は腰を抜かしたように座り込み、警官2人もあまりの光景に顔を青ざめた。
そこには床を染めるように広がった血の跡。
それだけでもゾッとする光景だが、何よりも目を背けたくなるのが、血に染まった床の中心にある全身の皮膚が引き裂かれたような無残な死体。
さすがに信じ難いが、レイの言う通りなら間違いなくクレアだ。
それにしてもこんなに惨いことがあっていいのだろうか……。
もし夢なら今すぐに覚めてほしいと願うが、紛れもなく現実だ。
〇
野々原の話を聞き終えた武。
「警察に奴らのことは伝えなかったんですか?」
「もちろん伝えました」
「じゃ、どうして?」
「信じてもらえなかったんです……」
野々原の思いもよらない言葉に、武の表情は強ばった。
「勉様とクレア様の捜査は行われましたが、黒富士組に関する証拠が見つからず、お嬢様を監視していた組員も行方が分からなくなりまして、黒富士たちが捕まることはなかったのです」
「そんなバカな……」
あり得ない。
話を聞く限りだが、黒富士がやった証拠は山ほどあるようだが、それでも警察が動かないのは何故だ……。
「その、レイのお父さんの研究を黒富士が奪った場所って、研究所ですよね? 監視カメラの映像とかなかったんですか? ――それに射殺されたのなら殺人として捜査が行われるはず――」
「――研究所は……破壊されました。それで勉様は爆発による事故死と断定されてしまいました……」
「そんな……だったら、レイのお母さんの遺体は⁉ あんな殺され方をしたら、さすがに――」
「――確かに不可解な殺され方でしたが、黒富士との関連性が無いというので……」
「いやいや、レイも同じ状況ですよね⁉ レイのお父さんの研究でお母さんがあんなことになったことくらい証明できるはずでしょ⁉ 何よりレイの証言がある」
「……それでも警察は……」
「…………そんな」
一体どうなっているんだ。
明らかに警察が職務を放棄しているとしか思えない。
いや、違う。
警察が黒富士の手に落ちている。
そう考えれば説明がつく。
沢又がそうじゃないか。
「それで身の危険を感じた私たちは、この隠れ家に移り住んだのです。ここならすぐには見つかりませんから……それからお嬢様が――」
――警察が何もしないなら……私がこの手であいつらを地獄に送ってやる‼
「――お嬢様はそう言って、かつて私がいた軍隊で訓練したいと言い出しました。もちろん反対しましたが……」
「じゃっ、レイが直接本家の黒富士組を狙わない理由は……」
「はい、お嬢様から大切な物を奪ったように、黒富士から色々奪って精神的に追い込んでから殺すためです……」
野々原はどこか悔しそうにそう言った。
その野々原を見て武も胸が締め付けられるような気持になり、そしてあることを思い出した。
喫茶店でレイも言っていたこと。
――死ななきゃ治らない奴がいるのも事実よ。大下刑事。
今ならレイの気持ちが痛いほど分かる。
武は俯いた。
「警察のせいなんですね……こんなことになったのは」
警察が動かなかった所為で、レイは復讐鬼に変わってしまった。
そもそも谷の手紙でレイの両親が殺されていることを知っていながら、レイに食い下がった自分が恥ずかしい。
「いいえ、悪いのは私です……」
武は顔を上げ野々原を見る。
「……あの時、私がお嬢様たちから離れなければ、お嬢様が復讐鬼に変わることはなかったんです……」
野々原は悔しそうに歯を食い縛る。
表情を見ても悔しさと情けなさが窺える。
すると――
「いいえ、ジイが留守だったから私は助かったのよ」
突然の声に、武と野々原が、部屋のドアの方を見ると、レイが開いたままのドアの前で立っている。
「もしジイが家に居ても、手出しできなかったと思うし、そうなったら私は奴隷になってるか、もうこの世にいない」
「ですがお嬢様……」
「それよりジイ、キッチン」
「あぁ! 失礼します!」
野々原は、慌てて部屋を出ていった。
「レイ……あの……さっきは悪かった、言い過ぎたよ……だけど、これだけは言わせてくれ……俺だって強くなりたいんだ。奴らを潰したい!」
武の表情を見て、レイは腕を組んだ。
「だったら口答えしないでちょうだい……どっちにしても今日は遅いから明日にしましょう」
そう言うとレイは、フンとそっぽを向いて部屋から離れた。
やはり根に持っているのだろう。レイの表情は硬かった。
(可愛くねぇ……)