地獄の淵から星を見上げし者達
私の兄は、昔から体の弱かった私を気遣い、いつもそばにいて守っていてくれていた。
だけどそんな身体とは裏腹に、私は活発な子供で親の目を盗んではいつも外に出かけては野を駆け回って…その度に倒れては、兄におんぶされて家に連行されていた。
体が弱い私でも、こんなに活発であったのはきっと頼れる兄という存在がいたからで…私は安心して旅に出ることが出来た。
…私を背負う兄の背はいつも温かくて優しくて…大きかった。
私は…そんな兄が大好きだった。
そして久しぶりに再会した兄は…犬のように惨めに四つん這いになり、汚らしい地面でジュワーという何かを溶かす音を立てながらピクピクと蠢く悍ましい粘着物を浅ましくも一心不乱に舐め回していた。
「…なにやってんの?お兄ちゃん」
目の前で人として尊厳を失っていた兄のような何かに雪は冷めた瞳で声をかけた。
…いや、本当にこれは兄なのか?。
私のシンお兄ちゃんはもっとこう…ちゃんとしてたというか…少なくとも人間であった。
だけど目の前のこれは…ただのケダモノだ。ネズミですら避けて通るような…ゴキブリですら拒絶するような怪しい粘着物を舐め回すこれは…もはや妖怪の類だ。
「シン…お兄ちゃんなの?」
姿形はそっくりでも、目の前に横たわるこれはあの大好きなお兄ちゃんなどでは決してないという期待を込めて雪は問いただした。
目の前の現実を容認できず、瞳から光を無くした雪の顔を見つめながら、シンが真面目な顔で口を開いた。
「君が…僕の妹なのかい?」
スライムさんを舐め回していたせいか、顔面が紫色の謎の粘着物塗れのシンを信じられないものを目の当たりにしてしまった時のように雪は2,3歩後ずさりしつつその口を開いた。
「ほ、本当に…シンお兄ちゃんなんだ…」
雪はまるで凄惨たる殺人現場で殺人鬼と出くわしてしまったかのようなリアクションを取っていた。
「やっとだ…やっと会えた…妹よ!!」
感動の再会にシンは目を輝かせながら雪に駆け寄った。
しかし、人を刺し殺した時に浴びた返り血のように全身がスライム塗れに汚れているモンスターが接近してきたことに雪はただならぬ恐怖を感じ、叫んだ。
「きゃああああああ!!!!!来ないでえええええ!!!!!『ブラストバーニング』!!!」
雪は迫り来るモンスターから自分の身を守るために呪文を唱え、それによってシンは渦巻く業火に包まれ、焼け焦げたかのような黒塗りの棺桶と化した。
「はぁはぁ…」
九死に一生を得た雪は先ほどの光景がトラウマとなっているのか、しばらく教会の隅で縮こまっていた。
そんな兄妹の感動の再会からあっという間の死別までの一部始終を見守っていたユーキは雪に声をかけた。
「あの…大丈夫か?」
「な、なんなんですか!?あのモンスターは!?。突然兄の姿にそっくりなモンスターが私に迫ってきて!!」
あまりの恐怖に錯乱している雪は頭をかき乱しながら恐怖を口にした。
そんな雪にユーキはコホンと一つ咳払いをしてから申し訳なさそうに雪に衝撃の事実を告げた。
「あの…大変お気の毒ですが…つい今しがたあなたが完膚無きまで焼き払ったモンスターは…おそらくあなたの兄です」
「…う、嘘よ…シンお兄ちゃんがモンスターなわけないよ!!シンお兄ちゃんはもっと優しくて頼りになって…」
雪はかつて兄に背負われ、兄の温かさに包まれていた光景を思い浮かべながら涙ながらにそう語った。
「…まぁ、シンはこのゲームに来た時に妹に関する記憶が朧げになってるそうだし…まだ確証は持てないけど…ここまで条件が揃ってたらおそらくはそうなんだろうな」
ユーキは目の前の現状をどうすべきか頭を悩ませながらそんなことを呟いた。
「まぁ、こうしてても埒が明かないし、シンを蘇らすためにとりあえず全滅しよう」
そんなユーキの『全滅』という言葉に遠巻きで見ていた神父さんがピクッと反応した。
「田中も良いよな?」
「まぁ、別にいいよ、全滅くらい…」
眉間にしわを寄せ、般若のような顔で怒りを露わにしながら田中達を睨みつける神父さんを他所に、ユーキ達は早々に全滅した。
「…地獄に堕ちろ」
人を呪殺しかねない神父にあるまじき形相で神父さんは蘇った田中達を前にボソリとそう呟いた。
「…やっぱり…シンお兄ちゃんなんだ…」
死よりも酷い報いを祈る神父をよそに色々と確認を済ませ、自分が焼き払ったモンスターが本当にあの大好きな兄であることを確認した雪は変わり果てた兄に虚ろな瞳を向けていた。
「やっとだ…やっと会えた…雪!!」
感動の再会に再び駆け寄ろうとするシン。
「来ないで!!」
そんなシンにすぐさま呪文を放てるように構えつつ、雪はシンを拒絶した。…あまりに変わり果ててしまった兄のギャップにトラウマを植え付けられたのだろう。
「ど、どうしたのさ?雪。もしかして久しぶりだから照れてるのか?。…そうだ、再会のお祝いに一緒にスライムを食べて親睦を深めよう!!」
「いやあああああ!!!!!来ないでええええ!!!!」
シンの提案に自分もあのモンスターに引きずり落とされるのではないかという恐怖を感じた雪はその場に座り込んで塞ぎ込んでしまった。
「どうしたのさ?雪。もしかして遠慮してるのかい?。兄妹なんだから別に遠慮なんかしなくていいんだよ。だから一緒に食べようよ、スライム」
「いやああああ!!!お願いだからこれ以上口を開かないでえええええ!!!!」
せめて自分の思い出の中の大好きな兄だけでも守るために、目の前に映る兄のような何かを雪はただひたすらに拒絶していたとさ。
「で、これからどうすんだ?」
兄妹の間のマリアナ海溝ばりに深く、到底埋められそうにない溝をよそにユーキはこれからのことを田中に問いただした。
「もちろん私の復讐を邪魔するバハムートをどうにかする」
「どうにかするって…どうするんだよ?。そもそも普通に勝つことさえ絶望的なのに、倒してもまたリポップするんだろ?」
「案ずるな、策はある。だがそれにはまず準備が必要で、いろいろ物を揃えなきゃいけない。そのためにまずは…メタル湖に行くぞ」
「メタル湖って確か…ずっと前に行ったことのある液体金属の湖か?」
「そうだ」
(25話参照)
「ってことは…久しぶりの冒険だな!」
ここ最近はずっとNPCを冒険へと誘っていたため、冒険レスであったユーキは久方ぶりに始まる冒険に胸を躍らせた。
「メタル湖か…ロクな思い出はないけど懐かしい場所だね」
シンも妹のお願いを叶えるためにも今回は随分と前向きであった。
「私も微力ながら協力させてもらうよ」
今もなお、バハムートの魔の手に追い詰められているであろうマオ達のために雪も協力的であった。
「よし!満場一致だな!。それじゃあメタル湖を目指してまずは…」
全員が一致団結したのを見計らって田中が立ち上がり腕を高く掲げ、宣言した。
「全滅するぞぉ!!」
「おお!!」
「……え?全滅?なんで?」
田中に続いて、ユーキとシンも腕を高く掲げる中、状況がわからない雪は疑問を口にした。
「バカヤロー、状況再現のためだ、そんなのも分からないのか?」
「え?状況再現?」
「田中が街に出た際にかかる状態異常の乱数を調整するためだよ」
「え?状態異常?」
田中とユーキの説明を聞いても理解が出来ずに置いてけぼりを食らう雪に、田中の影と成り果てた魔王が雪の肩をポンと叩いて同情混じりにこう言った。
「ようこそ、地獄の入り口へ」
「…え?なんなの?」
雪は目の前で繰り広げられる田中が痴呆になるための儀式をただただ黙って見守ることしかできなかったとさ。
冒険に出かけた一行は、マサラの外に広がる始まりの平原で夜を明かそうとしていた。
「今夜は大量だぁ!」
昼間のうちに狩っておいた大量のスライムさんを抱え、楽しそうに晩餐の準備を始めた。
「…え?マジ?あれ食うの?」
雪は目の前で火を囲みながら愛おしそうにスライムに火を通す集団を怪訝な目で遠巻きに見ていた。
「まーだかな、まーだかな」
「おいおい、シン、慌てるなよ。別にスライムさんは逃げやしないぞ」
「このゲームはクソゲーだと思うけど、このスライムさんだけは神要素だな」
火に炙られ、スライムから謎の紫色の液体が滴り落ちるたびに地面がジュワーっと泡となって溶ける光景を囲みながら今か今かとその時を待ちわびるサバトに雪はただただ戦慄していた。
そしてスライムに火が通ったのを確認するや否や、皆一斉にスライムを美味しそうに頬張り始めた。
「あぁ、美味しいよ!!おいしいよぉ!!」
今この至福の時間のために生きている…3人の食いっぷりにはそんなことを感じさせるものはあるのだが…こんな食事と呼ぶには酷過ぎるサバトを前に、雪は吐き気を覚え、口を両手で押さえていた。
「これが…こんなものが人間の食すものなの…」
そしてカルチャーショックと呼ぶには生温い食文化の違いに思わずホロリと涙を流した。
「ほら、雪も食べなよ。美味しいよ」
現実を欺くかのように輝きを失った瞳でシンは雪にスライムを勧めた。
「そうだそうだ、食べて精をつけろよ」
「お前は戦力として期待出来るからな…空腹で倒れられても困るし、仕方ないから分けてやるよ」
ユーキも田中も同様に輝きを失った目で雪にスライムを差し出した。
凄惨たる光景に驚愕しつつも、なんのためらいもなく勧めてくるということはもしかしたら意外にもスライムは美味しいのかもしれない…そんな悪魔の発想が脳裏によぎってしまった雪は震える手で焼いたスライムを突き刺した木の枝を受け取った。
今もなお目の前でピクピクと蠢き、紫色の謎の液体を滴り落とす到底食べ物とは名状しがたいそれを雪は覚悟を決めて一口…ほんの小さな一口だけ口にいれた。
その瞬間、全身が食すのを拒否するほどの強烈な臭みが口一杯に広がり、追い討ちをかけるかのように味覚が麻痺するほどの焼けるような痛みが雪を襲った。
本能的に危機を覚えた雪の身体は体内の洗浄を兼ねて、今日食べたものを全部、スライムごと吐き出した。
「おぇ!!おぇぇぇぇぇ!!!!」
人間の…いや、生き物が食べていいものじゃない!!。
雪の脳細胞が満場一致でそんな結論を出した。
今もなお鼻に付く臭みと舌の痺れ、そして悪夢に出てきそうな舌触りが脳裏に焼き付いて離れない。
生ゴミを食べ方がマシとか、そんな生半可なものじゃない。
どんな惨たらしい拷問もこれを口にするのには到底敵いやしない。
きっと全ての罪人に罰としてこれを食べさせる法律が出来たら、世界に犯罪は無くなる…そう強く確信出来るほど深いこの世界の深淵を雪は味覚を通して垣間見てしまったのだ。
…え?マジで?…マジでこの人達毎日こんなもの食べてるの?。
なんなの?なんなの?この人達?。
一体どんな生活を送っていたらこんな人生の袋小路に追い込まれるの?。
どうしたらこんな考えられる以上の、この上ない最底辺のさらに下を優に潜り抜けるような人生にたどり着くの?。
そんな死など可愛く思えるような惨状を前に雪が凍りついていると、田中の影となった魔王が雪の肩を叩き、優しく諭すようにこう言った。
「まぁ、肩の力を抜けよ、新人。ここはまだ地獄の麓ですら無いんだぜ?」
馬鹿な…語りつくせる全ての言葉を駆使してこの上ない惨劇を表現したというのに、これでまだ地獄の麓ですらないだと!?。
もはやこの先は言葉にすることすら出来ないじゃないか!?。
驚愕の事実を目の当たりにした雪は心の中でそんなことを叫んだ。
そしてこれ以上は見てられなくなった雪は叫んだ。
「ダメだよ!!お兄ちゃん!!。こんなの食べてたらダメだよ!!」
きっと自分が大好きだった兄はスライムに心を蝕まれ、こんなのになってしまったのだと信じて疑わない雪は悲痛な思いを叫んだ。
「あ!?スライムさんにこんなのとはなんだ!?お前、私たちの食事に文句つけるっていうのか!?」
「もはや食事ですらないよ!!こんなの!!」
自分達がおいしいと信じて疑わないものを否定されたことに田中は激怒するが、雪は目の前で繰り広げられる惨たらしいサバトを完全否定した。
「ちょっと待ってて!!いま食事っていうのを思い出させてあげるから!!」
そう言って雪は火の元を離れ、夜の草原へと消えて行った。
しばらくすると雪は一匹のイノシシのモンスターを捕らえて戻ってきた。
「おまたせ」
そしてテキパキとイノシシに火を通す準備を始めた。
「まぁ、イノシシですって奥さま。随分野蛮ですこと」
「ほんと…イノシシとか人間が食べるものとは思えないな」
用意されたものがイノシシだと知るや否や、田中とユーキはそう言って雪を嘲笑した。
「雪、ダメだよ、そんなもの食べてたら身体に悪いよ」
シンもまともな食べ物を準備している雪をそう言って否定した。
「いいから食べて!!」
イノシシの肉に火が通ったのを確認した雪はそう言って3人に『食事』を差し出した。
「全く…この私にこんな野蛮な物を食えだなどと…」
「そうだな、いくらなんでもイノシシとか無いわなぁ…」
「流石に雪の頼みでもこれはちょっと…」
「いいから騙されたと思って食べて!!」
とにかく一刻も早く食事という概念を思い出してもらうために雪は無理を通してそう叫んだ。
「はぁ…仕方ねえなぁ、たまには趣向を変えて見てやるか」
「まぁ、せっかく作ってくれたのを拒否するのは頂けないわな」
「雪がそこまで言うなら…仕方ないなぁ」
各々小言を吐きながら仕方なく3人は目の前の食事を口にした。
3人が食事を口に運び、一瞬の静寂の後、3人の瞳からボロボロと涙が零れ落ちた。
まず3人が感じたのは『味』である。
SAN値を保つためにスライムが生み出した人体をも溶かしかねない酸による痛みを『味』と錯覚させていた3人の脳に、食べ物の『味』という概念が痛烈に響き渡った。
使われずに死滅しかけていた味覚が息を吹き返し、モノクロであった3人の味覚に彩りを蘇らせたのだ。
正気を保つために認識の解像度を極限まで落とすことによって『味』という概念を騙し続けながら生き長らえてきた3人に、腹の底から叫んだ味覚の産声が『味』とは何かを訴えた。
そして再生した味の認識が、今一度3人に『美味しいとは何か?』と問いただす。
3人は必死の抵抗と言わんばかりにこれまで食事と呼んでいたスライムを口にするサバトを思い描いたが、噛みしめるたびに口いっぱいに広がる肉の旨味がそんな些細な抵抗を完全否定した。
純然たる美味しいという感想が3人のこれまでの狂った価値観を完全否定した。
反論の余地が無くなり、とうとう人間の食事に完全降伏した3人は一心不乱に目の前の肉を頬張り始めた。
食事とは…生きるために致し方なく栄養を補給することでは無い…生きるための手段では無い。
食事とは…それを楽しみに生きていると言っても過言では無い存在…つまりは生きる目的の一つ。
そんな事実に目を覚まされ、肉に伸びる手も、溢れる涙も止めることは出来ず、3人はただひたすらに黙って食事を続けた。
やがてイノシシの肉も底をつき、至上の喜びである食事の時間が終わると、3人は美味しいものを食べるという感動に圧倒され、その場に仰向けになり、生きる喜びを思い出したことによって輝きが戻ったその眼で夜の空を見上げた。
「私達は…今まで何をやってたんだろう?」
まともな食事というものの片鱗に触れ、体も心も満たされた田中はふとそんな疑問を口にした。
「忘れよう、全部…悪い夢だったんだよ…」
「そうだよ、きっと…全部悪い夢だったんだ」
きっとこの先…今日この日、この時ほど星空が綺麗に見える時は来ないだろう。
そんなことを確信させるほど、幸せを噛みしめる事が出来た素敵な夜であったとさ。