結婚の難しさを痛感してきました。
結婚の難しさを感じてきた。喧嘩が日常のほとんどを占めている。ささいなことがキッカケではあるが、尾を引く。また、根が深くなっていっている。とても疲れる。嫌になって仕方がない。とにかくストレスが強い気がする。無理してまで一緒に過ごす必要はないのではと思う。休日は別行動でいいんじゃないだろうか。極度のストレスを感じてくると眠くなるし、耳が詰まる。頭が痛くなる。とにかく嫌な気持ちが抜けていかなくなる。逃げ場はどこか?文章を書くことでしか消化できなくなる。書いている間だけ自由になれる。昔を思い出す。死ぬほど毎日が辛くて、そこから逃げるためにファンタジーの世界へのめり込んだ。本を読んで現実を忘れているあいだだけ、心が救われた。今の自分はそれに近い。やはり文章を書くことは何かしらのキッカケがいる。それもマイナス面での。幸福であり続けたり、なんの葛藤もないのなら書けるわけがない。わたしはどちらかといえば、何もかもがどうでもよい。あまり考えないし、考える頭をもっていない。だが、追い詰められてくると話は変わる。誰でもそうであろうが。
そう、いまのわたしは追い詰められているといってよい。妻から責められることが積み重なって逃げ場を欲している。ひとりになる空間が欲しい。好きなときに好きな場所にいけるようになりたい。職場で繋がれているのに、なぜ、休みの日まで窮屈でなければならないのか。そして、こんなことを書いているのを見られてしまえば、またそのことが喧嘩の原因になるであろうが。
自分の不機嫌や苛立ちを配偶者のせいにすべてしてしまうことは、とても簡単なことである。何もかもを相手のせいにできてしまうのだ。本当に嫌になる。そうやって相手をせめて、自分の正しさと被害者ぶりをあらわにしていったところで何になるというのだ。やめてもらいたい。わたしはとても我慢している。そう、とても我慢しているのだ。だが、相手も同様に我慢していると思っている。わたしからしてみれば、何を言っているのだと笑いたくなるが、そう言われるのだから仕方がない。こうなってくると、どこまでが真実か分からなくなる。本当は自分が誤っているのではないか。わたしがとてつもない極悪人であり、何もしないでくの坊であるのかもしれない。だが、そうとは思えない。いつも喧嘩を売られる。なのに、わたしがいつも不満そうにしていると言われる。そして、嫌味を言う、モラハラ男なのだと伝えられる。わからない。この謎を解き明かすことは無理である。
子どもさえできれば、関係性は改善されるのか。それもわからない。余計にこじれるだけなのではないだろうか。抜け出すことが不可能になるだけなのではと思う。溝は深まるばかりではないかと。
なるべく夫婦は、別行動をしたほうがいいのではないか。一緒にいることがこんなにもストレスであり、辛くて嫌な気持ちにされ続けるのであれば。
わたしはとても疲れた。もう我慢をしたくない。嫌な気持ちだけがつづく。
この事実を話せる相手もいない。いや、話したくないのだ。話してしまうことで事実であると認めることになるからである。些細なことのはずだ。おおげさに捉えすぎている。しかしながら、嫌になる。どうしたらうまく生活できるのか。
このような嫌な気持ちのときはなにかに打ち込むに限る。気を紛らすことが必要だ。
部屋の片隅に山の如く積み重ねた200冊以上の本を捨ててしまおうかとの気にもなる。
高く売れるのではと買い集めた古本たち。余計な物に囲まれるがゆえに生活が行き詰まり始めたのか。
居住空間が物に支配されることは精神面を犯すことになる。物に服従することはよくない。人が物を制するべきだ。わたしは何も本当ならば所有したくない。何もない、ノートパソコン一台しかない部屋で文章を打っていたいと思う。だが、怠惰なわたしは物を処理しきれないのだ。それでは生活も処理できないわけだ。仕方ない。
わたしは気持ちの強い男だと思っていた。なにごとにも動じず、淡々と生活できるものだとばかり。そうではなかったわけである。それを最近、知った。では、なにが残るのか。唯一の長所だと思うていたのに。それさえないのなら、なんと情けないことか。私にあるのは、足らぬ思考力、すぐに消え失せる記憶力、仕事への無関心、世間一般で受けている話題への無関心、無学、無気力、車もまともに運転できない、泳げない、自転車にも乗れない。空洞化された人でしかない。困ったことに。
コミュニケーション力やプレゼン力、そういう怪しいビジネススキル。自称が付いてしまうような言葉で己を武装し、ビジネス書を読み漁っていたころのほうが余程に有意義な日々を過ごせていた。あの何も知らない頃が1番幸せであったと言ってよい。間違いない。もしも、そのような能力を正しく身につけていたのならば、今のような醜態をさらすこともなかったであろう。くよくよと悩むだけのことは起きなかったであろう。しょせんは妄想だったのだ。そのようなモノがあると思いこんでいた。あるわけもないのにも関わらず。
わたしができることは、嫌なことから抜け出すための文章作りだけである。本を読んでいると気が散ってしまい、現実にすぐに呼び戻される。だが、書くとなれば現実を捨てることができる。第三者的視点で、客観的に離れた位置から自分を観察できる。だから怖くはない。他人ごとに思えるから。
今の悩んでいるわたしが他人であれば、どれだけよかったことか…。