8話 息子
団地の中に建つ20坪ほどの一軒家――
見た目は少し古めだが、ここが谷の自宅だ。
玄関の前に立つと、武の脳裏に不安が過ぎった。
谷をほったらかしにして捜査に出ていたことで、もしかしたら薫が怒っているのではと。
そんな不安を全く知る由もない鹿沼が玄関のチャイムを鳴らした。
一体どの面を下げて薫に会えば良いのか、武には分からない。
「はい」
返事の後に玄関のドアが開き、中から薫が現れた。
「武君」
武は無言で薫に頭を下げた。武を見た薫の声に怒りなどは感じられなかったが、頭を上げた時に、薫はどんな顔をしているのだろう、と胃が張り裂けそうな思いに襲われながら、恐る恐る頭を上げた。
だが、武の予想とは裏腹に薫の表情は安堵に満ちていた。むしろ武に会えることを心待ちにしていたようだ。
「さあ、上がって」
薫に案内され武はダイニングを通って家の奥の和室へ足を運んだ。
谷の家に入るのは初めてではない。偶にプライベートで訪れることもあるため、武の第二の自宅といってもいいくらい知った場所だ。
しかし、今日はいつもと違う重い空気が漂っている。
武の知る限り、普段は谷夫婦が寝起きしている和室に、今は谷の遺体が眠る棺が置かれている。
谷の側まで行くと武は膝をついて谷を覗き込んだ。本当なら何か言葉をかけたいところだが、何を言えば良いのか全く浮かばない。
それは恩師の亡骸を目の前にしての悲しみと同時に、どうしてホワイトウィッチが谷のことを知っていたのかが気になっていたからだ。
「武君」
薫の声に武は振り返った。
「こんな時に捜査に出て。本当にすみませんでした」
「気にしなくていいのよ。あの人の為なんでしょ?」
薫に対して、武は深々と頭を下げたが、当の薫は、武の気持ちを察しているようで、武を責めるようなことは言わなかった。
一度頭を上げる武だが、重々しく頭を下げ俯いた。
「はい……でも自分の力不足で犯人はまだ……」
「いいのよ。でもあまり無理をしないでね。武君にもしものことがあったら、大介さんの方が浮かばれないわ」
それを聞いた武は何か返す言葉はないかと頭の中で探したが見つからない。この時ばかりは、もっと知識が欲しい、と自分を悔やんだ。
薫は、仏壇に視線を向けた。そこには小さな遺影が置かれていた。
年は20代前半だろうか。笑顔が似合う爽やかな印象の彼は、谷の一人息子・譲だ。
「4年前に息子を亡くして、それから大介さん、しばらく仕事に身が入らなかったの……でも立ち直らせてくれたのが武君だったのよ」
「そうだったんですか?」
「ええ。武君が白摩署に来るって聞いてから大介さん、『あいつにこんな姿は見せられない』って、すっかり自分を取り戻して。大介さんにとって、武君はもう1人の息子だったから」
「そんな感謝されることじゃないですよ。自分だって、あの時にオヤッさんに出会ってなければ……」
薫と話をして昔のことが蘇った。父親に反抗して不良と化していたあの時に、危うく命を落としかかったところ、初めて谷と出会い、そして救われたことを。
それと同時に、谷の息子のことについて武も少し気になり始めた。既に亡くなっていることは知っていたが、死因までは聞いていない――いや、辛いことを蒸し返すと思い、訊けなかったのだが。
谷の息子について訊こうとするその前に、薫が口を開いた。その表情は暗く、何か不安を抱いているようだ。
「……あの、武君、ちょっと話が変わるけど……大介さんは疑われているのかしら?」
「えっ? どうしてですか?」
「実は……」
薫の話によると、数時間前に結城を含む県警の刑事4人が怨恨の可能性があるかもしれない、と家宅捜索していったらしい。
慌ただしく何かを探しているようなその様子は、怨恨という前提で見ればそれっぽいが、はっきりいって物色という言葉の方が合っているような印象を薫は受けていた。
その県警の必死過ぎる行動に、薫は谷が疑われているのではないかと考えたのだ。
「心配しないでください、念の為に調べただけだと思います。関連性がないか疑うのも刑事の仕事ですから」
武は薫に嘘をついた。薫に心配をかけたくなかったからだ。
確かに――武も詳しいわけではないが――ホワイトウィッチによる死者は、黒富士組系暴力団関係者を除いて他にはいない。初めてホワイトウィッチによる刑事の死亡事件となれば何か怨恨の線も疑うのも筋が通っているようにも思える。
だが武の中では、もしかしたら前々から県警が谷とホワイトウィッチが裏で繋がっていることに気づいていたのでは、という予感が頭に浮かんだ。
もし繋がっていて口封じで殺されたとなればホワイトウィッチの正体を暴く手掛かりを谷が持っていると考え、県警が谷の家を血眼になって探すだろう。
だが、谷とホワイトウィッチを結びつける証拠があるとも思えないのも事実だ。
「……それならいいけど――そうだわ!」
何かを思い出した薫は、仏壇の方へ向かうと、仏壇の引き出しの裏側に隠すように貼られた一通の茶封筒を持って武の元へ戻って来た。
「大介さんが、もしものことがあったらこれを武君に渡してくれ、って。それと――」
薫はダイニングに居る鹿沼の方を一度見た後、武にしか聞こえないような小声で言った。
「……他の人には見せないで、って」
武は封筒を受け取った。それ程厚みはないので、手紙か何かだろう。
「それでは行きますね」
武は立ち上がると、和室を出てダイニングにいる鹿沼と合流して玄関へ向かった。
見送る薫に向けて「お邪魔しました」と頭を下げた武は、家の前に止まっている覆面車に乗り込んだ武と鹿沼は、そのまま谷の家を後にした。
塀の陰から白いつば広帽子を被った女に覗いていたことに気づかないまま……。