沈静ワイパー
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
つぶらやくんは、ストレスに強いほうかしら? それとも弱いほうかしら?
私は全然ダメねえ。ちょっと不愉快を被っただけで、ずんずん落ち込む。それも、誰にも話したくなくて、抱え込んじゃうタイプなの。
一人きりになって、自分の好物とアルコールを浴びるように飲み食いする。その瞬間だけ、「生きててよかったあ」と心の底から思えるんだもの。いくつになっても、たぶんやめられないんじゃないかなあ。
けどね、昔はもっと別の方法で、私は私を癒していたの。いま考えてみても、なかば夢のようなできごとだった。
――え? 興味があるの?
あらかじめ言っておくと、たぶん真似できないことよ。私自身、再現性をまったくもたないし、なにより気味の悪い話だし。
構わないの? まあ、それなら話してもいいけれど。
私ね、七人兄弟の末っ子だったんだ。
男だらけの中での末の妹といったら、猫可愛がられされそうなイメージない? 残念ながら、私は全然だった。
どうも聞く限り、兄さんたちは私がしでかすことの、尻ぬぐいばかりさせられていたらしいのよね。まだこの世の右も左も分からない私が、物を壊したり、床を汚したりするでしょ? そのたびに兄さんたちが「ちゃんと見ていなさい!」って親に怒られたみたいなのよ。
親の見ている前で私に手を出すと、「お兄ちゃんだから、しっかりしなさい」とまた怒鳴られる。だから親の目の届かないところで、兄さんたちは私に仕返しをしていたわ。
どんなことをされたかは、はっきりとは覚えていないわね。けれど身体のどこかしらが強く痛んで、わあわあ泣いていたのは記憶に残っている。
当然、親がいる時は私の声を聞きつけて、ここへ飛んできた。その足音を聞くと、兄さんたちも散り散りに。気配を隠すのが上手いらしくてね。お母さんが駆けつけたときには、暴行の痕はみじんも残っていない。
私はお母さんの顔を見るたび、すぐに泣き止んだと聞いているわ。きっと痛い思いを運んでくる兄さんたちが、遠くに行くのがわかったからでしょうね。
食事どきと同じ、手を出されずに安らげる時間。そのありがたみを、ひしひしと感じるようになっていたんだと思う。
それから何年もの時間が過ぎ、上の兄さんたちは何人か一人暮らしを始める。私が小学校へあがる頃には、兄さんは2人しか残っていなかったわ。
残った上の兄さんは、家に帰ってくる時間が遅い。だから顔を付き合わせる時間は、下の兄さんのほうが多かった。私と3つしか違わないけど、ぶくぶくに太っていたわね。
兄さんはゲームが好きで、私も誘ってくるんだけど、勝ち逃げを許さない人だった。自分が勝たないうちは、相手の都合、自分の都合もお構いなしに、どこまでも付き合わせてくる。
そして手を抜かれるのも大嫌い。ワンサイドゲームで相手を圧倒しても、「手を抜いて、俺をバカにしてやがるな!」と言いがかりをつけてくる。接戦、接戦でもぎとる勝利の味が大好きだったらしくて、私の時間も心もごりごり削られた。
もうお母さんのガードは期待できない。あの時よりずっと忙しくなっているし、私がようやく、手のかからなくなってきたお年頃。仲裁に入ることは少なくなってきた。
本気のケンカもしたことだってある。でも、お互い同じ屋根の下にいる家族。逃げ場所はなく、残った傷が尾を引いて、私の周りのものに飛び火する。家へ帰ってきたとき、大事にしていた手鏡を割られていて、ずっしり沈んだこともあったっけ。
証拠はないけど、間違いなくケンカした兄の手によるもの。私はそう確信していた。
――お兄ちゃんが、いつも機嫌が良ければいいのに。
私は、自分が力で兄にかなわないことがうすうす分かってきて、家に帰るたび、ひたすら兄からのお誘いがないことを祈っていたわ。
そんなある日。私は人の機嫌を直す裏ワザなるものを、クラスの友達から聞いたの。
給食に出たミカン一個を対価に、聞き出したその方法は、あまりに簡単なものだった。
そんなので機嫌がよくなるわけないといったのに、友達は「いいから、いいから」と、もうまともに取り合ってくれなかったわ。
そして放課後。ただいまを告げるとともに、家の奥からばたばたとお兄さんの足音。「やるぞ!」のひとことで、また部屋へ戻っていく兄さんに、私はため息をつく。
ここのところ、毎日格闘ゲームに付き合わされている。兄さんは私に負け越すくらいの実力だけど、定期的に友達の家で行われるゲームトーナメントで、どうしても勝ちたいみたいだった。
その日も、私はどうにか抵抗しつつも、自然に負けるよう心掛けたわ。
でも兄さんは、普通の勝負以外にも、自分の技はおろか、私の技の出し方にまで注文をつけて、シチュエーションごとの対策までしたいと言い出したの。
「ちゃんと攻撃して来いよ。棒立ちの奴なんか、俺の友達にひとりもいねえんだからな」
私はカカシやサンドバックでいることを許されない。
ある程度慣れているとはいえ、私だって達人レベルなわけじゃない。ついに技を出すタイミングがずれてしまい、カウンターを仕掛けようとした兄さんのキャラに直撃。
ほぼすべての体力を持っていく、超必殺技。それをこれまでの「抵抗」で、体力を減らされたキャラが、耐えられるはずもない。
いつものヒット音より深い一撃。スローモーで吹っ飛び、「ウワ、ウワ、ウワ……」とエコーのかかった悲鳴の演出。
「やばっ」と私の肝は一気に冷え、隣の兄さんを見る。画面の中のキャラに劣らず、跳ね上がったコントローラーが映る。兄さんが渾身の力でフローリングに叩きつけたのよ。
すでに顔はこちらを向き、拳を振りかぶっている。
私は反射的に、友達から聞いた方法を試す。
「右腕にね、『もうこれ以上ない!』っていうくらい、力を込めるの。
そしたら、機嫌を直したい人の前で、腕を横切らせるの。車のワイパーみたいにね。
一緒に『機嫌よ直れ!』って、思い切り願うのよ」
常日頃、私が考えていること。胸の奥から瞬時に絞り出し、私はこわばった右腕でバリアを張るように、下から腕を振り上げた。もちろん、この後に兄さんのパンチをもらうでしょうね。
でも、それがなかった。私の腕数センチくらいまで迫っていたはずの拳が、ぴたりと止まったのよ。
兄さんの顔も、ほんの一瞬前の怒気をはらんだ形相はどこへやら。すっかり穏やかな表情を見せて、「もう一回やるか」と声音まで落ち着いていたの。
あまりの変わりように、私はちょっと呆然としちゃったけど、その後も機嫌が悪くなりそうになると、私は同じ方法を試す。そのたび、兄さんの怒りは水をかけられたように、冷え切っていったの。
求めていた安らぎを手に入れた私は、兄さんに絡まれるたびに、例の方法を試す。
人が変わったように落ち着く兄さんの様子を、最初はフェイクじゃないかとびびっていた私。でもやがて効果を実感すると、面白くなってきちゃってね。兄さんがちょっとでも怒る気配を見せると、それを「パア」にしていったの。
これまでさんざん付き合わされたんだ。これくらい許されるはず。
そう信じる私は、一日に何回、兄さんに向けてやったか分からない。
兄さんは腹を立てることがなくなっていく。更には風呂上りに「体重が落ちた!」と、舞い上がる姿さえ見せる。
体重、気にしてたんだ、と思いつつも笑うことが多くなった兄さん。これはあの子に感謝しないと、と思い出した矢先のことだった。
兄さんは姿を消してしまったの。
また件の格闘ゲームで、兄さんが負けてしまった瞬間のこと。
「あーあ、またやんなきゃ」と作業感を覚えつつも、私は瞬間的に力と心を込めて、すぐ横の兄さん目掛けて、腕を振り上げたの。
そのワイパーがけのあと、兄さんは姿を消してしまったのよ。それこそまばたきする一瞬のことでね。
部屋を探し回ってもいない。それどころか、兄さんの部屋は物置に代わっていたの。ほんの数十分前まであった漫画や机、壁のポスター類がなくなっている。
親も他の兄さんたちも、あの兄さんのことを覚えていなかった。ついには私の妄言扱いとなり、誰も取り合ってくれなくなる。
その兄さんが消えてしまった翌日。珍しくあの子が私の席まできて、こうささやいたわ。
「ありがとう」ってね。
それ以降、私が同じ方法で人の機嫌を直すことは、できなくなっていたの。