第10話 生贄の仮初め婚約者
「お帰りなさいませ、ジュリアス様。エルヴィアンカ様」
ふたりが古城に入ると、幾人かの使用人たちに出迎えられた。
「彼女の部屋は用意できているか」
「はい。整えております。どうぞこちらへ」
少数精鋭といった雰囲気のある使用人たちは、皆一様に黒い衣服を身につけており、その洗練された振る舞いは王家に仕える者たちに通ずるものがある。
王城には祖父母に連れられて一度だけしか行った経験のないエルヴィアンカであったが、その時に感じた、目を見張るような感銘を覚えずにはいられなかった。
そんな中、ジュリアスに抱き上げられたままの自分が恥ずかしい。挨拶しようにも完全にスルーされている。
もしかして、すぐに魂を奪う予定の生贄婚約者だからだろうか?
(でも、せめて挨拶くらいは)
エルヴィアンカが口を開こうとすると、ジュリアスの長い人差し指がそっとエルヴィアンカの唇に触れた。
「声を出すのはあとにしてくれ。君はまだ、僕の正式な妻ではないんだ。勝手な行動も慎むように」
ジュリアスの注意に、エルヴィアンカは不安げな表情でこくりと頷く。
使用人達も全て理解しているのか、確かにこちらへ微笑んでくることも、話を振ってくることもない。
それはつまり、彼らも正式な婚姻の相手とみなしていないからなのだろう。
(覚悟はしていたけれど)
なんだか寂しい。
エルヴィアンカは唇をきゅっと噛んで、声が出ないように努めた。
メイドに案内された部屋は、ジュリアスの私室の隣だった。
婚約者であるし、しかも頭に『期限つきの仮初めの』が付くので、てっきり客間に通されると思っていたエルヴィアンカは、エメラルドの瞳を見開いた。
王都にあるオディーリア伯爵家の一階部分より広いと思われる部屋に、気品のある調度品が並んでいる。
木製の家具は深い飴色に輝き、カーテンやソファの生地は重厚感があって古典的な色合いで美しい。
屋敷の何倍も高い天井にはシャンデリアが吊るされ、大きな窓の外には直接出られるバルコニーが見えた。
この部屋だけでも十分広いのに、奥にある扉はさらにエルヴィアンカ専用の寝室や、衣裳部屋に繋がっているという。
生贄に対する手厚い気配りに、エルヴィアンカは思わずお礼を言いかけて、両手で口元を押さえた。
「例のものを」
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
案内していたメイドが部屋を出ると、控えていた他のメイドたちがワゴンを押して入ってくる。
(なにかしら? 飲み物?? ……ウェルカムドリンク的なものかしら?)
彼女たちはソファの前にあるテーブルに、飲み物の入った杯をひとつ配膳すると、しずしずと退室する。
パタン、と部屋のドアが閉まったところで、ようやくジュリアスは腕の中のエルヴィアンカをソファに下ろした。
(あぁぁ、やっと足が床に……!)
エルヴィアンカは久々に床に足がついた心地がして、ほっとする。
水仙の丘は幻想的だったけれど、やっぱり心の奥底ではずっと、ジュリアスへの恥ずかしさや申し訳なさでいっぱいで、心もとなかったのだ。
(ジュリアス様の腕は大丈夫かしら? ありがとうございましたと言いたいけれど、やっぱり駄目よね……?)
ふたりきりになった室内に、静寂が降りる。
エルヴィアンカは沈黙にソワソワとして、ちらりとジュリアスをうかがった。
彼は出て行くでも向かい側のソファに腰掛けるでもなく、腕を組んだ姿勢で立ったまま壁に背をもたれている。
悩ましげに眉を寄せたまま、じっとこちらを見つめている彼に「どうなさいましたか?」と喋りかけたかったが、先ほど注意を受けている身なので、結局エルヴィアンカはおとなしくしていることにした。
長考していた様子のジュリアスが、不意に「エルヴィアンカ」と名前を呼ぶ。
低く冷たい美声は感情を削ぎ落としたように無感情だ。
彼は長い睫毛に縁取られた金色の双眸を閉じ……ゆっくりと開くと、
「今から君にひどいことをする」
そう言った。
「ひどいこと、ですか?」
「声を出さないで」
(あ、)
首を傾げたついでに、思わず疑問が口をついて出てしまった。エルヴィアンカはごめんなさい、という言葉を急いで飲み込む。
ジュリアスは仄暗い瞳をエルヴィアンカに向け、「こんな方法しかなくて、すまない」と言った。