君の未来を守る魔宝 その六
「――う、ん」
目を覚ますと、視界が九十度傾いていた。パイライトの石魔除けにアメジストの結界。石魔その他のアクシデントに対する準備は万端にしていたが、ルーサーは念のため、突発的な事象に対処できるようにと、自分の眠りを浅くするために座ったまま眠っていた。心構えは立派だが、しかしまあ、慣れないことはするものではない。朝になってルーサーはきっちり、横に倒れて熟睡していたことを知った。
ひとかけらのアメジストが寄り添う布団にアイデの姿はない。ルーサーとは反対の位置の壁にくっついて、膝を抱えて丸まっていた。叱られた子どもがすねて動かなくなっているみたいに。窓から入る陽光から身を隠すように。
「起きても平気なのか?」
アイデは一度ルーサーの方を見て、すぐに目を逸らした。目は口程に物を言う。伝わって来たのは、大丈夫だとか、大丈夫じゃないとかではなく、嫌悪だけだった。
ルーサーも身体を起こし、アイデと同じように壁を背にして座った。膝を抱えるのではなく、あぐらで、ゆったりと背を預ける。
「今のおまえは、ソシエか? アイデか?」
「答える義理はないわ」
「アイデか」
言葉遣いと声の調子でしか、ソシエの中身を判断する基準は今のところ存在しない。中性的な顔つきに華奢な体格、声変わりを迎えていない声色。一見しただけでは実際の性別すら見失いそうなほど、ソシエという少年は異性を抱える二重人格の器として“良くできていた”。
その判断基準だって、男性人格であるソシエの方とはまともに話せていないルーサーにはあやふやだ。ただ、昨日から変わらぬとげとげしさをもって、それをアイデだと判断したに過ぎなかった。
美少年兼美少女、|《少年兼少女》こころがふたつ》。深く考えると、これまでの価値観を覆されそうになる。
「よし、アイデ。実はな、おまえとディア・ホープ夫妻、そしてレストソの村の背後関係は昨日話した通り、俺は何となく理解するに至った。が、物語はこれだけじゃない。解決していないピースがいくつか、残っているんだ」
「わたしのことでしょう、どうせ」
「それもある。が、そいつはとりあえず後で良い。なあ、アイデ。ディア・ホープ夫妻が死んだのは、呪いなんかじゃない。いや、そうだな、俺はほとんど呪いじゃないと思っているが、断言はできないか。それじゃあ、呪いなんかじゃないと仮定する。俺が話した呪いの定義、覚えてるか?」
「理不尽な運の悪さ。……でもそれは、あんたの勝手な言い分よ」
「そうかもな。じゃ、聞こうか。おまえはどうして、ディア・ホープ夫妻の死を呪いだと思ったんだ?」
「何度も言わせないで」
毒しか出て来なかったので、言葉の続きはルーサーが保管する。
あの夫妻は腕の立つ魔宝使いだから。
だったはずだから。
既に死んだ人間ながら、その証左は会ったことのないルーサーにさえ難しくない。大襲撃からたったの二人で村を守ったという過去の実績を引っ張って来れば、それで十分だからだ。
何百何千の石魔が、場合によっては宝石魔をも連なって、人間の集落を同時多発的に襲った原因不明の災厄、大襲撃。かの夫妻は、何百何千の石魔を相手にして、村を守り抜く条件をほぼ完璧にこなして勝利した、凄まじい戦績の持ち主だ。
わずか七年前にして、その活躍は伝説となっている。といっても、人の出入りが少なく外に出ていく人間もそういないレストソでは、伝説が表に出ていくことはなかったようだが。
ともかく。
その、レストソを救った伝説の魔宝使いが、そんじょそこらの石魔に負けるなんてことがあるだろうか、という話である。
レストソを襲った石魔の正確な数は不明だが、少なくとも百は下らない。大襲撃は、石魔の奇行が目立った期間でもあった。例えば、ろくな知恵など持たないはずの石魔が“突撃する最低人数をおおまかに決め、それを律儀に守っていた事実”などもその一つである。つまり夫妻は、最小でも百の石魔を打ち破ったことになる。
そんな魔宝使いが、そんじょそこらの石魔に殺されるものか?
「百でダメなら千の石魔に負けたかも知れない、というイフはナシ。石魔は通常群れをつくらない。なのに群れとなり、軍隊のように動いたのも、大襲撃の特異性なんだからな」
たまたま居合わせた石魔が同じ獲物を狙って行動を共にすることは珍しくない。が、そこには何の作為もないし、大襲撃のように百や千の石魔が同じ場所に集まることもない。今の魔宝文明は、魔法文明から切り替わって二千年を数えるが、大襲撃以外にそんな記録はどこにも残されていないのだ。ディア・ホープ夫妻の時に限って例外が発生した可能性はどうしたって否定できないが、ないものとして考えなければ話が進まないので、今は考えない。
「大襲撃にはもう一つ、特異性があった。それは、群れを成す石魔の九割は低級だった、だ。事実、レストソの村を襲った石魔のほとんどは低級だったらしい。夫妻は低級の石魔が相手なら、百や二百をしのげるほどの実力の持ち主だったんだ。
そもそも、大襲撃に限らず、この世界に存在するほとんどの石魔は低級だ。かつ、石魔の等級が上がる条件はかなり解明されていて、想定外に強い石魔というのは確認されにくい。なぜなら、その条件が揃う地域は非常に限定されるからだ。裏を返せば、特定が容易である、隔離が容易である、注意喚起が容易である、という意味でもある。特別に強い石魔の出る地域には、だから人が住んでいない。最初から近づかないし、近づけないし、住もうと思ってよしんば村を作れたとしても長続きはしない。そこを戦線として石魔と戦ったところで、人間は有限で、石魔は人間よりも無限に近いからな」
これは、一般常識の範囲である。当然アイデも知っている。知っているから、アイデも、ウィスも、村の人々も、あのディア・ホープ夫妻の死には納得がいっていない。
「いっていないが、ディア・ホープ夫妻は事実、殺されている。一見すると理不尽だよな。レストソの村は確かに存在しているんだから、この辺りには強い石魔は出ないはず。俺だって、それを調べてからここに来ている。半年前に坑道に入って行方不明になったやつだって、そうじゃないと知っていたからここに来たんだろう。これが人気のない僻地ともなれば、環境が変わっていることもあるかも知れない。けど、ここには小さくとも村がある。人が住んでいる場所の周辺は、そうである以上は安全が約束されているんだ。だって、そうじゃなきゃ人は住めないんだからな。すると、どこからどう見ても、レストソの村近辺は、ディア・ホープ夫妻を殺せる石魔が存在できる環境じゃない」
「でも、いたわ」
「そう、いたんだ。おまえが死にに行き、俺がおまえを助けた場所。レストソの近くの森に、異常に成長した石魔がいた。いないはずの強力な石魔、おまえの言う呪いそのもの」
理不尽である。
有り得ないはずの存在が、確かに森の中にはいたのだから。
ルーサーとは目を合わせないまま、アイデが続ける。一人で布団から出て、部屋の端に行って、まともに喋れるくらいには回復しているらしい。昨日の様子から考えれば急すぎるようにも見えるが、魔宝の使い過ぎによる過労が回復する速度としては、そう驚くほどのことでもなかった。
「それだけじゃない。あの石魔は普通の石魔よりはずっと強かった、と思う。でも、あの人たちを殺すほどじゃなかったようにも思うわ。だって、あんた一人にも負けるような石魔が、伝説を二人も前にして」
勝つなんてことが、有り得るのだろうか。
もっともな疑問だった。
ルーサーが答えられるのは、自分の実力が、石魔を百も二百も相手にして生き残れるほどのものではない、ということだけだ。低級だろうと上級だろうと、百も集まってしまえば関係ない。十や二十の低級なら勝負にもなるだろうが、百や二百を相手に大立ち回りを繰り広げて突破する……いや、村を守って敵を全滅する自信は全くなかった。かの大襲撃で夫妻が戦ったかも知れない石魔の最小数は百。ルーサーが森の中で戦ったのは一。九十九にもなる数の差は、言うまでもなく圧倒的だ。
意地を張るなら、命を投げ出す覚悟で、後のことを何も考えずに戦えば、それぐらいの芸当は可能かも知れない。が、件の強力な石魔相手にルーサー自身が命を燃やすほどの力を振り絞ってはない以上、その仮定に意味はない。
あの石魔は、ちょっと必死なルーサーに負けたのだ。夫婦との比較も、同じ程度のルーサーでなければ意味がない。
「とまあ、話に聞く限り、俺は夫妻よりも弱い。確実にね。で、この事実を下地に推測できる夫妻の死因は二つ。一つは、そんなに強くない石魔ながら、不意打ちで殺した。もう一つは、あの石魔は正面切って夫妻を殺せるほどに強かったけど、その戦いで消耗し、回復する前に俺と戦闘になってしまった。前者なら、アイデに気を取られて俺に気づかなかった石魔の不覚。後者なら、俺に出会った石魔の運が悪かった。早急な回復のために、アイデに食いついて表に出てきた可能性もあるな。何にしたって運がない」
「違う、どっちもおかしいわ。前者は、そもそも知恵のない石魔に不意打ちなんて芸当は不可能。後者は、怪我もしていなかった石魔が弱っていたなんて考えられない」
「さすがに獣程度の知恵はあるよ。人のいる場所に寄り付かないのも、自分の弱さを自覚しているから、自覚できるだけの知能があるからさ。もう一つの方だけど、石魔に傷は残らないんだ。見ての通り、実体があるわけじゃないからな。代わりに、やつらは身体が小さくなる。傷はすぐに塞がるが、その分のエネルギーを補給できなければ小さくなって、弱るんだよ」
特に石魔の傷に関する特性は、実際に石魔と戦ったことが有りでもしなければ知らなくてもおかしくはない。一般教養ではなく、それはどちらかと言えば、石魔に近づく必要のある人間向けの知識なのだ。そうでなければ、石魔には近づくな、で十分に事が済む。
件の石魔が弱っていたにせよ、元から弱かったにせよ、夫妻を殺せてルーサーに殺された石魔の、強さの序列に生じる矛盾はこれで解消される。なるほど、夫婦は石間に殺され得るようだ。が、この答えは問題を解決しなかった。
むしろ、浮き彫りにしたのだった。この事件の最も不可解にして重大な部分が、潮の引いた水底から見えるように、顔を覗かせる。
「いいわ。あの人たちが不覚を取るほどに強い石魔がいた。それをあんたごときが殺せた理由にも納得する。なら、最後の問題。“あの石魔は、どこから来たって言うの?”」
そう、結局はそこに辿り着く。
「さっきあんたの言った通りよ。この辺りには強い石魔なんていなかった。少なくとも、わたしがこの村に来てからは一度だって、大襲撃を除けば、石魔に殺された旅人も村人もいなかった。これは特別なことじゃない。村のある場所、人の集まる場所なら当然の条件よ。それがどうして、昨日になって突然、覆ったって言うの?」
石魔は生き物ではない。低級であっても、存在自体が割りと理不尽な、災害のような敵である。しかし、それはあくまで普通の生物、それまでの常識から考えて突拍子もない、というだけの話だ。
色眼鏡なしに事実だけを並べて見てみると、実は石魔の在り方にもきちんとした法則があって、これらを逸脱しない範囲で行動していると分かる。人間の尺度では測れないが、石魔は石魔で理屈に従って生きているのだ。
むしろ、生き物の枠を軽々と飛び越えたレベルでの理路整然を実現しているからこそ、石魔は石魔以外の全ての生物にとって理不尽である、とも言えるだろう。文字通り、生命の次元が違うわけだ。
ルーサーは立ち上がって、うん、と伸びをする。
「やつがどこから現れたのか。答え合わせは後にしよう。実を言うと、その疑問を解消するのが今日の俺の目標なのさ。さあ、朝ご飯にしようか」
「……は? あんた、散々偉そうに喋っておいて、答えを持ってないの?」
呆れかえったアイデの表情は、ともすれば初めての、つっけんどんではない態度だったかも知れなかった。二階への階段、その一段目に足をかけて、ルーサーは悪びれることなく。
「だから言ったろ。最初に、仮定だ、ってさ」
二階にあがったルーサーは、携帯できる調理器具をいくつかと材料を持って降りてきて、布団を片付けてからリビングに広げた。
直径三十センチメートルほどの鍋に、それを置けるだけの足の長い石台。石の水筒に入った清水と、諸々の野菜、それから骨付き肉。元鉱山というだけあって、海の幸にはあまり縁がない。レストソは中でも内陸深くにつくられた村であり、海まで行こうとすると二つ、三つは町を越えなければならなかった。
石台は上下に二つ、平のテーブルを持っていて、上には鍋を、下には魔宝石をセットするようになっている。料理と言うだけあって、置くのは火の魔宝石。燃え盛る炎を切り取って固めたような緋色の宝石、ガーネットだ。
鍋に水を張り、ぽいぽいと何らかの肉と何らかの野菜を放り込む。放り込んでふたを閉めたところで呪文を唱えると、ガーネットからぼうと火が出た。直径五センチメートル、カラットなら五カラット程度の魔宝石から噴き出たのは、鍋よりも大きな上テーブルを満遍なく熱するほどの大きな炎だった。
そうやってルーサーが準備をし、雑に肉と野菜を煮込み終わるまで、アイデは一言もしゃべらず、ルーサーも呪文以外は言葉を発さなかった。
頃合いを見計らってふたを開けると、火が通って白みがかった肉と、色を濃くした野菜が見えた。煮込んだ、と言っても味付けは塩ぐらいで、まともな煮込み料理ではない。
「まあ、それでいいのさ。こいつは余計なことをすると効果を落とすんだよ」
「効果?」
「食えば分かる」
何かの動物のももと思わしき肉と野菜を皿に取り分け、ルーサーが渡そうとすると、アイデは露骨に怪訝な顔をした。まるで、差し出されたモノが何なのか理解していないような顔だ。
「何」
本当に分かってなかったのか?
「朝ご飯だよ、朝ご飯」
「いらないわ」
「いや、お腹減ってるだろ」
「あんたにそこまでされる筋合いはない。放っておいて」
「命を助けられてそいつは今更だな。大体、食わなきゃ死ぬぞ、おまえ」
「一晩食事を抜いたくらいで餓えて死ぬとでも? 大げさね。もっとマシな言い訳はないの?」
「餓える? ……ああ、あはは、違う違う。何だよ、知らないのか?」
ルーサーは渋々皿を下げて、自分の分のもも肉にかぶりついた。一口、飲み込んでから続ける。
「魔宝の使い過ぎによる衰弱は、簡単に言えば“命の維持に必要な魔力が足りていない状態”だ。昨日おまえが体験した、身体の麻痺と刺激に対する過敏は、その典型的な症状。人間は、というよりこの世のありとあらゆるモノは、その“命の維持に必要な魔力が足りていない状態から自然に回復できないようにできている”んだ」
「……回復、できない?」
「そう。身体が弱っていると、治る怪我も治らないだろ? 怪我が治らないんじゃ、身体は弱ったままだろ? 治らないってのは、現状維持じゃない。怪我ってのは放っておくと悪化するもんだからな。そのまま怪我が悪化するとどうなる? 当然、弱った身体はますます弱っていく。ほら、治らない。治らないどころかどんどん悪くなる始末だ」
弱っているから治らない。治らないから弱っていく。このループの帰結するところは死である。衰弱から始まる悪循環によるこの死を、一般には瓦解死という。
「世界で二番目に有名な魔宝の使い過ぎに起因する死であり、世界で二番目に有名な魔宝の使い過ぎを戒める理由だ。おまえだって知っていたはずだぜ」
「自分が、そうだなんて」
「思わなかったか? まあ、詳しい症状を知っていても、気づくかどうかはまた別か」
「でも、待ってよ。瓦解死には治る方法があるでしょう? 一番目と違って」
「何だよ、治りたいのか? 死にたがっていたくせに」
アイデは言葉を返さず、ぎ、とルーサーを睨んだ。口を滑らせただけよ、という抗議ではない。どちらかと言うと、舐めるな、と噛み付いて来る厳しい視線だった。
「わたしが言っているのはそっちじゃないわ。あんたはまるで、瓦解死は死ぬしかないみたいに言った、それはおかしいってだけよ。だってそうでしょう。瓦解死が死ぬしかしない病なら、わたしは何にもまどろっこしいことをしなくて良かったんだから」
「それもそれでおかしな話なんだが。……まあいい。おまえの言う通り瓦解死は治せる。衰弱のループは要するに、解決する手段を自前で持っていないってだけの話だからな。その解決法の一つが、このもも肉だ」
「……」
「分かったら食え」
「いやよ。そもそも死にたいし、あんたの言っていることだって胡散臭いわ」
「そうかい。残念だ。手荒な真似はしたくなかったんだが」
言うが早いか、ルーサーがアイデを押し倒す。床に叩きつけられて悲鳴をあげたアイデを気遣うでもなく、流れるように身体を乗せてアイデの動きを封じると、その胸に手を当ててルーサーが呪文を唱えた。
「未来を知らぬ君が名の下に」
ルーサーの腕からアイデの身体へ、紫色の光が伝い、染み渡っていく。
「っは……――!」
直後、暴れていたアイデの身体がぴたりと止まった。疲れたわけでもなく、観念したわけでもなく、その証拠にアイデの瞳はルーサーを、それだけで刺し殺せそうなほどに熱く睨んでいるが、身体は動いていない。
動かせていなかった。
にやりと、ルーサーが笑う。
「俺の魔宝属性は地。知っての通り、効果は固化さ。本来は魔力に対して使うものだが、ちょっと応用すれば人間の身体を麻痺させて、無力化できる」
「……!」
「もっとも、相手が極端に弱っているのでもなければ、自分以外の魔力の流入は自然と弾くんだがな。今のおまえが相手なら造作もないってわけだ。さて」
アイデの胸に押し付けた左手は離さず、空いた右手でもも肉を引き千切り、怒りに歪む顔の前に垂らす。
「おまえがこのもも肉を食わないと言うのなら、俺は口移しでだっておまえに食わせる覚悟があるんだが。それでもおまえは、どうだろう、意地を張るかい?」
止めの一言だった。
もはやアイデがルーサーを見る目には、同じ人間を見ていると思わしき様子がどこにもなかった。驚嘆と侮蔑。一対九の割合で侮蔑が優勢であり、止めが一体誰にとっての、何に対して差されたものかも、こうなって来ると不明だった。
お互いにダメージを受けている。
が、ともかく、この意地の張り合いに終止符が打たれたのは事実だ。
そこまでの敵意・軽蔑は同時に、諦めの発露でもあったのだ。抵抗は無駄だと悟った瞬間、屈服と言う形での受容が、相手への憎悪として全身から滲み出た。
アイデは諦めたのだ。
ルーサーが嘘でも冗談でもなく、本気でその選択肢を取る気でいるのだと理解したから、諦めざるを得なかった。
アイデの全身から力が抜けたのを確認して、ルーサーは魔宝を解く。身体を起こし、もも肉を受け取って、素直にそれを口へと運んだ。
仕方なく、救われてやる。
脅されて、救われてやる。
と、言わんばかりにぶっきらぼうに。
「善意も押しつけが過ぎれば」
ん、ともも肉を飲み込んだアイデの口からは、悪よね、との言葉が続いた。
「善を成すのだから善さ」
「当人の意に沿わないのに?」
「死んで良いことなんて一つもないよ」
一般論のようであり、感情論のようである。陳腐に聞こえる一方で、酷く含蓄のある言葉にも聞こえる。平然と言い切るルーサーの表情からは、それをどんな気持ちで言ったのかを読み取ることは困難だった。
多分、一般論なのだ。死のうとする人間を放ってはおけない、というぐらいには。
「死んだことのない人間が、死のうとも思ったこともないような……にん……が、ああ……!」
突然、アイデがあえぎ出す。両腕で自らを抱き、目を見開き、喋れないほどに苦しみ始めた。まるで毒でも盛られて苦しむように。しかしわざわざ確かめずとも、ルーサーにはそれが毒による苦悶ではなく、別の理由から来るものだと分かっていた。
当然である。
当然、そうなると分かっていて、彼はもも肉を差し出したのだから。
「死にかけた身体が、そう易々と、平然と治るとでも思ったのか? 死ぬことだって許してくれない世界が、そんなに優しいわけないじゃないか」
立ち上がり、少し歩いては倒れ、身体を打ち付けると悲鳴をあげる。少しの間のたうち回り、また立ち上がって徘徊する。アイデがじっとしていないのは、じっとしてなど到底いられないほどの激痛が全身を襲っているからだった。
魔宝の過剰使用直後の症状である全身麻痺と痛覚過敏を“動かなければ酷くはならない”受動的な痛みだとするなら、瓦解死を控えた衰弱からの回復に伴う痛みは“黙っていても身体中を突き刺してくる”言わば能動的なそれである。気を紛らわせていなければ気が狂って死ぬかも知れないと、この時ばかりは誰もが本気で考える、身を焼かれるような辛苦。
その内に、異変は形を伴って来る。
「あ、え……?」
ぱりぱりぱり。
顔。腕。胴。手。足。身体の表面に浮き上がって来るものがある。赤く透き通った結晶は、まるで滲み出た血液が凝固していくように広がっていく。
容易く衣服を食い破り、全身を覆っていく。
「嘘、これっ、……て……ぇ!! ね、え、ぇぇ、ちょっと!」
「心配するなよ。そいつは単なる煌化現象だ。急激に回復する魔力が身体から溢れ出て、即座に魔宝石化してるだけだよ。……まあ」
知らない人間が見ればパニックも起こすだろう。
死んで行っているようにしか見えない。あの世界一有名な死因が自分の身で再生されているのだと勘違いしたって仕方がない。
「一時間も辛抱すれば良い」
「痛い、痛い、いたい、いたい……ぃぃ……!!」
とうとう、泣き出した。
というよりも、これまで涙を我慢していたことの方が異常だった。
我慢強いのか、痛みに強いのか、単に弱みを見せたくないのか。
だが、泣き叫ぶというようなことはなく、アイデは倒れて、丸まって、固まっていく自らの身体をぎゅうと抱きしめて、押し殺した悲鳴を漏らすだけだった。
つかず離れず、ルーサーはただ、もも肉を頬張りながらそれを眺めていた。
励ましの言葉をかけてやり、手の一つも握ってやるのが優しさだろう。しかし、当のアイデがそんな優しさを求めているようには思えなかった。これだけの苦痛に見舞われて助けを求めないのが良い証拠だ。声を上げることさえしない。その忍耐力は尋常ではなかった。
大の大人だって耐えられやしない。
この荒治療を食らって叫ばずにいられる人間がどれほどいよう。
そうすると、ルーサーはますます、アイデという二重人格の人間のパーソナリティに興味をそそられるのだった。
……解離性同一性人格障害。
それは大抵の場合、抑圧からの逃避で生まれるモノなのだから。